今日は柳の枝は手にしていないけれど、目の前に広がる竜妻池はあの時と同じように、薄氷の上にうっすらと雪を載せ、ひそやかにたたずんでいた。
 走り詰めてきた英介は池のほとりで止まり、弾んだ呼吸を整えた。手をついた膝はがくがくと震えている。
 ようやく人心地ついた英介は正面にそびえる山を見上げた。山の端の一部がぼうと薄金色ににじんでいる。月の出が間近い。
「やっちゃん……」
 五年前、友人が消えた池に向けてそっとつぶやいてみる。答えは当然のごとくなかった。

 あの三九郎の晩、町内は大騒ぎになった。
 池のほとりに繭玉がささった柳の枝が落ちていたことから、池の底までさらったが、泰之の痕跡はまったく見つからなかった。
 一緒にいた英介は当然、しつこいほど事情を聞かれたが、知らないの一点張りで押し通した。自分の見たことを説明したって信じてくれないだろうことは、子ども心にも判っていたのだ。
「ゆきんこが……」
 大人たちが混乱する状況の中でひと言、思わず呟くと、聞きつけた泰之の曾祖母はすべてを納得したような顔をして英介に尋ねてきた。
「おまえさん、見たんかの?」
 事実を確認するだけのような淡々とした口調も恐ろしくて、震えながらうなづく。
僕だけ逃げてきちゃったから。どうしてやっちゃんを置いてきたのかって怒られる。
力ずくでも引っ張ってくればよかったんだ、と強烈な後悔に見舞われていた。
 しかし泰之の曾祖母は穏やかな表情を崩さなかった。
「よくまあ、おまえさんが無事だったの。よかったわい」
 それを聞いた途端、英介は声を上げて泣き出してしまった。曾祖母は幼児をあやすように背中を撫でてくれた。
「ええんじゃよ、ええんじゃ。あの子はきっと、これでええと思っていたんじゃろ」
 ゆっくりとさする老婆の手は、英介のざわついていた気持ちをずいぶんと鎮めてくれた。
 泰之が見つからないことを周囲は気の毒がっていたが、彼女はことさら悲嘆に暮れるでもなく、それまでと変わらず日々を過ごしていた。
 だから雪ん子のことは他の大人には絶対に話すことなく、英介はずっと胸にしまいこむことにしたのだ。

 六年生になって、市の図書館で古い新聞を調べられると知って英介は、時間をかけてそれを探し出した。
英介が四歳の年にこの田舎町を騒然とさせた殺人事件が確かにあった。夫が妻とその母親を包丁で刺し、すぐに逮捕されている。名前は出ていなかったけれど、事件当時保育園に行っていて留守だった長男というのが泰之だろう。
殺人にまで発展した口論の原因は、妻の浮気を疑った末、とあったが、今となっては真実など判りはしないし、英介にとってはそんな大人の世界の事情はどうでもよかった。
 あれからずっと考えていたのは、どうして泰之は雪ん子に連れて行って欲しかったのか、ということだった。
 やっちゃんはきっと、現実から逃げたかったんだ。
 あの年齢にしては落ち着いていたけれど、辛い現実のなかで傷ついて生きていたのだと、今になって英介にも理解できるようになった。
 雪ん子とは、そんな生きていても辛いばかりの人間を助けてくれるもの――それを妖怪というのか妖精というのか、よく判らないけれど――ではないかと、何年もかけて自分なりに結論づけた。
 浩太のグループとは相変わらずなじめないまま中学に進んだ。友達の少ない英介には、そんなことを考える時間はいくらでもあったのだ。
 その後、泰之の曾祖母に雪ん子の話を詳しく聞いてみようともしたが、何となく聞きそびれているうちに、中学に入学した年の夏、救急車で運ばれて行ったきり、帰らぬ人となった。大人たちの話を聞くともなしに聞いたところでは、心筋梗塞だという。
見た目よりはかなり高齢だったようで、葬儀は悲壮感に満ちたものではなく、形式的に執り行われた。
 母親に連れられて線香をあげに行ったときに見た曾祖母の遺影は、英介に笑いかけているように見えた。

 そして今夜は、英介も一大決心をしてここへ来たのだ。
「やっちゃん、俺もそっちへ行きたい。出てきてよ」
 丸いお盆みたいな月が完全に顔をのぞかせた。凍った水面は、その光を浴びて五年前と同じように神秘的に輝いている。
 月光に照らされた自分の手にまだ血のりがついているような気がして、あわててブルゾンのポケットにつっこんだ。
 やがて池の中央に、小さな生き物のようなものの群れが現れた。あの時と同じ、こしょこしょと囁きあうような音も確かに聞こえる。
「おーい、ここに、人間がいるぞ!」
 英介はわざと大声を張り上げて呼んだ。振り向いた群れが一直線に向かってくる。
 集まってきた雪ん子たちは、あの時と同じ、やはり一様に子どもの落書きのような愉快な顔つきだ。
 突如、そのなかの一匹が泰之の声で語りかけてきた。
「だめだよ、英介」
「やっちゃん! やっぱりいたんだ」
 懐かしい声に思わず駆け寄ろうとしたが、続く冷たい言葉に、立ちすくんでしまった。
「お前は、連れていけない」
「ど、どういうことだよ」
「英介には、雪ん子になれる資格はないってことだ」
「だから、どうして? こうしてみんなの姿を見ているじゃないか。連れて行けよ、どこか見も知らぬ世界でも何でも、放り出してくれよ!」
 言いながら背中に冷たい汗を感じていた。
 今さらそんなことを言われても困る。英介にはもう、この現実世界にとどまるつもりはさらさらないのに。
「雪ん子っていうのは、確かにこの世で辛い目に遭ってきた者のなれの果てだよ。でも、それには条件がある。自分自身の力ではどうにもできずにそんな環境にさらされたっていうのが肝心なんだ」
「なんで……俺がダメだって……」
 聞き返した声は弱々しく震えた。全てお見通しなのかと思うと、空恐ろしかった。
「自分で罪を犯した奴はダメなんだよ、英介」
「し、仕方ないだろ。母さんの言い方ががあんまりひどいから。父さんだって一生懸命やってくれてるのに、八つ当たりばかりして……俺はそんなの毎日見てて、本当にもう限界だったんだ!」
 世間で日々起こる、身勝手な少年犯罪なんかとは断じて違う。大好きな義父のためにしたことなのだ。だから。
「言い訳だ。実の親を手にかけて、それは通用しない」
 英介の胸のうちまで読み取ったように、泰之の声は言い切った。
 膝の力がすとん、と抜けて英介はその場に座り込んだ。じわり、と腰から冷気が這い上がってくる。
「お前は、この世で罪を償わなくちゃいけない。だから今は、連れて行けない」
 その言葉を潮に、雪ん子たちは再び池の中央へと移動して行った。
「久しぶりに会えて、嬉しかったよ。英介」
 泰之の声はそれで途絶えた。
「そんな! やっちゃん、おいて行くなよ!」
 叫びは虚しく池の上を滑る。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。
その音がまっすぐ自分に迫ってくるような気がして、英介はうずくまったまま泣いた。
 青白い月光だけが、何も変わらず池と山とを照らしている。氷の表面を覆う粉砂糖のような雪はただ、きらめいていた。

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