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俺は怒っている。それはなぜか。それは俺がガキだからだ。ではガキでないのなら、さきほど俺が体験した状況に直面しても怒りを内側で収めることができるのか。それはわからない。なぜならそれは俺がガキだからだ。であるなら、ガキでない場合はそれがわかるのか。それはわからない。それは俺がガキだからに他ならず、どうすることもできないことだ。
ガキ。餓鬼。ガキはガキだからわからない。だからガキが理解しようとすることは当たり前のことなのだ。勉学に励むことは、ガキにとって当然のことであり、餓鬼の断食などするべきではない。ガキは餓鬼のように知識を彷徨い求め、貪り、喰わねばならない。ガキは知識という点で、餓鬼なのだから。
それでも俺は怒っている。それは俺がガキだからだ。ガキというのは困ったもので、知的好奇心に溢れてはいても、理解したくないこと、納得したくないことが、殊更に多いものなのだ。平たく言うと、好き嫌いが激しい。それはもうべらぼうに。
つまり俺は、世の理不尽を認めたくない。自分の非を認めたくないし、禍根であると断じたい人物の無実を認めたくない。看過したくないのだ。それによって俺は、ガキの切り札である無言の抵抗を使っている。かの人物が、「災難だったな」とか、「君は意外にノリがいいんだな」とか、「これからもその調子で頼むよ」と言って肩を叩いてきても、憮然として無視し続けたわけだ。ガキじみた言葉を使うと、俺は悪くない、と言いたい。悪いのはあんただ、と言いたい。こうなったのはあんたのせいだ、と、指刺しながら言いたいの。
俺のような人間から世間体をびんずればどうなるか。最悪の場合、不登校だ。まあ、俺の奇行が悪い方向性を持って流布されればの話ではあるが、あの痴態を見た女子が他の生徒に言いふらさないとは到底思えない。
覆水盆に返らず。だから俺は長机とキスしそうになっている。
決意を固めたはいいが、膝頭で江戸へ行こうとしてしまい、あまつさえ躄〈いざ〉って進んだら、凄まじい勢いで後ろにすっ転んで後頭を打っ付けるの巻。……机の上に突っ伏すのも仕方ないってもんでしょう。ねえ旦那? まさに悲哀骨髄に徹する、ってなもんですよ。なんて。
「悪かったよ、志津摩君。さっきのは私がいけなかった。謝らせてくれ」
豈図らんや、急に殊勝な声音が飛んできた。え? マジで? 絶対謝ったりしないと思ってたけど、意外に大人じゃん。まあ、謝るなら許してあげてもいいよ。はい、それじゃ、お兄さんにごめんなさいして。
「すみません御免下さいっ!」
頓狂な声が部屋中に谺した。
………………。
もうこれキレていいレベルじゃね? そう思った。でもすぐに理性が感情を支配して、血圧上昇を抑制した。
ひとまず一日だ。一日は部員でいよう。無理だと思ったら辞めればいい。俺はそう決めた。
とにもかくにも、その謝罪は謝罪じゃねえ。いや確かに謝罪だけど、それじゃ玄関先の挨拶みたいだろうが。
俺は十五分に息を吸い、
「はぁあああぁぁぁ。どうしてくれるんですか……。噂にでもなったら、俺の知名度が一気に上がるじゃないですか。悪い方向に」
目と鼻の先にありすぎて、視界を暗くしてしまっている机を見ながら腕を垂らす。だらりん。実はさっきからずっとこの体勢なの。だらー。ぶらぶら。あーうー。
「そうだな、うなぎ上りだな」
我が社の株がまさにそれだよ、そんな風に言った。
俺はおでこと机をごっちんこした。ごっちんごっちん。
「そう落ち込むな。人の噂も四十九日と言うじゃないか」
慰めるような声で言うが、
「言いませんよ。間違ってますそれ」
平然と間違える元凶。なんなの? お前の体裁は死んでいる、とでも言いたいの? わざとでしょそれ。ってちょっと待て。
「部長」
顔を上げて言う。
「ん?」
「それもう悪いことになってます」
フォローになってないそれ。それもう噂になってるから。なに広まってる前提で話してんの? わざとですそれ。
「バレた?」
後頭部に手を当ててうっかりポーズをする。
「バレた、じゃないですよ。――ってちょっ! それひど! それ!」
部長はあらぬ方向に目と顔を向け、ぺろっと舌を出してコケにした。まるでペ○ちゃんみたいに。コケー!
俺は憤慨し、
「謝れ! いや、俺には謝らなくてもいい! せめてペ○ちゃんに謝れ!」
土下座しろ! さっきの俺みたいに! そう叫ぶと、
「わかったわかった。そう喚くな」
両手で制するように押し止めて部長は言った。そしてさらに、
「そうだな……どこか行こうか、これから」
その時、俺の頭ははてなになった。
「は?」
てな具合。
それはどういう意味? 俺をお持ち帰りするっていう意味? それとも部活ほっぽって遊びに行こうってこと? なんなの? どういうつもり? あなたは何を言っているの? 僕はどう考えればいいの? 分からないわからないワカラナイ。考えるかんがえるカンガエル。私はあなたのワカラナイを考える。はてな。
「いやかな」
軽く首を傾げ否やを問うてくる。活発なしっぽが、同道を期待するように揺れた。ぽに。
「いやではないですけど……どこへ?」
ってしまった! これではお持ち帰りされてしまう! 一刻も早くテイクオフしてゲラウェイしなければ! それか店員を呼んで、「お客様!? 当店はテイクアウト禁止でございます!」って言ってもらわないと!
予期せぬお客様がインされて、店内(店名はインザブレイン)はてんやわんやになった。しかしお客様の、
「喫茶店だ。そう遅い時間にはならないと思う」
というその言葉で、喧騒は収まった。
店内は一人のお客様によって静まり返り、動きが停止していた。しかし、誰かが動き出した瞬間、客も、店員も、通常の運転に立ち戻り、店内の全てはつつがなく進行し始めた。
なぁんだ、それならそうと早く言ってくださいよ。もう、部長も人が悪いんだから。もう、部長の人が悪いんだから。
「そ、それくらいなら……」
大丈夫かな、こんな人の誘いに乗って。子供が知らないおじさんにほいほいついて行くようなもんなんじゃないか? 喫茶店って、面倒見のいいママがいる喫茶店じゃないだろうな。
「よし、それでは行こうか」
部長は鞄を持ってさっと立ち上がり、扉へ向かう。気短だな、そう思いつつ返事をして、俺も続いた。
勢い、喫茶店に同道することを取り付けられてしまった。一時間後の俺は、平穏無事な、坦々たる人生を歩めているだろうか。少し不安。
鍵を閉め、廊下を歩き始めた部長の、ポニテを見つめる。ぽにぽに。ぽにぽに。ぽにぽにぽに。
どうやら少しめかしこんできたようだが、そんなことくらいでは俺の感情は揺さぶれない。大人な高校生紳士の称号を侮ってもらっては困る。ぽにぽにぽにぽにぽにぽにぽに。
ところで。
「さっき好きって言ってたのは何のことなんです?」
思ったんだが、あれは俺のことじゃない気がする。本を呼んでいて半分聞いてないようなものだったし、どう考えても部長が俺に惚れているとは思えない。
そう訊くと、部長はさも当然というふうに、
「それはもちろん、君」
「え」
どっきんこした。
がしかし。
「子猫の事に決まってるじゃないか」
俺は歩きながら、一秒だけ石になった。しかしやがて呪いは解け、苦笑交じりの返事がなんとかできるようになる。
「で、ですよねー。子猫、かわいいですもんねー……」
部長はバッと振り返り。
「だろう!?」
※
この時間に外へ出ようとする者は俺達くらいのもので、校外に出ると、生徒の姿はほぼ見受けられなかった。みな部活に精を出しているのだろう。
部長は、部室から校外に出るまでいやに大人しかった。部員でない人に迷惑をかけないためかもしれない。というか、そうであってほしい。切に。
通学路を少し行ったところで立ち止まり、部長は腕を組んで考えるふりをした。そして、
「さて、どこにつれまわ行こうか」
「ファッ!?」
すいません今なんて!? つれまわ!? ていうか言い直したよね? アナウンサー顔負けのスムーズさで。変な声出ちゃったじゃん俺。
俺の奇声を聞いた部長は振り返り、
「ん? なんでもあるアルよ?」
すっ転びかけた。俺が。
「あるんですか。てかアルって……」
俺は思った。……そうか、外でもそのノリか。まあ、期待した俺が馬鹿だったよ、と。
どうやら外でも大手を振るらしい某部長にほんのちょっと呆れながら、俺はほんのちょっと行き先が気になった。
「それで、どこ行くんですか?」
たしか喫茶店へ行く運びとなっていたはず、そう思って訊くと、
「馬鹿か君は。喫茶店と言ったじゃないか馬鹿者め」
ガハッ!
「私の話を聞いてなかったのか? 一体どこに耳を落としてきたんだこの空け者が」
イラゴフゥッ!
俺は胸を押さえて、刳〈えぐ〉い衝撃に耐えた。……くっ、この人の馬鹿はバリスタ並みの威力だ。
えげつない一撃――二撃のおかげで、怒りが胸に突き上げそうになり、口角がひくひくするのを必死に我慢しなければ、喋ることはままならなかった。
「さ、さっき部長、どこに連れまわ行こうかって言ってたじゃないですか」
そう言うと、部長は眉を顰めながらむっとして、
「どこに行こうかと言ったんだ。そんな脈絡を無視した発言はしていない」
過去を断乎否定し暴論を吐く。……ああそう。それはいいけど、なんでさっきから仁王立ちなの? 脚閉じろよ。
喉まで出かかった言葉をなんとか嚥下した。
「無視してたでしょ盛大に……」
自分の言ったことも無視らしい。俺が部室で無視してたから仕返しかもしれない。
なんて勘繰っていると、罪悪感に満ちた声が返ってきた。
「……すまなかった。そんなにかまってほしいとは思わなくて……」
「違うでしょう? それじゃ、俺がかまってほしいことになるでしょう? かまって欲しいのは文脈の方ですよ? 言わせてもらうと、俺の方は必要以上にかまわないでいいんです。自由に好きにさせてもらいますから」
滔々とまくし立てると、
「どうどう」
馬を落ち着かせるように言う。
「どうどう、じゃないですよ。それにさっきのアルはなんなんです」
「なんだその中国人もどきは。馬鹿にしているのか? 馬鹿だから? 馬鹿だけに? いや馬だけに? ハハッ、誰がうまいこと言えと」
「馬鹿にしてんのあんただろ!」
血液が沸騰した。部長は不服そうに言いながら、目顔が途中から生き生きしていた。それが俺の逆鱗に触れた。つまり業腹である。
されど部長は再度顔をしかめ、
「とにかく、私はそんな妙なことを言った覚えはない。それ以上言うなら侮辱罪で訴えるからな」
どこかで聞いたような台詞をもって反論する。
歯牙にも掛けないその態度に、呆れ返ってしまった。
「いいですよもう……。勝手にしてください」
肩を落として項垂れる。
今や白旗を上げる気力もなし、斬るなら斬れよ我が首を、と、諦めかけていたその時、急かすように呼ばれた。
「さ、早く行くぞ。日が暮れてしまうアル」
「おおいッ!?」
たまらず叫んだ。すると部長は振り返り、
「どうした急に」
足を止める。さも不思議そうに。
言った。今言った。間違いなく言った。空耳とは言わせねえ。
「言いました」
「なにを?」
なにを? ほう、すっとぼけるアルか。いい度胸アル。
わかってるアル。どうせこれもわざとアル。しかしそれでも、俺はこのひょっとこのような人間にやり返さなければ気がすまない。気がすまないのでアル。
「アル」
そう言って、俺は今までの鬱憤を視線に込めた。
すると、部長は先程までと打って変わって沈黙し。
しかし突然、つっと視線をそらして背中を向けたかと思うと、
「言ってないアルッ!」
なんと走り出した。猛スピードで。
俺は呆気に取られ、猛ダッシュをしばらく見つめた。
だがすぐに我に返り。
「言ってるじゃないですかっ!」
とっさに走りだすと、すぐに鼓動が速くなった。