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週末の、今日くらいは頑張ってみようか、というやる気の上に、俺の場合は疑問の解消という能動的行動理由が重なり、目覚めは快調だった。
いつもどおりの時間に登校し、カバンの中身を片した俺は、いつもとは違う行動を起こした。席で空けるというルーティンを打ち捨て、教室の外へ飛び出したのである。
向かう先はもちろんC組。俺がA組だから、教室ひとつ分離れた位置にある。
B組の前を歩き、数十歩数えたところでC組の手前にたどり着いた。
中の様子を見てみると、予想通り生徒たちはめいめいに輪を作って談話していた。その中で目的の人物を探す。
身長は163センチだったか。となると女子の中では上背のある方だろう。髪はロングだが、ロングの髪の女子などいくらでもいる、髪型ではすぐには判別できない。コンタクト装用との事だったので眼鏡で判断することもできない。
と少々困りつつ視線を移していると、何の事はない、教室のほぼ中心に、件の人物はいた。遠目で、席に座っているため身長はわかりづらいが、ロングの髪と、容色良い横顔でピンときた。眼鏡はしていないが、その秀でた目鼻立ちはよく見れば面影と一致する。
部長は――三日月は、席に座って読書をしていた。一人で。
文庫本を開いて、首を少し傾けていた。独りで。
クラスの皆が、グループを作って言葉を交している中で。ひとりで。
三日月の周りには人がいない。
三日月の周りには言葉がない。
三日月の周りには笑いがない。
――三日月の周りは、空白だ。
まるで、クラス全体が近づくのを躊躇っているかのように、三日月の周りには人がいなかった。
俺は登校する生徒の奇異の視線をひたすらに無視して、SHRぎりぎりまでC組の手前で居座った。
※
一時限の後に悠に話しかけられたが、それをかわしてC組を見に行った。すると、三日月が女子生徒に話しかけられているところを目撃した。しかし女子生徒は、「これ、お願いします」と言ってプリントを三日月の机に置くと、そそくさと立ち去っていってしまった。
三日月はプリントを渡された時、こちらまで気の良い態度を取らなければならないような、互いに息苦しくなりそうな、相手に厚い壁を押し付けるような輝く笑顔で応対していた。それはまるで、自分を守るため必死に外敵を遠ざけているような、ある一定の距離から外界を遮断するべく堅固に扉を閉じているような、そんな頑な意思が感じられ、扉越しに微かに聞こえるささやき声のように心に響いてきた。
おそらく、クラス委員の仕事だろう。プリントを集めて担当教師に持っていくのだと思われる。
そのあと何人かが三日月の机にプリントを置いていったが、二言以上言葉を交わしている様子は一度も見られなかった。
※
二時限後に悠に捕まり、昨日の一件について話さざるを得なくなった。俺は、あのあと部長と別れたことを話し、昨日、帰宅してから考えたことを掻い摘んで説明した。悠は、「多重人格のことはよくわからないけど……」と肩をすくめ、「でも要約すると、騙されたけどそこに悪意はない、って、そう言いたいんだよね?」と自分なりに要領を掴んだようだった。
俺が返事をすると、悠は全幅の信頼を置いている、とでも言わんばかりの表情を作り、こう言った。
「じゃあ、禎生のしたいようにすればいいよ。うん、それが一番だと思う。だって、本当の三日月さんを知ってるのは、禎生しかいないんだから」
俺はその言葉に少し気圧されてしまって、それでも、
「いや、どっちが本当かはまだわからないんだけどな」
と訂正してやった。そして、「あ、そうだっけ……」という悠に対し、訊かなくてはならないことを質問した。
「お前、昨日の放課後に俺の名前教えたろ? 部長に」
悠は一瞬きょとんして、
「え? うん、教えたけど……。それがどうしたの?」
なんて答える悠に若干呆れながら、
「いや、どうしたもこうしたもないけど、なんで教えたんだよ?」
と訊くと悠はばつが悪そうに、
「それが……その時は三日月さんだと思ってなかったから、禎生のこと気になってる眼鏡女子が現れたと思って……」
それを聞いて俺はため息をついた。
「そういうことか。まあ、なんとなくそんな気はしてたけど……」
ごめん、と小さくなる悠を尻目に、一つ謎が解けた中途半端な快哉を感じた。
※
三時限後の休み時間は、三日月に変化はなかった。端的に言うと、一人で読書をしていたわけだ。
昼休みにC組に行くと、三日月は弁当を持って席を立ち、教室を出て行った。距離を保ちながら付いて行くと、三日月は教室棟を出て体育館に到着した。しかし体育館には入らず、グラウンド側の側面とは反対――景観を調えるための樹木や茂みなどしかない、影になっている側面に沿って進み始めた。平たく言うと、グラウンドから見て裏側、体育館の後ろの方へ入っていったのである。
俺は部長に付いていかず、体育館の影に隠れて様子を見た。
部長は、いつも開かれない扉の前で止まり、手前にある階段に腰掛けた。
そして、膝上で小さな弁当箱の包みを解き、箱を開けて箸を取り出し、ゆっくりと手を合わせた。
遠目に見ても、あの量で足りるのだろうか、と心配になるが、問題はそこではない。
部長は、毎日あの場所で昼食を摂っているのだろうか。そうだとして、雨の日はどうしているのだろう。一人になれる他の場所で食を摂っているのだろうか。
教室で一人で読書するのは苦にならないが、食事をするのはそうでもない、ということか。悠に遭遇した時の豹変が動揺を表していたのだとすれば、それを鑑みるに、そこまで肝が据わっているわけではなく、存外繊弱なのかもしれない。なら、教室で読書をしていることも、実は気詰まりで、苦痛に耐え忍んでいる、という公算もある。
俺は部長が食事を終える前にその場を後にし、自分の教室へ戻るため足を向けた。
※
教室に戻り、弁当を十分以内にかき込み、また教室を出た。
生徒玄関に最も近い場所に位置するその部屋へたどり着き、扉をノックして開き、入室して挨拶をした。先生に用があってきたことを言い、担任教師の机に近づいていった。
先生はすでに俺の方へ椅子を向けており、さも来ると思っていたという顔をして視線を合わせてきていた。
教員机の前まで来ると、俺は言った。
「先生、色々と訊きたいことがあります」
その言葉で、先生は察しがついたようで、
「志津摩君、騙してごめんなさい」
と、頭を下げてきた。衷心より詫びているのが真摯な所作から感じ取れる。
俺はそれを見て、
「それはいいんです。何か理由があるってわかりましたから」
と答え、昨日あったことを掻い摘んで先生に話した。
話し終えると、先生は神妙な面持ちになり、部長のことを綿々と語り始めた。
それを要約し、俺の主観で語るとこうだ。
先生は推測通り、部長に顧問を頼まれていた。先生は部長の力になろうとして、部に所属していない俺を構成員にしようとした。一教師としてあるまじき行為かもしれないが、その行為は一人の生徒のためだった。平たく言えば、先生は部長を心配していたのである。
ではそれはなぜか。それは先生が、小中学生の時の部長を知っていたからだった。部長が小学六年生の時に、教育実習生として出会ったのだそうだ。その時の部長は、容姿と頭の良さとが相まって、人気者だった。今も容姿と頭の良さは健在だが、しかし、今とは決定的に違う点があった。小学生の部長は、現在と比べ物にならないほど活発だったのだ。加えて自分を飾らず、快活に笑う生徒だった。
先生は二年後、赴任先の中学で部長と再会した。だが、部長は変わってしまっていた。それは、今でいう三日月満月そのものだった。物腰が柔らかく、静かで、清楚な良識人。そこにかつての三日月はいなかった。その時すでに、部長は一人のことが多くなっていたそうだ。
先生はずっと部長を気にかけていたが、力になることはできなかった。しかし高校で再会したことをきっかけに、先生は行動を起こし、今回の件の契機として、役を演じることを決めたのだった。
つまり、俺を構成員にしようとしたことは、部長とは共謀しておらず、先生が単独で行ったことということになる。猫鼠同眠ではなかったということだ。
先生は話し終えると、少し疲れたような表情になったが、それでも俺は訊いた。
「先生。水曜日の昼休み、俺に入部する部を早く決めろって言いましたよね?」
「ええ」
「その時――正確に言うと先生が職員室の中に視線を移した時なんですけど、あの時見ていたのは……部長、ですか?」
ゆっくりと訊くと、先生の目は少し見開かれたように見えた。
「ええ。そのとおりよ。よく気がついたわね、志津摩君」
ようやく得心した。なぜ部長が、俺が部に所属していないことを知っていたのか。なぜ俺が三日月を知っていないことを知っていたのか。部長は、俺が職員室で先生と話していた時、まさにそこで全てを聞いていたのだ。だから俺を勧誘しようと思い立ち、放課後、俺の後を尾けていたのだろう。
今回の件の呼び水は、職員室で先生と話していたこと、それだったのだ。
またも謎が解け、胸のすく思いを感じながら、
「あともう一つ。部長は……精神疾患とか、患ってなんかいないですよね?」
と訊くと、先生は「どういうこと?」と首を傾げた。
「いや、俺の思い違いだとは思うんですけど、一応確認を取っておこうと思って」
そう言うと、先生は腕を組んで幾らか沈思黙考し、何かつかめた、という顔をして口を開いた。
「いいえ、そんなはずはないと思うわ」
はっきりとした口調と面持ちでそう答える。俺は少し気持ちが浮き上がるのを感じた。
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
情報提供に礼を述べると、
「どうする気なの? 志津摩君」
心配するような声音で訊いてきた。
俺は一呼吸置いてから、できるだけ誠実に答えた。
「放課後、話してみます。部長と」