プロローグ ―海斗
単調な音の響きを聞き流しながら、窓の先に広がっている海を眺めていた。
ちっぽけなオレ達を覆いつくすような青の境界線。
水平線と呼ばれる海と空の境目は、いつか本当に交わってしまうような錯覚さえ覚える。
どこからが海で。どこからが空なのか。
目と鼻の先に広がっているものは確かなものであるのに、自分の感覚が不確かになるような。
そんな膨大すぎてつかみようもない感覚が、意味もなくオレの視線をつかんで離さない。
「――……」
どこからか、声が聞こえた気がした。
声の方向を探そうと振り向いてみれば、そこにもまた同じ光景が広がっている。
そもそも、オレはどこにいるのか。
どこからこの世界を見ていたのだったか。
いつの間にか、水面を立っているようだった。
一面の青。鏡のように研ぎ澄まされた美しさと底のない昏さをたたえたこの世界は、感覚というものを全て塗りつぶす。
「――?」
またも聞こえる声。
それは水の中から聞こえるもののように曖昧で、不確かで。
だけど、オレの知っている誰かのような気がした。
それまで麻痺していた感覚が戻っていくように、どこか歯がゆさを伴った思考が頭の隅をかすめていく。
誰を、知っているのだろう?
一体どうして、ここにいるのだろう?
「……――」
そっと突き抜けていく声は、誰かを呼んでいるような気がする。
どこか困っているような。どこか心配しているような。
誰を?
この場にいるのは、オレだけ。
深い青に溶けてしまいそうな自分は、誰だろうか。
耳を澄ませる。溺れかけている意識を、少しでも耳に傾ける。
そうすれば……!
「榊海斗ォ!!」
あれ?
想像していたよりもひどく荒々しい声が、オレの意識と背筋を叩き起こした。
「ぅ、うわああっ!?」
どずん、と。かなり重々しい音を立てて世界が一回転した。
立ち上がろうとしたその反動で後ろにぶっ倒れたらしく、したたかに打った後頭部が痛い。
あちゃあ、という聞き慣れた声が隣から聞こえた気がする。
オレを見下ろしているのは多数のクラスメイトと、眉間に皺を寄せている教師だ。
どうやら、授業中に眠っていたらしい。
「あ、あれ?」
「お、ま、え、はぁああ!?ここ最近の体たらくと言ったら!」
雷が落ちた。
そういうレベルの説教というのは現代にも未だにあるらしい。
そんなことどうでも良いことを、オレの頭はぼんやりと考えていた。
しばらく後、授業の終了という形で説教は終わってくれた。
ただ、そのあとやってくるクラスメイトの奇異の視線からは逃れることはできない。
「お前、よくもまああの鬼先生の前で寝てたな?」
「うんにゃ、別に寝ようと思ってたわけじゃないんだけどなー」
「ははは!まあ、そりゃそうだよな!でもま、いい寝顔してたぞ?なぁ?」
言いつつ話が振られたのは、隣の席に座る住人だ。
ほんの少しいたたまれず、そちらを見ないようにしていたが、こうして話の輪に入れられてしまうと意識せざるを得ない。
「そうね、見てる分には良いけれど、心臓に良いものではなかったわ」
ほんの少しだけ、呆れたような溜息が聞こえた。
ゆったりと微笑むその少女に目を奪われないヤツはいないだろう。
美海奈留。オレの幼馴染で、クラスで一番の人気者だ。
少し伸びすぎな気がしないでもない髪は栗色で、整った目鼻立ちに紅玉のような瞳。
「しかも、声をかけても起きないんだもの、本当は死んでるんじゃないかって思ったわ」
「いや、流石に死にはしねえだろ」
「ふむ……さて、どうかしらね。確かに事象としては不成立なようだけれど、果たしてそれは真実なのかしら」
あ。
と、奈留に目を向けていた全ての人物が胸の中で呟いただろう。
そうして向けられるのは好奇と興味の視線だ。
奈留という少女は考えていることを口にしながら物事を整理していく。
わずかに指す陽光に照らされた髪が、わずかに煌めいている。
その姿は、おそらくこの世界で誰よりも美しかった。
「自重で呼吸ができない人の例があるように、呼吸器を自分の腕で完全に塞いでしまえば、窒息を起こす可能性もあるし、眠る体勢によっては呼吸そのものを阻害して酸欠を引き起こす可能性だってある。そのとき、何らかの拍子、あるいはショックで死に至る……考えてみると、寝る行為というのはかなりの危険を伴うのね」
……まったくもって意味がわかりません。
いやというか、マジでなんなんだよ、コイツの頭の回転の速さは。
「寝ると危ないってよ!ははは!海斗も気をつけねぇとなぁ!」
「いって!痛いって!わかったから背中を叩くな!」
かなり加減なく叩かれたおかげでかなり痛い。
だが、おかげで少しは気持ちが落ち着いてきた。
「お前らな、もう少し加減をしろってんだ」
ほどよく騒がしい教室は今日も変わらない。
バカやって駄弁って、彼女がどうとかニュースがどうだとか、そんなくだらない話をする。
「それにしても、一輝ちゃんはどうしたのかしらね」
ただ、ぽつりと奈留の漏らした言葉だけは、そんな騒がしさに描き消えることはなかった。