15話 鬼の巣

 30分が経過して、ようやく八尋は調子を取り戻し始めた。
 静まり返った家具屋の中で混濁していた意識がはっきりし始めると、今までは感じなかった肌寒さがやってくる。まだ4月も始め、夜になるとまだ引ききっていない冬の寒さが漂っていた。

 ――いつまでもここにいるわけには……。

 ベッドから目だけを覗かせて外の様子を伺う。その動きを何度も繰り返しているものの、残念ながら動くには至っていない。何度か、足に力を入れてこの場を離れようとはしたものの、毎回運悪く物音がして八尋が動くのを躊躇わせている。
 とはいえ夜が明けるまでここにいるわけにはいかない。敵地のど真ん中に居る現状が変わるわけでもなく、陽が登ることで、力を持ち余裕が生まれている人々が行動を再開してしまうだろう。

 八尋はゆっくりと立ち上がった。傷を負ったものの痛みは引き、違和感だけが残る足を慣らしつつ思念を集中させ、薄く風を広げていく。
 せっかく回復したは良いものの、残念ながらそれを使わずして逃げる方法を彼は思いつかなかったのだ。ただここから離れるだけならと、広がり始めたマップを認識していく。

 ――行ける。

 這いながら家具屋のフェンスをくぐって通路へと戻る。近くに敵の姿はもちろん、マップにも動く空白は感じられない。小鬼たちがいない今は間違いなくチャンスだろう。
 八尋はあえてさっきのエスカレーターのほうへと歩き始めた。

 一歩一歩踏みしめるごとに、後ろのマップが消えて前が現れる。その度に身構えるものだから、その歩みは遅々として進まない。
 だが、その判断は正しかった。

 もうすぐ辿り着こうというところで、白と黒のモノクロで描かれたマップの中に突然空白が現れた。それは間違いなくこちらへと進んできていて、数は10、ほぼ確実に小鬼たちだ。
 即座に進行方向を変更して横に伸びている道へと入る。上から見れば梯子のような形に造られているショッピングモールであるために、進む先を変えたとしても元の場所へ戻るのはそう難しくは無い。前からくる敵に気が付かれないようすぐに奥へと進んでいく。

 突き当りを左に曲がれば、今まで進んでいた通路からは見つからなくなる。
 遠く隣をすれ違う小鬼たちを感じながら、八尋は心持ち足を速めて歩き始めた。周りの店はフェンスが開いていたり閉まっていたりそれぞれで、すぐにでも逃げ込めそうな場所はたくさん見つけられる。多少無茶しても問題はない。

 ただ、力の光だけは彼にとっても必要なものであるために隠すことはできず、そのお陰で緊張はいつまで経っても晴れることはない。そこまで大きな力を使っているわけではないために、光も大きいわけではないことだけが救いだ。

 過ぎ去り、マップから外れていく小鬼たちへの安堵を持ちつつ、その先に現れただだっ広いマップに注目する。そこはイベントをやるときに使われる広場のような場所で、通路から大きくふくらんだ円状を取っていた。
 その中には無数の空白が見受けられる。そこまで大きな物ではない。それこそ、さっきの小鬼たちよりほんの少し大きい程度。

 ――でも動いていない。

 決して空白は移動しない。ほんの少しも動くことはなく、ポツポツと黒い水玉をマップへと映し出している。細かく空間を認識できない八尋は、それらの正体が何かなどわからない。
 どうするべきかと一度立ち止まっていると、再びマップの片隅から動く空白が迫ってくる。後方をうろうろと、開いている店に入っていちいち確認している10の点はきっとさっきの小鬼たちだ。

 前にはホールがあるばかりで横へ繋がる通路は無い。後ろへはもちろん下がれない。
 既に八尋は挟まれていた。

 ――くそっ……前だ。

 それならばまだ危険のない前方へと進むべき。まだ頭痛は始まっていないが、そう長くは保たないはずだ。索敵マップが無ければ迂闊に歩く事もできないわけで、少なくとも戦って力を無駄に消費している場合などでは無い。
 八尋は思い切って駆け出した。自分の身体能力を存分に使って、前へ前へと走る。

 すぐに視界が広がって、広場へと差し掛かる。真っ暗で何も見ることはできず、とにかく壁際を八尋は進んでいく。
 その近くに、空白があった。果たしてそれが何なのかと、薄い光を纏う彼は視線を向ける。

「え?」

 そこにあった物が、八尋の動きを止めた。
 力なく放り出された手、未開かれた目に輝きは無く、なによりその脇腹がごっそりとエグれて白い骨が見えている。
 人の死体。痛々しいどころではないその状態にこみ上げてくるものがあるものの、口から出てくる物の代わりに白い粒子が瞬いて、八尋の精神を一気に冷やした。

 突然八尋の体から漏れだした粒子は、広場を大きく照らす。

「な……んだこれは」

 いくら冷静になったとはいえ、さすがにその光景には圧倒されてしまう。
 マップに映る空白は全て、人の死体だった。
 それぞれどこか体のパーツが失われていて、全て同じように恐怖に飲まれた表情を浮かべている。『何か』に襲われ、食い千切られたのは明らかだ。

 その『何か』が、ゾンビだということも想像に難くない。傷跡がまさに、テレビで見たゾンビによる歯型と同じものだから。
 だがしかし、それでは1つ腑に落ちないことがある。

 ――なぜこいつらは死んだままなのか。

 死者は程なくして立ち上がり、ゾンビとして動き回るはず。傷跡から流れでた血は黒ずみ、死してからそれなりに時間が経っているはずなのに死体は動いていない。
 謎は増えるばかりで、少しも消えてはいかない。世界がこんな事になってしまった理由も、自身に目覚めた力も、何も解ってはいないのに。

「まずい」

 思念に囚われ動きを止めている隙に、後ろからあの耳障りな声が聞こえてくる。脳内に広がるマップに、10の空白が近づいてくる様子が表されていた。さすがに八尋の光が小鬼たちの目に止まってしまったのだろう。
 視線を前に向け、八尋は再び駆けるために足へと力を入れる。そして次の瞬間、思い切って一歩を踏み出すと……ガクンと視界が揺れる。

「なんだ……くそ!」

 下に向けた視線の中に、自分の足を掴む死体が映る。動いているのは手だけで、その他は不気味なほど動いている様子は無い。その力強さたるや凄まじく、ジタバタと体を動かすだけではびくともしない。
 仕方無く、既に気が付かれているのならと、風の操作を始める。それでも脳への負担が少なくなるよう力の規模は最小限に。薄く速く回転させることで死体の腕を切断しようとした瞬間。

 死体の脇腹の傷がぱっくりと開いた。その中から、細い枝のような腕が突き出してくる。
 次は尖った角。醜悪な顔。薄黒い体。小鬼だ。
 小鬼が、人間の死体から這い出してきた。と思えば、今まで形を保っていた死者の体は粒子となって消え去っていく。

「それ!」

 自身を拘束するものが無くなって、持て余した風の刃をたった今生まれた小鬼の頭へとぶつける。
 ブシュゥと生々しい音がして、小鬼の頭に切れ込みが入った。それを横目で確認しながら、彼は10の敵から逃げるように前へと駈け出した。

 後ろで、幾つもの小鬼が生まれる音が聞こえる。決して動くことの無かったマップの空白が、小さな動きを見せ始めた。それらを越えて、10の小鬼はなお八尋目指して小さな足を精一杯動かし追いかけてくる。
 だが貧弱な足では決して、八尋に追いつくことはできないだろう。

 呆気無い。
 呆気ないほど簡単に、八尋はエスカレーターへと辿り着いた。近くに放置されているカートには目もくれず、この化物の巣窟となり始めたショッピングモールを脱出すべく段を駆け上がる。

 追手は無い。既に纏っていた粒子も消え、八尋の脳内に広がっていたマップも失われた。
 今回は疲労も大きくはなく、車へと飛び乗った彼はすぐにエンジンをかけてアクセルを踏んだ。

相羽 桂
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相羽 桂

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