若き来訪者

「……とっくに帰ってきてたのね」

 村の中でも南の隅に位置するアデルの家。飾り気のない木製の家屋がひっそりとした佇まいで在り、その周囲を豊かな庭が囲む。村では唯一のレンガ造りの塀が敷地を捉え、門を持たない出入り口の先に、平たい飛び石をいくつか挟んで、家屋の玄関が待ち構えている。
 古びた扉の取っ手に、アデルは己の探し物を見つけた。飛び石を渡り、左右の背の低い緑に紛れる鮮やかな色達に目を配り、心があるべき場所に落ち着く感覚を楽しみつつ、玄関に辿りついた。

「……最近、なかなか使ってあげられる機会が無いのはたしかだけど」

 取っ手にぶら下がる首輪を、アデルは手に取る。
 黒い紐の両端に接続部分があり、装飾はひし形の結晶ただ一つ。半透明のそれの内部には、十字の骨組みが見える。無論、生物では故に、少女の申し訳なさげな声には一切の反応を示さない。ただ紐に吊られ、アデルの持つ手が動くたびに、ゆらゆらと揺れている。
 一見、洒落以外に使い道は見当たらない首輪。
 しかして持ち主は、この首輪の正体を知っている。

「……分かった、使ってあげる」

 アデルはそう首輪に語りかけると、首輪を手に取り、身につけた。次に、家の窓の縁に置かれた如雨露まで歩み寄ると、そっと触れた。

「ちょっと無理やり動かしちゃうけど、ごめんね」

 無機物は当然、返答しない。故に、人の手に為されるがまま。
 ところが、此度それを動かすのは、人ではなかった。
 アデルは瞑目する。アランに施した時のように合掌はせず、首からぶら下がる首輪の、その結晶を片手に収めた。
 まもなく、アデルの輪郭を光が支配した。その光は、如雨露ではなく、首輪の結晶へと収束していく。

「──お願い」

 アデルは、そう呟くと同時に、結晶を強く握り締めた。
 結晶が、儚い音を立てて、崩れる。光を帯びた結晶片は、地には落ちることはなく、その場で浮遊している。
 それは光──もとい、魔力の作用。アデルの魔力を受け、結晶は重力に逆らっているのである。それだけではない。結晶は、持ち主に砕かれる際、主から魔力と共に命令を下されていた。
 庭のお花のお世話をしてあげて。
 結晶は、アデルの命令を忠実に、そして健気に遂行する。
 結晶片は、浮遊した状態から動き出し、如雨露へと向かった。そのまま如雨露に浸透し、内部から如雨露を操りだす。
 如雨露はまるで生を得たかのように、ひとりでに浮き、家屋の外側に設置してある水道へと移動していく。先回りしていたアデルが蛇口を緩めると、出てくる水を如雨露が受け止めた。満杯になったところで、アデルは蛇口を閉める。水が完全に止まったところで、如雨露は中の水がこぼれぬよう慎重に水道を離れ、庭の花壇へと向かった。
 アデルはそれを見送り、我が家に入る。彼女が茶で喉を潤しながら、部屋内の植物を愛でている内にも、外の庭では、如雨露が忙しげに水を撒いていた。
 しばらくして、アデルは部屋の中心のテーブルの上に組んだ腕の中で目を覚ます。それを見計らったのか、あるいはそれより以前から鳴っていたのか、玄関の扉が軽く叩かれた。アデルは慌てて玄関へ駆け寄る。彼女が扉を開けると、案の定、来客があった。
 アデルにとって、その柔和な顔を見るのは、今日だけで三度目となる。

「あなたは……」

 青年は、笑顔と、夕刻を示す挨拶をアデルに向けた。

「こんばんは」
「私、うっかり居眠りしてて──いつから、ここにいらしてました?」
「たった今。ただ、僕ではありませんが、あなたを待っていた存在はあるようで」

 青年は、アデルに見えるように右手を差し出す。彼の掌の上には、結晶があった。
 青年が語るには、彼がアデルの家を訪れたときには、この結晶が玄関の外に転がっていたとのこと。自分が居眠りしている間に仕事を終えた結晶が、如雨露を元の位置に戻して、自身も元の形に戻ったはいいものの、主人に意図せず閉め出されており、待っている間にすっかり魔力を失ってしまったという流れを、アデルは容易に想像できた。
 そして、容易に予想できた。
 きっと、拗ねてる。すごく拗ねてる。

「ご、ごごごめんね! わざとじゃなかったんだけど、たぶん昨日の夜更かしが響いて──」

 アデルは青年の手から結晶をさらい、必死に謝罪する。その謝罪が、自分ではなく、彼女の手中の無機物に向けられている事に、青年は数秒の時間を要してやっと気付いた。

「双方の信頼関係があっての能力というのは、真実だったんですね」

 青年の旅の目的──それは、辺境にあるこの村で名を誇る、ある女性を一目見ることだった。その女性は、少女とも呼べる若さでありながら、村の長を担っているという。その理由は、その村では一番に貴い家柄もあるが、何より本人の天性の才が大きい。その才についての噂は、風に乗って広がり、彼方の国にて呆けていた青年の耳にまで及んだのである。
 その少女は、魔力を以って使役する。形あれば、どんな存在も。但し、その能力は、受動者との信頼関係ありき。
 故に、彼女の全ては、この世の誰よりも道徳的といえる。
 希望的な噂に心を突き動かされるままに、青年は、遥か極東からこの村へとやってきたのだった。
 青年は安堵した。
 噂に、偽りは無かったと。
 事実、自分の面前に居る噂の正体は、死に際の動物にすら精一杯の慈悲を垂れれば、無機物にすら人と同等に接する──限りなく道徳的な、まさに善人の理想とも言うべき人物だった。
 青年は、知りたかった。
 彼女の振る舞いが、果たして能力によるものなのか。
 故に、彼が行った誘導尋問に、そうとも知らず、アデルは正直に答えたのだった。

「……それも、あります。でも私は、この世の全てが好きだから──だから、例え誰かが私を裏切っても、私はやり返そうだなんて絶対に思いません。必要なら、動物にも、花にも、石にだって謝ります」

 仲良くしたいから。
 アデルは最後に、そう付け加えた。
 青年は、思った。
 家に帰ったら、この言葉を反芻することにしよう。何度も、ゆっくりと。勝手に出掛けたことを、親に謝ってから。

「これで心置きなく帰れます」
「え、でも、人を探されていたはずでは──」

 青年は、いかにも満足げに微笑む。

「はい。目の前に」

 アデルは丸い目をするも、とりあえずは納得しように頷く。しかし、また首を傾げた。

「……私に、御用があるのですか?」
「そうですが、用というのも、僕の自己満足で済むものでしたから」

 首の角度がさらに大きくなるアデルを、青年は細い目で見つめた。

「最も心優しき能力者を、一目見ておきたかった」

 そのためなら、山三つの長旅もやぶさかではなかった。
 青年の言葉、そして行動力。その裏に潜む純粋な真意を汲み取った少女の表情を、これでもかというほど余分に巡る血が熱していく。
 村長に就任してからというもの、老年ばかり相手にしてきたアデル。

「……あ、の、そんな」

 久しく同い年の異性を前にした彼女は、ひたすらに初心だった。

「ありがとうございました。あなたを目にしたおかげで、僕も道を探す気力が沸きました」

 背を向けた青年は、その背後で一つの乙女心が芽生えつつあることなど露知らず、肩越しに思いを述べた。

「お、お役に立てたのなら、……幸いです」

 顔を焼きながら、やっとのことでアデルが発した台詞を背に受け、青年は上機嫌を口元に微かに表すと、その場を去ろうとする。
 それは音も無く現れた。
 青年の頭に、牙が食い込んでいた。

見習い孔子
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