行く先は三九郎の組まれた田んぼとは正反対にある竜妻池らしい。あぜ道の果てに、池の土手が見えてきていた。辺りはすっかり夜になり、池の向こうの山とそのふもとの土手はさらに黒々とそびえている。ところどころほの明るく見えるのは、残った雪だ。
「やっちゃん、竜妻池になにがあるの?」
「……出るはずなんだ」
「出るって、何が?」
 あっさり言う泰之に、英介は言いようのない不安を覚える。
 もしかしたら、彼はとんでもない所に連れて行こうとしているのではないか。ひょっとしたら英介が知らないだけで、竜妻池には恐ろしい謂われでもあるのかもしれない。 
急にそら恐ろしくなった。
「お化けとか……?」
 おそるおそる聞いてみると、泰之はからからと笑い飛ばした。
「お化けなんかいるはずないだろ。コドモだな、英介は」
「……同い年じゃないか」
「そんなものはいないよ。昔は養殖場だったらしいから、生き残りのコイはいるけどさ。ああ、保育園のころ、あそこのコイは人食いゴイだって聞いたことある」
「……マジかよ」
 確かに、あの池には時々はねる魚がいる。ブラックバスだったらずいぶん大物だとは思っていたけれど。
「そ、そうなの」
 情けないことに声が震えていた。それを感じたのか泰之は立ち止まり、振り返った。
「怖いのか?」
 反射的にかぶりを振る。声を出さなかったのは、奥歯をかみしめていたからだ。そうでもしていないと、がちがちと歯のぶつかる音が聞こえてしまいそうだったから。
「昔の話だけどさ、町内のちょっとボケたおばあさんが散歩に出たまま帰らなくて、大騒ぎになって町中で探して、この池を見に来た青年団の人が、サンダルとおばあさんの着てた服のきれっぱしが浮いてるのを見つけて。それで池をさらったけど、見つかったのは、頭蓋骨の一部だけだったって。骨までここのコイが食い尽くしたんだって、みんなウワサしたんだ」
「もういいよ!」
 最後まで聞いておいて言うのもおかしいが、英介は悲鳴を上げていた。秋にはあそこで釣りをしたのに。そんな恐ろしいモノがいるなんて知っていたら絶対にしなかった。
 英介をのぞきこむように首を傾げていた泰之は、いきなり弾けるように笑い出した。
「素直に信じるなよ、こんな話。ばかだなあ」
 からかわれたのだと気付いて、英介は赤くなった。かなり暗くなってきているから見えないことが救いだった。
「だって、マジメな顔して話すんだもん」
「ジョーズじゃあるまいし、そんなコイがいるわけないよ。もし本当にいるなら、もっと大騒ぎになるだろ、テレビとかで。それに学校でも注意するだろうし」
 言われてみればその通りだ。
 ブラックバス釣りのシーズン中は、他の小学生や、時には高校生くらいの少年たちが釣りをしているのを見かけたものだ。
「だったら、何が出るっていうんだよ」
 あっさり信じて怖がってしまったことが照れくさくて、わざと乱暴に問い掛ける。すると、今度は空を指差した。
「ほら、もう明るい」
 池の後ろの山がぼんやりと光をにじませている。
「月だよ」
「それくらい、判るって」
「今日は満月なんだ」
 英介の問いかけには答えず泰之は再び歩き出す。訳も判らず、あわてて英介も追った。もう土手は目の前だ。
片手に枝を持ちながら泰之は器用に斜面を登っていく。英介は雪で濡れた地面に足を取られながらも、どうにかついていくと、登りきった泰之が手を差し伸べてくれた。
「ありがと」
 引っ張ってもらって土手の上に出ると、目の前には白い池が広がっていた。
「すげえ、きれい」
 思わず声をあげ、しばらく英介はみとれた。
 薄く氷の張った水面は雪をかぶり、ケーキに振りかけた粉砂糖みたいで、氷の粒が月光を受けてきらきらしている。初めて見る幻想的な光景だった。
 泰之は転がっていた石を拾いあげ、凍りついた池に放り投げる。英介の手にもすっぽり入ってしまいそうなサイズのその石は何の抵抗もなく氷を割り、沈んでいった。
 石の落ちたところだけ、小さく黒い穴ができた。
 英介は手ごろな石を見つけて座る。二人の間は五、六歩分離れたので、少し声を張り上げるようにして話す。
「ところで、満月だから何なんだよ? ここに来ると何かあるわけ?」
「今何時だ?」
 池に背を向けると、英介の問いは聞こえなかったかのように泰之は時間を尋ねた。相手の姿はかろうじて判るものの、もう顔までは見えない。陽はすっかり落ちて、西山の稜線も藍色の夜空に溶けてもう判らない。
「もうすぐ六時」
 去年の誕生日に義父が買ってくれた、宝物のベビーGで時刻を確かめる。
「じきに点火するぞ」
 泰之は眼下に広がる水田を指した。彼方を走る国道の方の明かりで三九郎のシルエットは見て取れた。
 三角錐形のやぐらは各家庭から集めた門松や注連飾りを派手にちりばめてあるが、中身はほとんどわらである。芯棒のてっぺんに差してあるのは大きなダルマだ。
 ぽっとオレンジ色の光が現れ、見る間に五つ六つと増えると三九郎の周りを囲んだ。
「始まった」
 泰之の言葉が合図だったかのように、火が付けられる。一瞬消えたかと見えた火は、三九郎の内側からあっという間に燃え上がった。
 巨大な火柱は夜空に向けて勢いよく炎を上げ、周りに集う人々もはっきりと照らし出した。それまで何も見えなかったところに、柳の枝を手にした小学生たちがいる。
 ひとしきり燃えて、芯棒が倒れた。火の粉が舞い上がり、近くにいた子どもたちが逃げ惑う。
「もう終わり?」
「あとはあの火でこの団子を焼く。それだけだよ」
 泰之の揺らす繭玉がすぐ近くに来た。
 準備にかけた時間のことを思うと、あまりにあっけなくて少しがっかりした。都会から来て初めて経験する行事に、過大な期待を抱いていたのに。
「こんなもんだよ。そんなに期待するほど大したことするわけじゃない」
 英介の落胆を読み取ったかのように泰之は笑った。月が顔をのぞかせたおかげではっきり姿も表情も見える。小さくなった炎を眺め、彼は鼻唄でも歌いだしそうな顔つきだった。
「で、ここでどうするんだよ? あっちは終わったみたいだし」
「こんな月の晩には出てくるんだ。雪ん子が」
「雪ん子?」
 泰之はふざけている様子もなく、手にした枝をぶらぶらと揺らしながら話し続けた。
「昔、母ちゃんやばあちゃんが話してくれた。こういう、人が入れない広い場所は雪ん子が遊ぶ場所だって。雪ん子は見た目は可愛いけど、気まぐれで残酷だから自分たちの居場所に人間がいるのを見つけたら、どこか知らない世界へ連れてって放り出しちゃうんだ」
 そんなおとぎ話、英介は聞いたことがない。けれど三九郎だって横浜にいたときは未知の行事だったのだ。そういう話もあるのかもしれないと思った。
「そんな怖いモノ、わざわざ会いたくないじゃん」
「そりゃ英介は普通の家の子だからさ」
「普通じゃないよ、ウチ再婚だもん。今の父さんはホントの父さんじゃないんだ」
 普通、と言われたのについムキになって思わずそんなことで張り合ってしまった。今まで父親と血のつながりがないことは泰之にも言ってなかったので、彼は意外そうな顔をした。
「そうなのか? でも、仲良いじゃないか。母さんがうるさくていやだっていうのはよく聞くけど」
「うん。どっちかっていうと、ホントの親子じゃないけど父さんの方が好きだ」
「それでも、まだ普通だろ。うちはばあちゃんと二人だし……ばあちゃんて言ってるけど、本当はひいばあちゃんなんだ」
 英介は驚いて目をぱちぱちさせた。自分の祖母と比べるとずいぶん年寄りだとは思っていたけれど。何より、泰之が家のことをこんなに話すのは初めてなので、黙って聞いた。
「俺の父ちゃんは、ケームショにいる。母ちゃんとばあちゃんを殺したんだって。俺、まだ小さかったからよく覚えてないけどな」
「…………」
 どんな言葉をかけていいか、全く見当もつかず、英介は意味もなく足をぶらつかせだした。聞いてはいけないことを聞かされているようで、居心地が悪い。
「気にすんなよ。学校の奴らだって知ってる奴は知ってる。前は浩太もそれでよくいじめてきたけど、相手にしないでいたらそのうちかまってこなくなった……やっぱり気味悪いか?」
 最後の言葉が自分にかけられていると判るまでに、少し時間がかかった。
 気味が悪いとは、思わなかった。
 彼の話が本当のことだとしても、泰之が罪を犯したのではないし、彼の両親は全く知らないし、そんな事件も知らない。だから、『昔、日本でも戦争をしていた』という教科書に書いてある出来事くらいにしか思えないのだ。
 でもそれをうまく言葉にできなくて、ただかぶりを振ってみせるのが精一杯だった。
「無理すんなよ」
 泰之が笑う。大人だったらこれでなんとなく納得してくれるけれど、やはり彼には通用しないらしい。
「それで? 雪ん子がどうつながるんだよ」
 今までより大きく足をぶらつかせて聞く。
こうでもしていないと、居たたまれない気分だった。
「だからさ、俺は雪ん子に見つけてもらいに来たんだ」

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