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 黒板に向かって左下の隅の席、つまり隅っこの席で、俺は帰る準備をしている。と言っても、すぐに帰るわけにもいかない。入る部を決めるまでは。そのためには、入部する部を選ばなくてはならず、それができていないために部活見学をしなければならない。
 鞄に諸々を詰め込み終え、教室内に視線を移すと、何人かの生徒が目に入った。少し前にいる数人のグループは手芸部員だ。くま・うさぎ・パンダ・イソギンチャクのぬいぐるみを見せ合いっこしている。
 黒板の前で談義しているのはおそらく文芸部員だ。アガサ・ヴァン・オルツィ・エラリイ・ルルウ・カー・ポウと互いを呼んでいるが、一人の生徒だけ治と呼ばれている。
 真ん中にいるのは放送部員の集まりのようだ。テストがあるらしく、発声・滑舌練習を順番に行っている。今まさに早口言葉を言い始めた女子は、「歌うたいが歌うたいに来て歌うたえと言うが歌うたいが歌うたうだけうたい切れば歌うたうけれども歌うたいだけ歌うたい切れないから歌うたわぬ」と完璧にこなしてみせた。そして、「生麦生米生卵、生麦生米生卵、生麦生米」の後で少し溜めを入れてから、「生卵~」と妙なイントネーションに変えて変顔(目を釣り上げ、口元は笑う)をした。生卵を持っているふりをしながら。それによりどっと笑いが巻き起こる。黄色い声が飛び交い、耳にキンキンと響いた。
 うわあ、楽しそう。
 あまりの平和ぶりに、屋上で雲でも数えたくなってきていると、右手から声がかかった。
「はよ~」
 首を向けてみると、悠が目をこすりながら近づいてくる。どうやら毎度のごとく、羊との死闘に惨敗したらしい。
「はよーじゃねえよ。今放課後だぞ」
 俺がツッコミを入れると、悠は「ふあ~」と口を開けながら伸びをし、開いた口のままで口を開いた。
「なんでご飯食べてからも勉強させるんだろうねえ。集中力なんて皆無なのに。ふあ~」
 悠は中性的な顔立ちで背が高くない、初見では男女の判断が難しいやつだ。可愛くも見えるしかっこ良くも見えるので、クラスでは男女を問わず人気者。つまり、押し出しがよい奴なのである。その人懐っこい人気者は、昨今の教育制度が気に入らないらしい。
「そりゃ時間が足りないからだろ」
 とりあえず無難な回答を投げかけた。ゆとり教育が始まり、土曜が休みになった頃から、低密度な授業内容が問題視されている。かどうかは知らないが、多分そうなのだろう。最近は授業内容を飛ばしたり、教科書の最後まで教えられない教師が増えているとメディアで取り上げられていたような気がする。
「僕思うんだよね。学校にもお昼寝の時間が必要だなって」
 反対の目をこすりながら悠は言う。それを聞いて、はたと思った。年を取ったら長時間寝られなくなると聞くが、俺もそうなるのだろうか。今のところ、短針が一回転してもむにゃむにゃ言ったりしている俺なのだが。そう思うと、答えは自ずと絞られた。
「まあ、あったら楽かもな」
「でしょ?」
 中高にお昼寝を導入した場合、日本の学力は更なる低下の一途をたどるだろう。よってその議案は却下されるはず。それが一般論だと思うが、ともするとわからない。日本人は睡眠時間が足りていない者が多い。それを改善できれば、作業効率の向上が望めるかもしれない。と、これまたテレビで言っていたような気がする。
 一高校生としては、昼寝の時間は大歓迎だ。寝ても寝ても寝足りない万年寝太郎なので。少し想像してみようか、学校の課業でお昼寝しているところを。……。
「でもな、考えてもみろよ。いい年した高校生が、教室でみんなしてお昼寝してる姿を」
 教室(体育館でもいい)に所狭しと並べられた布団。そこでぐーすか眠る、成人と変わらない体の人達。後の日本を担うであろう子らが、そんなことでいいのか。
「きつそうだね……」
 悠は苦しそうな表情で言った。
「ああ、すごくきつい。肉巻きにしたアスパラガスくらいはぎゅうぎゅう詰め――いやそうじゃねえよ。何て言うか、みっともなさすぎんだろ」
 悠の発言があまりに的はずれだったので、ついノリツッコミをしてしまった。変なこと言わせないでほしい。す巻きにしたアスクレピオスとか。
 そんなことを考えていたら、寝坊助が調子に乗った。
「お肉は牛バラで決まりだね。ぎゅうだけに」
「……」
 一瞬で場が白けた。
 ……く、くだらん。ちょっと締めてやろうか、電気ドリルで。
 普段の悠はこんなではないのだが、ただ今は、寝起きで寝ぼけており、画餅なので、どうしようもない。
「用がないなら行くぞ、時間ないからな」
 悠の寝ぼけならぬ寝ボケを潮に、鞄を肩に乗せ立ち上がった。
 悠は俺が部活に入っていないこと、先生に入部を急かされていることを知っている。情報収集が趣味の悠は、先生に催促されていた俺を偶然に見て仲がいいと勘違いし、先生の情報を求めてきた。俺は仕方なく事情を話し、入部する部を悩んでいることを話した。それを知った悠は、部活選びを手伝おうとするようになった。
「まあまあ、校内美少女ランキングの結果でも聞いてからにしなよ。どの子がどの部にいるかもリサーチ済みだよ?」
 こんな具合に。
 悠は新聞部であり、校内の情報を集めているジャーナリストだ。その情報収集は日常的に行われる。男子女子どちらの人間にも好かれている悠は、日常会話や取材で得た情報を内職してノートにまとめる。さっき言った美少女ランキングというのも、そのノートの一冊だ。
 そのジャーナリストは自分の席へと戻り、件のノートを小脇に抱えて戻ってきた。どうやら画餅が覚醒して、絵の中の餅が徐々に顕現してきているらしい。餅が完全に出てきたら俺が頂いてしまおうか。
 俺は机に手をついて興奮気味に言った。
「マジで? 聞く聞く! 俺、小鳥遊さんのこと知りたいんだけど、プロフィールとかある!?」
 しかしすぐに冷めた表情を作り、
「とか言うと思ったか? どうでもいいって、そんなの」
 中腹くらいの一輪なんて言った俺だが、嫌いではない。きれいなものを眺めるのはそれだけで和むし、見るだけならタダだからだ(物理的にはタダという意味だが)。かと言って、凡人の俺がお近づきになれるとは思えないし、なれるとしても目立つのは嫌なので、丁重にお断り申し上げたいのが現状の意思、と、こういうわけなのである。
 悠はそっかあ、といかにも残念そうに、
「僕もランクインしてるんだけどなあ。じゃあ、入部希望ランキングの方はどう?」
 俺の疑問は一つだけだ。なんで、お前が、ランクインしてんのか、それだけだよ。男もありのランクなのか。最近そっちの需要が増加傾向にあるらしいから、おかしくはないのかもしれないけど。いやおかしいだろ。どうなってんだ日本。割と本気で心配だよ。将来的にもジェンダー的にも。
 それはともかく、これから部活見学に行く身として、もう一つのランキングは魅力的だ。
「それだけ教えてくれ」と、悠に告げた。

     ※

 悠の調べによると、上位はおなじみの部ばかりだった。野球・サッカー・バスケ・テニス・バドミントン・弓道・陸上・吹奏楽部の他、社会現象で入部する生徒が急増した軽音部も未だ十位以内。ちなみにオカ研は最下位だった。
「こんなとこだね」
 細々した注釈を時折挟みつつ、噛んで含めるように紹介は進み、心なしか得意気な表情でノートは閉じられた。されど俺は褒めたりしない。なぜならすぐ調子に乗るから。飴なんていらない、鞭さえあればいい。俺はそういう人間なのだ。Madness? THIS IS SPART○! 
 なんだかSMの話に聞こえるな、と思いながら言った。
「なんかありきたりだなあ」
「どんな部に入りたいの?」
 再度ノートを開き、机に置きながら訊いてくる。
「とりあえず、暑苦しくなくてしんどくないとこ」
「本読みたいなら読書部に入れば?」
 うーん、読書部ねえ。それも考えはしたんだけど。
「それだと、やらされてる感があるんだよなあ」
 自分でも注文が多くて面倒くさい奴だな、とは思う。だが読書は、あくまで趣味の範囲なのだ。それを強制されたならば、残るのは苦痛のみな気がしてならない。
 そういう意味を込めて答えると、
「ワガママだなあ」
 口を尖らしてぶーぶー言う。
「ぶうぶう」
 ほんとに言った。なにこれかわいい。
 ぶうぶうに対抗するため、偉人の言葉をお借りすることにしよう。
「『人生における選択は、我が儘に行うべし』、って誰かが言ってた」
 しかしあまりにずさんなでっち上げは、難なく看破される。
「それって、なんとかてーせいって人が言った言葉でしょ?」
「そうそう、その人その人。よくわかったなお前」
 思い出した。ちょっと前になろうサイトに投稿されてた言葉だ。一時期その人のページ見てたんだけど、ある時を境に更新がぱったりと止んじゃったんだよな。また再開してくれないかな。再開したら月光蝶発動するくらい喜ぶのに。ハハハハハ! 我が世の春はYummy! 違った。ハハハハハ! 我が世の春は闇ー! 
 とそんな風に格言を捏造していたら、ノートのランク外にインサイトを抉られる名前を発見した。
「これは? なんかすげー楽そうな名前じゃん。なんで情報ないんだ?」
 談話部。なんだかお菓子を食べながらおこたでぬくぬくしてそうな名前だ。イメージ通りなら物臭な俺にピッタリの部活ではなかろうか。
「この部はできたばかりだから、知ってる人がほとんどいないんだよ」
 どうやらランク外の部は、情報が少ない零細部活動か、新設されたものらしい。それにしても、
「お前よくこんなこと調べるよな。ある意味尊敬するわ」
 書かれている情報は仔細に尽きる。部長・顧問の情報、大会成績、部の雰囲気、部員の氏名と性格。今までの人生でここまでする人は見たことも聞いたこともない。正直に言おう。――ストーカーですか? 
「楽しいよ? 意外な一面が見れたりして」
 そう言う悠の笑顔には邪気がない。俺は心底ほっとした。お前が善の心を持っていてくれて良かったよ。この情報収集能力、使いようによっては学校を牛耳ることもできたかもしれない。
「ま、ありがとな。これ参考にして決めるわ」
 無難なところを一通り回ってみてから、おこた部を訪れてみることにしよう。
 と算段をつけていると、
「ノート貸しておこうか?」
 どういうわけかキラキラした目で見つめてきた。まるで飼い犬のように。遊んでくれるの、遊んでくれるの? みたいな。まさかとは思うけどお前、お尻の上に毛むくじゃらのほうきとか付いてないよな? ……ないか、残念。
 俺はわんわんおと遊んでいる時間がないため、非常に遺憾ながら、
「いやいい、大体回るところは目星つけたし」
 おあずけという切り札を発動した。恐れ多いことだ。才能ある者の努力の結晶を、凡愚の俺が持ち歩くなんて。だから俺もおあずけ状態の放置プレイを堪能していればいい。なんて。本当はノートの内容を概ね記憶したから断ったまでである。
 悠はノートを閉じ、鞄の中に入れてから、
「そっか。じゃ、僕、部活行くから。頑張ってね」
 屈託なく笑い、健気な応援をくれる。
 出入り口の辺りまで歩いて行ってこちらを向き、手を振りながら微笑をくれた。
 少し面映ゆさを感じて、気怠げに手を振り返した。



 ほどなくして、室内には俺だけとなった。窓の外を見ると、運動部が活動に勤しんでいるのが見える。野球部は掛け声とともに走り、サッカー部はストレッチ、陸上部は外に走りに行く模様だ。
 室内へ視線を戻す。目に入るのは動かないものばかり。消した跡が仄かに残る黒板。退屈な明日の課業表。整列されているように見えて実はそうでない机。背もたれが机にくっつくほど奥まで入れられた椅子。斜めになったもの、起立した時のままのもの。この教室には全く音がないのに、外にはそれが溢れている。掛け声・廊下の足音・小鳥のさえずり・工事現場でアスファルトを砕く音・隣の教室で先生と生徒が発する声。それらを感じていると、自分が隔離されているように思えてくる。
 こんな放課後を何日も過ごしていると、焦りが出てきてしまうのが普通だ。しかし俺の場合は、捻くれた考えが出てくるのである。

 日本人は、忙しすぎやしないか。生き急いでいるようにさえ見えるほどに。周りに合わせることだけでも、いきすぎている気がする。合わせてばかりで、自分を殺してばかりで、そんな矛盾を続けているから、自分をなくしてしまうのではないか。それが日本人の言う、忙殺というやつではないのか。
 自分を押し殺して生きて、本当に幸せと言えるのか。言えないだろう。文字通り、殺しているのだから。自己を殺して生きていても、それは死んでいることと同じだ。そんな優しすぎる人間は、優しいとは言えない。優しすぎる人間は、冷たい人間だ。そういった性質の人間は、『人殺し』という言葉を今一度考えてみてほしい。
 ただ、そういった生き方を否定しているわけじゃない。折り合いをつけて生きるのが人間だし、それぞれに選択があり、生き方がある。その自由だけは剥奪されることがあってはならないし、そのせいでどのような結果になったとしても、それは間違いなどではなく、その人自身、なのだから。


 はあ、部活めんど……。

 鞄を背負いながら、重い腰をなんとか上げた。

maimaikapuri
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