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三日月さんはしばらく目を見開いていたが、突然、何かに気付いたように後ろを向いた。うつむき加減で手を持って行き、顔を拭う。
それをひとしきり繰り返し、おもむろに、
「そ、そうですね……。部長、ですしね」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。そして拭うのを止め、一時の間沈黙し、やにわに向き直ったかと思うと、
「では問題です! ここはどこでしょう!」
そんなことを抜かした。
「……え?」
俺は間の抜けた言葉しか返せない。
ど、どこって言われても……。この辺普段歩かないからな……。
「では言い換えよう。次の目的地は、どこだ?」
仁王立ちしてふんぞり返る。
俺は顎に指を当てて考えてみた。
「えーっと……」
そうだなあ。喫茶店、図書館、ペットショップときたら……。おおそうか! 全然関連性ない! じゃあ見方を変えて……住宅地の先によくあるものと言えば……。
っておい待て。
「も、もしかして……」
不案内な場所の答えをふと閃いて口を開く。
「うんうん」
部長はうんうん言いながらうんうんする。うんうん、じゃあ、言うね? うん。
「ここって、部長の家?」
「うん」
え、え、え、えー! と時報みたいに驚いた。されどそう簡単には信じない俺。
「マジで?」
「マジマジ」
親指を立てて医者や会社の重役が建てたような家屋を指す。坪数はなかなかに多い気がします。
「……うそん」
そういうことか。家に帰ってたのね。どうりで家だらけだったわけだ。あれ? でも夕月? 部長、三日月じゃなかったっけ。
表札に刻まれた名前に疑問を浮かべていると、部長は言った。
「すまないな。送ってもらって」
いけしゃあしゃあと冗談を飛ばす。
「いや、送ってるつもりはまったくなかったんですけどね。でもなんで……」
「顔に書いてたからな。送りたいこのドヤ顔って」
「書いてない。書いていたとしても送らない。特にドヤ顔は」
なんだ送りたいって。ドヤ顔なんか送りたくねえし。なんなら冥土に送ってやろうか。その心は……。す巻きのままトランクに押し込んで、東京湾に沈めてやろうか! です!
バカなことを考えていると、部長は急に姿勢を正し、
「ごめんなさい」
頭を深く深く下げた。
そしてゆっくりと顔を上げて、
「ありがとう」
柔らかく笑った。少し赤い目を細めて。
俺はそのせいで少し体温が上がってしまって、
「ま、まあ正直、上げて落とすタイプのいやがらせかとも思いましたけど、少し考えてみると違うってわかりました。だからもういいです」
そう言うと、部長はスカートの前で手を合わせ、
「あ、あの……」
上目遣いで視線を合わせてくる。眼鏡無しの三日月さんの容姿で。
「な、なんです?」
急に恥ずかしがってどうしたのか。それとも三日月さんですか?
「え、えっと……」
胸の前で手を合わせて、いたたまれないように身をよじる。ロングヘアーの三日月さんの容姿で。もしかしてほんとに三日月?
「遠慮しなくていいですよ」
と、俺は言葉を促す。
しかし、言い淀んでいたかと思うと、態度が一変した。
「悪いが、私の飼っている虫がとてもお怒りな様子だ」
非常に良くない状況だ、とでも言うように、軍人みたいな顔つきになる。
俺は疑問符を浮かべ、
「虫?」
と繰り返す。なんのこっちゃ。虫がお怒り? 機嫌が悪くなったってこと? なにこの人D○Nなの?
と俺が首を傾げていると、
「わからないのか? しょうがないな君は。ポンポンだよ、ほら」
不意に近づいてくる。すると、
ぐりゅりゅりゅりゅりゅ~。
「あ、そういうことですか」
あまりにしまらない音だったので、大きな気が抜けた。
なかなかにご立腹であらせられるお腹さま。でもポンポンって……。小さい子じゃないんだから。あと、あまりお腹を意識させないでほしい。思い出しちゃうから、あのこと。……ああ、なんであんないい香りなんだろう。あれじゃあ、そそられちゃうに決まってるじゃないか。ほんと、人間って生き物はどうしていつも惹かれてしまうんだろうね? ごはんってやつに。もうさっきから鼻がひくついて仕方ないよこれ。
部長の虫によって自身の空腹にも気付くと、
「なので私は帰ります」
なんていう自由人。その意志は鋼。その意思は食い気。
「そ、そうですか。じゃあ」
聞かぬ! 知らぬ! 傾けぬ! そんな勢いにちょっと引いてしまう。それでも挨拶は交わしておこうと思ったが、
「では!」
時既に遅し。部長はもう、体半分家に吸い込まれてしまっていた。
間髪を入れず、虫の居所の悪さを表すような音が響く。誰のってもちろん虫の。
俺は夕月さんちのドアを眺めてしばし呆然とした。
はぁ、挨拶ぐらいさせてくれればいいのに。そう思いながら、暗くなった路地に所在無く佇む。
(帰ろう。お巡りさんにお世話にならなくてもいいように)
汚れた制服をはたき、くるっと来た道を引き返すため向き直った。すると。
「志津摩君っ!」
「ひゃいっ!」
突然大声で呼ばれ、心臓が家出した。グッバイマイスイートハートゥウウウ!
すわ一大事と大慌てで心臓を引っつかみ、急いで口に入れて一安心した。ほっ。
次いで向き直ると、部長が玄関を開けてこちらを見ていた。スリッパを履いたままで。
「……ど、どうしました?」
と気圧され気味に訊く。
そんなドラマのワンシーンみたいなことしなくても。マイスイートハートじゃないんだから。
部長は言いにくそうにしながらも、口を開いた。
「よ、よろしければその……カレーなどいかがですか? ご主人様」
その言葉に拍子抜けした。
なんだそりゃ。はい、あーんってご奉仕してくれるの? 冗談でしょ? だって部長、ぜったいカレーでパイ投げするじゃん。ホイップクリームより質悪いからそれ。事情知らない人が見たら汚物かぶってるのかと思うよ? 食事中ならごめんなさいだよそれ。……まったく、調子狂うから妙なこと言わないでほしい。私のオムライスを食べていただけませんかご主人様、なんて。
「なんか立場逆転してません?」
俺のこと召使いだとか言ってなかったっけ?
そう言うと、部長は少し頭を捻ってから、
「よ、よろしければその……カレーなどいかがですか? 犬?」
「誰が犬だ」
なんで疑問形なんだよ。犬じゃないのかよ。犬じゃねえよ俺は。
と内心でノリツッコミしていると、
「わんにゃ○ぷー! うーにゃー○ー! はにゃは○ゃほえぷー! ぷーぷーぷー!」
突然部長が奇声を発した。玄関でにゃんにゃんダンスしながら。今のところ近隣の方には気づかれていないらしく、窓をガラガラッ! と開けたり、ドアをバタンッ! と開けて飛び出したりはしてきていない。
にゃんにゃんはダンスと掛け声を一セット終えると、途端に気落ちした様子になり、
「……そうか。カレーは嫌いか。それなら仕方ないな」
すすすーっとドアを閉めていく。
俺は慌てて、
「いりますいります! カレー好きなんで俺!」
そう言いながら駆け出すと、
「お母さん! 変態が! 変態が我が家に! 早く警察に!」
「お母さん同級生ですただの同級生なんです! だから通報しないでくださいお願いします!」
夕飯を、ご馳走になりました。