プロローグ ―怜雄
目が覚めようとする僅か一瞬、微かながらに誰かの姿が見える気がした。
その正体を確かめようとして手を伸ばそうとして、ふとその正体が夢であると悟ってしまう。
そうした途端、身体が重力を思い出したように身動きが取れなくなる。
おぼろげになる霧のような何か。
それを掴もうと必死に思考の糸を手繰りよせようとしたところで、もはや指先さえ動くことはなかった。
……そうして、意識が覚醒していく。
「この言いようもない感覚は……酷く具合の悪いものだな」
思考を振り払うように起き上がり、周囲を見渡す。瞼を閉じなくとも暗い。
おぼろげな記憶が確かなら、ここは宮島の地下のはずだが……不思議なほど見覚えのない空間だ。
まだほんのりと睡魔が頭に霞をかけているのか、記憶と合致しない現実がわずかにもどかしい。
未だおぼろげな記憶を頼りに、出口を探そうとする。
「……っ、」
とっさに壁際に倒れ込み、どうにか転倒だけは防ぐ。
歩き出そうとしただけだというのに、自覚してみれば鉛のように身体が重たい。
どうやら、かなりの低血圧になっているようだ。
暗がりではあるが、目立った外傷は特に見受けられない。
壁に体重を預けつつ、やけに舗装されている空間を道沿いに進んでいく。
ほどなくして出口を見つけ、多少はマシになってきた身体を引きずるように外へ出た。
そんなオレを出迎えたのは一面の青と朽ち果てた世界だった。
「――……」
寂寞を漂わせる光景に、思わず息が漏れる。
目の前に広がっているのは、人という種族がいなくなった世界なのだろう。
数年前までは悠々と林立していただろうビルの多くはところどころが剥がれ落ち、鉄骨がむき出しになっている。
その鉄骨を這うように生えるのはツタのような植物だ。
わずかに踏み出してみれば、いつ崩れるともわからないような道路ばかりだった。
見慣れない光景。知らない世界が広がっている。
だが、ここが宮島であることは間違いのないはずだ。
自分でも処理しきれない困惑と食い違いを不審に思いつつ、もうしばらく探索を続けるか迷う。
「おい、そこの」
聞こえた声に、ほんのわずか振り返る。知らない相手だった。
おそらく自分より二回りほどは小さい少女が、誰かを睨みつけている。
猫のような少女だ。少しクセのある髪は柔らかで、琥珀の瞳は戦意そのものを飲み込むような力強さをたたえていた。
もしかすると、呼び止めたのはオレではないのかも知れない。
視線の方向を追ってみるが、誰もいない。ふむ。
「いやお前、この場にはお前しかいないぞ」
「そうか。それは不用心なことをした」
形式上、謝っておく。
こうした心遣いが出来ないと人とは不仲になりやすい……そんなことを、誰から教えてもらったのか。
思案の海へ潜ろうとするところを、少女の問いが引き留めた。
「アンタ、こんなところで何をしているんだ?」
「出口を求めてここに辿り着いた、そんなところだ」
「は、はぁ?」
何を言っているのかわからない、という表情だ。
おかしい。分かりやすく簡潔な説明ができたはずだが。
「あー……アンタ、ここがどこかは知ってるよな?」
「宮島ではないのか」
「いや、そう言われるとそうなんだが、そうじゃなくてだな」
どうやら言いたいことが上手く言葉にできずにいるようだ。
とはいっても、彼女が何を考えているのかはわかるはずもない。
あー、とかうー、と悩んでいる彼女を待つこと数分、ようやく目的の言葉が見つかったようだ。
……蛇足だが、彼女は考えることが苦手なように見える。
「この島は新市街と旧市街に分かれてる、んで、ここが旧市街であること、アンタは知ってるか?」
「いや、初耳だ。少なくとも、そう呼ばれていた記憶はない」
じゃあ観光客が迷い込んだのか?と、腕を組んで考える少女。
しかし困ったことになった。
冷静に状況を整理してみればこちらの不審な点は多い。
だが不幸中の幸いと言うべきか、彼女はそれに気づいていない。
となれば、このまま何事も起きないまま場を収めた方が良いだろう。
「特に何もないなら、少しここを探索したいのだが」
「ん?ああ、引き留めて悪かった。それじゃあな」
じっと見つめられている気がしたが、気にせず踵を返して一歩でも早くこの場から離脱することに努める。
「おい」
しかし、酷薄な希望は断ち切られた。
ゆっくりと死刑宣告でもするように、彼女は先程よりも距離を詰めてきた。
もし攻撃されるなら、最低でも一撃は貰う覚悟をせねばならない。
「ケガ、してるのか?」
……。
思ってもない言葉に、それまでの警戒が全て解けてしまった。
いや、彼女に最初から戦意はなかったんだろう。
強いてその感情を言い表すならば、不審な相手に対する敵対心、そんなところだ。
「どうしてそう思う?」
「ほんの少し、重心が右に寄ってる気がしてな。あ、余計なお節介、だったか?」
たぶん、誰かに優しくする機会に恵まれてないのだろう。
どこか不器用さの残る声に、オレは何を感じたのか。
「問題ない。それに、心配されるほど酷いケガではない……だから、気にするな」
「なら良いんだ……アンタはどっかのバカみたいに、これくらい平気だって言わなさそうだからな」
広大な海と青空を背負いながら遠くを見つめて笑う彼女は、どことなく寂しそうに見える。
そう見えてしまうのは、気のせいかも知れないが。
「二度も引き留めて悪かった。また会えるんだったら、そのうちな」
そう言って、彼女は踵を返してどこかへと走り去っていく。
その小柄な体に似合う俊敏さと軽快さで、廃ビルの影へと消えていった。
ここから見上げる太陽は、ようやく南へと差し掛かった時分だった。