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住宅に囲まれた裏路地。その奥で三日月さんは立ち止まり、向き直った。
そして俺と視線を合わせ、真っ直ぐな瞳で、
「志津摩さん、だましてすみませんでした」
深く、自分に罰を与えるように頭を下げた。
俺は努めて冷静に、
「それはいいです。俺の方こそ、ひどいことを言ってすみませんでした」
と言い、礼を返す。
謝るということは、悠が何を話したかわかっているのだろう。もちろん自分が何をしたのかも。しかし俺が聞きたいのは謝罪ではない。
「それよりも、訊きたいことがあります。……突然で、驚くかもしれませんが」
「はい」
三日月さんが顔を上げ、返事をしたのを確認して、質問した。
「一昨日の放課後、何をしていたか思い出せますか?」
脈絡のない問。それは予想通りの反応を三日月さんに然らしめる。
「お、一昨日の放課後ですか? ど、どうして……」
その疑問に淡々と答えた。
「いえ、少し気になることがあって、それを解消するためです」
しかし三日月さんは、
「はあ」
質問の意図を計り兼ねている様子。俺は繰り返し質問した。
「どうです? 一昨日の放課後、何をしていたか思い出せますか?」
と訊くと明らかに言いにくそうに。
「えっと、その……。一昨日は……。……本当にすみません。実は私、志津摩さんを尾けていたんです」
視線を逸らし、腕をつかむ。
「俺を勧誘するためでしょう。でも俺とぶつかってしまい、気絶させてしまった。そのあと、俺を第二会議室に運んだ。そうですね」
「はい……すみません」
さらにうつむいてしまう。
気落ちしているところ悪いが、こちらは小さくとも希望のある回答をもらい、少し気分が高ぶってしまった。
「ありがとうございます。これで俺の気になっていたことは解消されました」
三日月さんは顔を上げ、
「は、はい……」
納得がいかないためだろう、少しだけ疑る表情を見せる。
「あ、あの……気になっていたことというのは……」
それに答える義務があるはずだと思い、意を決して答えることにした。
「実は……、三日月さんを、『多重人格』ではないかと疑っていたんです。失礼なことですが」
謝ります、と頭を下げて意を示した。すると三日月さんは、
「ど、どうしてですか……?」
不安そうに訊いてきた。無理もない。
「性格が著しく変わったように見えたからです。……どうですか? 三日月さんは、自分を多重人格だと思いますか?」
念のためそう訊くと、多少動揺した様子でうつむき、ゆっくりと顔を上げながら口を開いた。だが――
「どうして……。どうしてあの程度の質問で……! 私が多重人格ではないと言い切れる!」
突如叫びを上げた三日月さんの顔は、今まで見せたどの表情とも合致しなかった。そして今まで見せた表情の中で最も、いや――今まで見せた『顔』の中で最も、その有り様は狂気と憤激に満ち満ちていた。口角が釣り上がり、目付きも鋭くなり、纏う空気さえ荒々しい、しかしどこか妖艶さと危うさをを感じさせる、まるで魔性のモノとさえ言えそうな、異常な姿〈カタチ〉。
ゆらゆらと燃える炎のように、一歩一歩近づいてくる三日月さん、だったもの。それとも『アレ』が本物の三日月さんだとでも言うのだろうか。
今の状況で思考の淵に落ちかけたのは、致命的だった。そう気づく前に、『三日月』は目の前から姿を消していた。
「がっ!」
気づいたときには、苦痛に襲われていた。しかし混乱と動揺に支配されかけながらも、今の自分の状態を確認しようと眼を動かす。
すると、あろうことか、体が空中に浮いていた。
足が着くか着かないかという高さに、持ち上げられていたのだ。
そう、目の前の少女に。それも片腕一つで。
そう悟った瞬間。
「ぐうううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅッ!」
万力が首を締めた。突然の激痛によくわからない声を上げてしまう。
次いで体が条件反射で動作した。
少女の小さな手を両手で引っ掴み、首から離そうと必死に力を込めた。体と足をくねらせ、とても格好が良いとはいえない様相で。
が。
「……ぐ……う……ぅうっ……ぅ……ぅぁ……」
全くもって話にならない。少女の手をどけるどころか、指一本すらピクリとも動かない。まるで機械仕掛けの拷問器具のように。
……このままでは息ができず意識を失ってしまう。それどころか、それ以上に首を絞め続けられれば窒息死は免れない。もし、目の前の少女が、俺を殺す気でいるならば、だが。
「……ぁ……ぅ……ぁぁ……ぁ……」
……つまり……俺には俺の命をどうこうする権利などなく……俺の命は……、彼女の手に委ねられている……、という…………。
「答えろ、志津摩禎生、お前はどんな理由を以って、私が多重人格でないと判断した」
その瞬間、首の拷問器具が外された。俺は無様に地に落ち、横に倒れて丸くなる。そして体が求めるままに酸素を吸引した。
「ガハッ! ゲホッ! ゲホッ!」
しかしそれまで気道を締め付けられていたせいか、呼吸もままならない。首の締め付けは解かれたというのに、いまだに意識が遠のく気配が消えない。けれどもなんとか意識の糸を保つよう気を強く持つ。
一時の反動になんとか耐えた後、やっと浅い呼吸ができるようになった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
それでも呼吸の度に弱々しい奇怪な音が交じる。意識は朦朧としているのに、音の不快感だけははっきりと感じる。そのせいか吐き気までする。
生涯で初めてかもしれない極度の酸素欠乏から少しずつ回復していくも、目の前で俺を蛆虫かゴミクズのように見下ろしている少女は、どうやら待ってはくれないようだった。
「答えろ。お前はいかな理由を以って私が多重人格でないと断じる?」
氷のように冷たい言葉は、舞い散る火の粉のような熱を持って降りかかる。
俺は幾ばくか呼吸を整え、細くなった気道でなんとか息を吐き出した。
「……記憶が、あったからだ……」
倒れたまま答える。
「ふん。そうか。つまり部長と三日月どちらの記憶も持っていたから、多重人格でないと判断したわけか」
「……あ、ああ」
たしかにそれが理由だ。だが、この状況は……この少女は、なんなのか。彼女は『誰』だ。それがわからなければ、今の事態を判断などできない。
「安直だな。その程度で私を理解したつもりになっていたのか。嘘をつくな。お前には他の考えもあったんだろう? それを吐け」
あたかも暴君の如く、少女は立つことすらままならない塵芥を睥睨する。俺は喋ることしか許されてはいないのだ。
「……交代人格は……主人格の記憶を持っていることが多い。……だから、部長と三日月……どちらかが両方の記憶を持っている可能性を考えた……」
「だろうな。……でも? 続きがあるんだろう? ほら言え」
「……片方が両方の記憶も持っていても……ほとんどの場合矛盾が生じる。だからこの仮定は、意味を成さない……」
そうだ。この仮定では必ずと言っていいほど矛盾が生じる。だから三日月は多重人格ではない、と言える理由にもなる。三日月がどちらの記憶も持っている理由にも。しかし目の前の少女は、この存在〈人格〉は……。
「意味を成さない、か。だが、物事にはいつでも例外というものが存在するはずだが?」
まるで、俺を確定した答えに導こうとしているかのような口ぶり。彼女はその先に何を求めているのか。絶望か。死か。はたまた希望か。容姿の同じ少女はもはや知っている少女ではなく、知らない少女、俺に彼女の望みを知ることはできそうにない。
「……ふたつの人格が記憶を共有しているなら……その仮定は帰結となる。だが……」
「だが……それはありえない、と、こう言いたいわけか」
俺の代わりに言葉を継ぐ少女。その形相はあくまで狂気と妖艶、しかしそれに不敵さまでも湛えてこちらの底気味を煽ってくる。
「ありえない、なんてことはありえない、なんてことはありえない。ふん、よくできたループだ。シンプルで救いがない。しかしな、そこにほんの少し異物を加味してやれば……、どうだ? さらに救いがなくなるだろう? ふふ。ほら言え。お前もわかっているんだろう? ほぼ、じゃなく完璧になあ?」
五臓六腑の隅から隅まで舐め回すように水を向けてくる異物。俺はソレに怖気を覚えつつも、言葉を絞り出した。
「……ほぼ……ありえない、なら……ありえない、なんてことは、ない」
「そうだ。別の言い方をすれば、可能性が低い、とも言うなあ? それにぃ、ありえないことがありえるなら……他の可能性だって、ありえるはずだろう?」
……。他の可能性……。ありえないと思っていた他のこと……。それは……。片方のみならず、どちらもが互いの記憶を持っていること。しかし、そうだとして、二つの人格があるとするならば、互いの記憶を持っているとしても、どうしてその整合性が保たれているのか。よくある一例のように交代人格の行動を離れたところから傍観している、ということが起こっていたとしても、それはその人格の行動ではなく、他の人格のものだと認識しているはず。あるいは、他の人格の行動を自分のものだと認識しているという症状であれば、説明はつくが、果たして、三日月はそのような症状の多重人格なのだろうか。
「なんとなくは理解した……、でも納得がいかない、って顔だなあ? ええ? そうだなあ……お前が間抜けじゃなければ、幾らかは当たってるんじゃないか? ははっ」
俺の思考でも読んでいるのか、悪魔は心底悦ばしそうに、十二分に邪気を溜めて呪文を継ぐ。
「それなら――私は? 私は、『ダレ』なのかなあ? ねえねえ、ほらほらあ~」
「ぐ……うぅ……!」
腹に足をねじ込まれ、ぐりぐりと捏ね繰り回される。だが今の俺には抵抗することすらできない。
……彼女は……この存在は……。個々の人格が、基本人格や主人格が持て余した感情の受け皿であり、それを司って感情をコントロールしているのであれば、今の三日月も、それらの人格の一部ということになる。であれば、感情をむき出しにしている気質、威圧的な態度、それらを鑑みるに、この人格は三日月のストレスやフラストレーションを司る人格なのではないか。それなら得心のいくこともある。気弱な三日月を俺が追い詰め、二つの人格どちらもが対処できない状況になったから、今の彼女が表出した。そう考えれば辻褄が合う。……だが、しかし……、何かが引っかかる。……。わからない。俺はどこに違和感を感じている……? 一体どこに…………。だめだ。答えは出そうにない……。けれど、すべきことは見えた気がする。それは、今の彼女を知る前も変わらない決意だ。だからこそ、いや、彼女と相対したからこそ、自信をもって言える。
内蔵がよじれる不快感に苛まれながら、それでも俺は、最大の敵意を込めて意気を吐き出した。
「お前は……例外だ。異物だ。可能性から生まれた……悪魔だ。……でも、それでも……三日月の一部だ。それは決して変わらない。だから、俺は……お前を必ず――理解してみせる……」
睨めつけて吐露するのを、三日月はほくそ笑みながら聞き入っていた。それが終わり、足蹴にするのを止め、また見下ろすと、彼女は言う。
「はっ。そうかい。……じゃあ、とことん遊んでやるよ。……ただし、一対一のサシでな。……そのルールを破ったら、俺がどう動くかは俺にもわかんねえぜ? ははっ! ぶっ壊れねえよう精々気をつけるこったな。――お互いに」
男口調でそう言い捨てると、三日月は目を閉じ、憑き物が取れたみたいに脱力して崩折れてきた。俺はどうにか動かせるようになった体を三日月の前にやり、クッション代わりとして役目を果たした。
少し時間が経ち、先程よりも体が回復したのを機に、俺はゆっくり体を起こした。三日月が上に乗っかっているので、彼女が地面に落ちないよう支えながら。
とりあえず、目が覚めるまで三日月を塀にもたれさせ、倒れないよう肩をつかんで支えていることにした。目覚めたとき、あの三日月の影響がないといいが。
数十分後、三日月さんは覚醒した。意識を失っていたことを不思議がると思ったのだが、三日月さんはどういうわけか記憶を有していた。しかし、偽りの記憶を、だが。
「すみません、急にボーっとして、立っていられなくなって……。多分貧血だと思います。ご迷惑をかけました」
というのがその時の言だ。
その後、三日月さんは気絶する前に話していたことを思い出し、俺になんと訊いてきたを問うてきた。俺は、あの質問を繰り返すべきかどうか勘案したが、今の三日月さんの状態も気になるので、どのような質問か教えることにした。
「えっと、三日月さんは自分を多重人格だと思いますか? って訊いたんですけど、どうですか? 覚えてますか?」
そう訊くと、うつむき加減で記憶に集中する様子を見せ、幾らか経つと顔を上げて、
「えっと……はい。大丈夫です。覚えています」
はっきりと答える三日月さん。どうやらあの三日月の影響はそれほどないようだ。俺はふっと内心安堵した。
「それで、馬鹿馬鹿しいとは思うんですが、よければ質問に答えてくれるかな」
俺が苦笑交じりに促すと、
「は、はい。えっと……。い、いえ……。思いません。確かにあり得ないくらいおかしなこともしましたけど、あれは……」
そこで三日月さんは口ごもってしまった。おそらく、部長の時のことを言おうとしたのだろう。
俺は言葉を継ぎ、
「もういいですよ、わかりましたから」
と続きを制す。すると、
「ご、ごめんなさい……」
申し訳なさそうに下を向いてしまった。
俺はそれを見て、深く思惟する。
人は誰しも役者だ。古人がそう表現したように。ドラマツルギーでいうパフォーマー。時間、場所、相手によって仮面を選び取り、かぶり分ける。この世界はそれの繰り返し。自我に目覚めた時から終わりまで。舞台裏に戻れるのは独りの時か、眠る時だけ。しかるに、観客は巨万といる。それも至る所に。役者はあまりにも多くの役を演じ分けなければならない。何度も、何度も。終幕までひたすらに。それはある意味、心を殺す行為だ。自分の首を絞める行為だ。ゆるやかに自殺しているも同じ。それもそのはず、役は自分自身ではないのだから。仮面は本当の顔ではないのだから。自分でない誰かを演じ続ければ、自分を見失ってしまう。仮面をかぶり続けていれば、本当の顔がわからなくなってしまう。しかし、そんなことは露知らず、あるいは無視して、観客は演じ続けることを強いてくる。精神は擦り切れ、感覚さえも麻痺しかけているというのに。そして、束の間の退場は短く、幕間はすぐに終わりを迎えてしまう。動かなくなるまで踊り続けろ、とでも言うように。
それは幸せなことだろうか? 真に願うことだろうか? 確かに役割は重要だろう。役割を熟すには、演じなければいけないこともある。世の中は役を演じることで回っている、そういうことだろう。だが、その考えはおかしい。――役を演じる? ――仮面を被る? それはもう、諦めではないか。希望はないから諦観している、と言っているようなものではないか。それでは、自分を殺す、と言っているも同じ。自ら息を止め、死のうとしていることと同じだ。
人は役者だ、という言葉は、結果を表現したに過ぎない。結果ゆえの表現であり、結果あってこその表現。その表現は後に作られたものであって、先に存在するべきものではない。
人は、そんなものに縛られてはならないのだ。
そんなものに縛られた世界では、個人が介在する余地など、ありはしないのだから。
自分を殺さなければ、成り立たない世界。
殺さなければ、自由のない世界。
そんな世界に、自由はない。
――だから。
「俺は、ありのままの三日月さんが好きです。自由で、奔放で、自分を飾らない三日月さんが好きです。でも、俺はもう一人の三日月さんのことも知りたい。落ち着いていて、教養のあるおしとやかな三日月さんも知りたいんです。……俺は、どっちの三日月さんも好きになりたい。だから――」
ありのままに。思ったことを。
できるだけ。自分と相手が、嘘をつかなくていいように。
心から出た気持ちを、言葉にする。
「――だから、三日月さん……、もっと気軽に、話しませんか」