16話 無常な安息
ただひたすら足に力を込め、八尋は家を目指す。
幸い、まだ夜明けまでは時間が余っているために急ぐ必要は無い。だがあの広場での光景が頭のなかで繰り返されていて気が急いているようで、彼にこの早すぎる車の速度を落とすことはでき無さそうだ。
なんとか事故を起こすこと無く家までたどり着き、すぐさま飛び降りる。誰かに見られる前に素早く粒子を放ってカートを持ち上げた。そのまま空中を移動させながら自室へと戻る。
「ふぅ……」
無事に一仕事を終えて息をつくと、いつの間にか浮かんでいた汗を拭う。まだ下からは音が聞こえてきているために、母親のゾンビは元気に活動中らしい。昼と夜で変わることは無いようだ。
やりたいことを終えたとはいえここでボーッとしているわけにもいかず、八尋は再び家から外へと戻ると、すぐさまアクセルを踏んで車の移動を始めた。
住宅街の中に車など無かったはずで、もし使った車を残してなどいれば怪しまれることは間違いない。ゆえに元にあった場所へまで戻しに行くのだ。少なくとも自分の活動範囲の外へまで。
あの化物たちに加えて人間まで敵にしてはいられないのだ。何より人と戦いたくはない。化物が居るのなら協力すべきではないのかと、そう思えてならない。八尋はまだ、その優しさを捨ててはいないのだ。
「ん?」
口を結び、歯が鳴りそうなほど顎に力を入れてフロントガラスの向こうを眺めていた八尋は、そこに動く陰を発見した。
ただそれが何かと迷ったのは一瞬のことで、彼はすぐさまそれが人では無い何かだと気が付く。
だが彼の知っている小鬼の姿にしては大きい。腕が長く、猫背の上半身の大きさに大して下半身は驚くほど小さい。その細い足をゆっくりと動かしながら、新しく現れた化物は後ろを向いて歩いていた。
八尋が足をアクセルから離すことは無く、車は後ろを向くその化物との距離を凄まじい勢いで縮めていく。
その距離が五十メートルほどになったとき、その化物はふと動きを止めた。
そして小さな頭がゆっくりと振り向き始めて、残り十メートル。その鋭い目に捉えられた八尋は、そこで意識を取り戻すと衝撃に備えて足を踏ん張った。その力で車は更に加速する。今ではブレーキを踏んだほうが危険だと、彼の冷静な頭が言っていたのだ。
その速度が力となって、新しい化物を襲う瞬間、確かに八尋はその化物の鋭い目をフロントガラスの向うに捉えていたのに、消えた。
車体を襲うはずだった衝撃も無く、ただ風を切る音だけを残してそこを通り過ぎた。
「あれ?」
予想外の出来事に、八尋はとぼけた声を漏らした。そして視線はサイドミラーへと移動する。
「避けたのか? この速度を?」
そこには確かに、後頭部に手を添えて頭を振る化物の姿があった。
その顔にはニタリとした笑みが浮かんでいる。まるで自分の獲物を見つけたことを喜ぶかのような、野性的な顔。
八尋の背に悪寒が走った。小鬼とは違う、明らかな知恵を持っているらしき化物。それとの邂逅は八尋の頭の中に新しい警鐘を鳴らしている。
呼称するならば『猿鬼』。きっとあの化物は小鬼などとは比べ物にならない力を持つだろう。そう思わせるほど、化物の佇まいは禍々しい。
今の、長く力を使うこともできない八尋にしてみれば、あの化物を相手にしたくは無かった。だがそんなことを言っていられる時間も長くは続かないはずだ。
なにせ小鬼たちが生まれるさまを見てしまったから。
化け物たちは今この瞬間にも、世界にその数を増やしていることは間違い無い。
ハンドルを左に切ったところで、サイドミラーから猿鬼の姿が消える。追いかけてくるような様子が無かったことに安堵しながら、八尋はなおもエンジンを吹かす。猿鬼が近くにいるところで降りてなどいられない。
心持ち家へと近づきながら、目に入った駐車場へと車を停めた。
「強くならなきゃ……か」
疲労のたまる体にムチを打って車から降りると、八尋は呟く。
言葉もなく襲い掛かってくる化け物たちに対抗するには戦うしか無い。そのための力は、物資とならんで必要となるものだ。どちらか片方が欠けていても、これから生きていくのは難しくなる。
――でも力を手に入れるには……人を殺さなくちゃいけないって。
八尋の中にも眠っているのだろう結晶が、力を手に入れる唯一の方法だ。彼が母親のそれを取り込んだとき風の力に目覚めたように、きっと他の物でも、取り込めば力となって定着してくれるに違いない。
だがあの時は、自分で手を下したわけではなかった。ゴーストがその手に持っていた結晶を奪い取っただけ。
自分で結晶を手に入れるには、きっとゴーストと同じように胸へと手を突き入れ、体の中を探しまわる必要があるはずだ。
八尋にそんなことが出来るはずもなく、しかし力を手に入れなくては生き残れないという現状に挟まれて、彼は思考の深みに沈みながら夜道を歩く。
――母さんもいないこんな場所で、僕に生きる意味は……。
その深淵。闇に囚われそうになったところで、突如、視界の右側が真っ赤に染まった。
続けて爆音。
顔をそちらに向ければ、オレンジ色の炎が踊るように天へと舞い上がっていく。
そして聞こえる――悲鳴。
「なにが……」
と、口にしたところで、すぐに彼は答えに行き着いた。
「あいつらか……」
化け物たちに避難所が見つかったのだ。夜明けを目前にしてこの騒ぎ、それしか考えられはしない。
八尋の脳内に、沙凪美帆の姿が浮かんできて、消える。続けて3人の男。
左右に一度頭を振るうと、八尋はすぐさま走りだした。目的地は、もちろん火の手のあがる方。
その体に白い粒子を纏いながら、八尋は夜道を流星の如く疾走する。