第一話 謎の私刑執行人現る!(3)
B子(仮名)はその時、一瞬幻覚を見たのかなと思った。
自宅のベランダに、魚のような顔をした人間がいたような気がしたのだ。今は視界から消えているが。
「はー。私、とうとうおかしくなったのかな…」
女子大生のB子は、ここ数日レポート提出の締切に追われて、寝不足が続いていた。彼女は、極度の疲労が脳内にそんな幻覚を見せたのだと強引に解釈しようとした。
(でも幻覚にしてはリアルすぎたような…。いやいやいや、まさかねっ! だってウチ五階だよ?)
気のせいで済ませたいところではあったが、さっきの映像はあまりにも現実感がありすぎた。しかしながら、彼女の住まいは公営団地の5階なのである。両隣の住人はB子の知る限りごく普通の人たちであるし、仮に隣人を疑うとしても、この団地はベランダの仕切り板がほぼ天井の近くまであるので、梯子を使っても潜り抜けるのは無理と思えた。側面から忍び込むことは可能だろうが、柵の上に立って移動する危険を冒してまでそんな酔狂をしでかすとも思えない。
つまり、変質者の出現などまず起こりえない事態なのだ。B子は混乱してしまった。
「これって、もしかして夢…なのかな??」
B子は自分の頬をつねってみた。だが、しっかりと痛かった。
「B子、なんかあったの?」
客間の真ん中あたりに突っ立って、独りごとを呟いているB子を不審に思ったのか、母親がダイニングルームから近づいてきた。
「ありえない、ありえないでしょこれは!」
蒼ざめた顔でまだブツブツ言っているB子に、母親が背後から声をかけてきた。
「どうしたの? 何がありえないの?」
不意をつかれたB子は、思わずワッ!と声をあげた。
「はぁ、ビックリした~。脅かさないでよ」
「あなた、そんなところで何をブツブツ言ってるの?」
「え、母さん聞いてたの? べ、別に何でもないからさ。あはは…」
B子はぎこちない笑顔を作り、その場を適当に取り繕おうとした。
しかし、娘の蒼白な表情にただならぬものを感じたらしい母親は、簡単に引き下がってくれなかった。
「嘘おっしゃい。そんな真っ青な顔して、何でもない訳ないでしょう?」
母親に問い詰められ、B子はうろたえた。
「ホントに何でもないってばー」
「嘘ね…。さあ、白状なさい!」
母親に強硬に問い詰められて、B子は仕方なく、さっきのベランダ怪人の一件を話した。
すると母親は、最初こそ『気のせいでしょう』と一笑に付したものの、B子の蒼白な顔色を見ているうちに、だんだんと不安げな表情を見せ始めたのだった。
「あなた、本当に見たって確信があるの?」
母親が、半信半疑といった感じで問いただしてきた。
「私の記憶が確かならば、ね」
B子は某TV番組の司会者のような返事をした。
「B子・・・ここって確か5階よね?」
母親が当然のことを当然のように確認してきた。
「そうだよ」
B子は無機的に返答する。
「やっぱり、あなたの見間違いじゃないの? 最近だいぶ疲れてるみたいだし」
母親は無難な結論に誘導しようとしてくる。
「私の脳が正常なら、たぶん見間違いじゃないと思う」
だがB子は、ほぼ断言するようにそう返答した。
すると母親は、3メートルほど先にあるベランダの方向をじっと見つめて何か思案しているようだった。ベランダに面したガラス戸はいま、半分ほどカーテンに遮られている状態である。ガラス戸の下部は半透明な為、この位置からはベランダの様子はあまりわからない。
やがて母親が覚悟を決めたように言った。
「B子、ベランダを見てみましょう」
その母の提案にB子はうろたえた。
「えー! それって怖くない? それより警察を呼んだ方が…」
しかし母はB子の意見を突っぱねる。
「あやふやな認識で警察を呼んで、やっぱり気のせいでしたじゃ洒落にならないでしょ。なにしろウチは5階なんだからね」
「それはそうだけどさ…」
「B子、懐中電灯と、それと押入れから父さんのバットを持ってきて。あと、万一の時はすぐ通報できるように携帯をスタンバイさせておくのよ」
母がテキパキと指示を出してきた。この母がいったんこうなると止めても無駄なので、B子は渋々従うことにした。
「了解…。でも、せめて父さんが帰ってきてからにしない?」
B子は最後の抵抗を試みたが、あっさりと却下された。
「ダメよ。そんな悠長なことしてたら犯人が逃げちゃうでしょ。本当にいたらの話だけどね。さあ、こうなったらもう腹をくくるのよ!」
母親はすっかり戦闘モードである。現在時刻は夜の8時。父親が帰宅するのはだいたい9時頃なので、待つとするにはだいぶ長い。
B子はやむをえず母の提案を受け入れることにした。
「もう、わかったよ~。じゃ、道具取ってくるから」
「お願いね」
母は既に鬼のような恐ろしい形相になっていた。
そして、B子が懐中電灯を持ち、母親が両手で金属バットを構えるという役割分担で、母娘はおずおずとベランダに向かって進み始めた。
母親が強気なのには根拠があった。この母は学生時代に剣道をやっていて、2段の腕前なのである。
だが竹刀と防具は実家に置いてあるので、代わりにバットを持ち出した次第というわけだ。
それでも不安に押しつぶされそうなB子だったが、母に強引に促され、震える手で懐中電灯を構えた。
作戦としては、部屋の電気は点けずに、カーテンはそのまま、ガラス戸もロックしたままで、B子がガラス越しにベランダを隈なく懐中電灯で照らし、もしも賊がいたら、二人してすぐ玄関から外に出て、階段の踊り場から警察に通報するというものだ。そして、もし賊がガラス戸をブチ破って中に侵入してきたならば、その時は腹をくくって母親がバットで迎撃するというものだった。
「さあB子、照らしなさい」
母が小声でB子に指示を出してきた。その両手にはガッチリとバットが握られている。
「う、うん。じゃ、照らすね」
B子は電灯のスイッチを入れて、恐る恐るベランダを照らし始めた。心臓がバクンバクンと跳ねて爆発しそうだった。
ガラス越しに見て、ベランダの中央あたりに人影は無かったが、一応まず真ん中の辺に光線を向けて、電灯を上下に小刻みに動かした。
やはり誰もいない。
そして、次はベランダの真ん中から左側にかけて、素早く光を当てた。こちらも人影はない。
最後に、中央から右側部分にかけて素早く光線を当てた。だが、ここにも人はいなかった。
結局、ベランダには誰もいなかったのだ。B子は安堵のあまり床にペタンと座り込んで、そのまま大の字に寝転んだ。
「は~~~~っ。母さ~ん、誰もいなかったよ~~!」
B子は虚脱しきった声で母に報告した。
「そう! やっぱり。はあ、良かったわ~」
母もまた安堵の溜息をついたようだ。ヘナヘナとバットを降ろす仕草からして、彼女もまた相当に緊張していたのが窺える。
「はぁ…。こんなにホッとしたのは何年ぶりだろ。もう、溶けちゃいそうだよ~」
B子は脱力のあまり、しばしの間、抜け殻のようになってしまった。
放心していたB子だが、ふと、あることに思い至った。さっきベランダを電灯で照らしたとき、視界にちょっとした違和感を感じたのだ。
「そういえば母さん、今日って洗濯はしたんだよね?」
B子は思い出したように母親へ尋ねてみた。
「ええ、今日はパートだったから、夕方にね」
母親は、なぜそんなことを聞くのだと言いたげな顔をして答えた。
「なんかね、さっきベランダ見たとき、妙に洗濯物が少なかった気がしたんだけど…」
B子がそう告げると、母親の顔色がサッと変わった。
「え、ホントに? 今日はだいぶ量があったはずなんだけど…」
母の返事を聞いて、B子は不安が的中してしまったと思った。やはり何かおかしい。
「やっぱり、ベランダに出て確かめてみようか?」
あれほどビビっていたB子だが、人がいないことは確認できたので、今度は自分の方から母に提案した。
「そ、そうね。それじゃあ二人で確認してみましょう」
結局、母娘は戸のロックを外して一緒にベランダへ出た。
すると、間も無く母親が叫んだ。
「うそ! ない! 干したはずのあなたと私の下着が無くなってるわ!」
B子は仰天した。
「マジでっっ!?」
「マジもマジ、大マジよ。十何枚もごっそりと無くなってるわ!」
母親も、信じられないっ! という顔をしている。
「えー! じゃあまさか、ホントに隣のおじさんが盗ったってこと…? なにそれ~」
B子は隣家の主人である温厚そうな中年男性の顔を思い浮かべた。本当に彼が危険に身をさらしてまでそんな愚行に走ったのだろうか。
「まだ決めつけるのは早いわ。でも、本当に○○さんがやったのかしら…。ちょっと信じがたいわね」
母はそうB子をたしなめたものの、やはり隣人を疑わざるを得ないのは同様のようだ。
「私だって信じられないよ! でも考えられる犯人は、どうしたってお隣さん以外ありえないじゃない!」
B子が叫ぶようにそう言うと、母は「確かに、疑わざるを得ないわね…」と静かに呟いた。
「疑うっていうより、もう確定でしょ? 残念だけど」
B子はドライに言った。他の可能性は物理的にほぼ皆無だからだ。
「ともかく、警察に通報しましょう。問題は、信じてもらえるかどうかよね」
母はこの時点で通報を決めたようである。B子もまったく異存なかった。
「えっと、どっちが電話かけよっか? 私はできれば遠慮したいんだけどな~」
B子はあからさまに逃げ腰な姿勢を見せた。
「とりあえず私がかけるわ。ただし、状況を説明する際にはあなたにも変わってもらうからね」
母はクールに告げた。まあそれは仕方がない。あの妙な魚の顔についてはB子が説明しなくてはならないだろう。
「じゃ、ウチの電話からかけましょうか。戻るわよ、B子」
「うん、わかった」
現場検証を終え、母娘が室内に戻ろうとした時だった。
「いーーひっひっひっひ。無闇に人を疑うのは感心しませんねぇ~」
突如、数メートル真上にある団地の屋根のあたりから、気味の悪い声が聞こえてきた。
「きゃーーーーっっ!!」 「な……。あ、あんた、いったい何者よ!」
母娘がほぼ同時に叫ぶ。
「かつて、偉い人が言っていたじゃありませんか。『汝の隣人を愛せよ』と」
真上から、不気味な声の主がそのように言葉を繋いだ。
「あんた、さては屋根の上にいるのね!」
母親は気丈にも、声の主に向かって吼えた。
「ご明答~。いかにも我輩は屋根の上でありま~す。たったいま、お宝のチェックを終えたところでしてねぇ。うひひ」
謎の人物がいかにも変態っぽい発言をかましてきた。
「お宝ですって? …そう、やっぱりあんたが犯人なのね!」
「まあ、そういうことになりますかな。少なくともお隣さんじゃないことは確かですねぇ」
「もう逃げられないわよ。すぐに警察を呼ぶから覚悟なさい」
母親は、冷静な口調で怪人物に釘をさした。
だがそこで、なぜか屋根の上の怪人が狂ったように高笑いをはじめた。
「い~ひっひっひっひっひ~! ふは! ふはははははは! いやぁ、これは愉快愉快。じつに痛快の極みでござりまする。奥様はどうやら、この我輩をそのへんのチンケな犯罪者と同列に見なしておられるようだ」
「なんですって!?」
その言葉に、母親が怒りの表情を浮かべる。
「たかが日本の警察ごときでは、この我輩を捕らえることなど不可能! 絶対に無理だと断言しましょう」
怪人物はなぜか異様なまでに強気である。
「我輩を捕まえたいなら、アメリカ軍でも連れてくるんですな。ふはははは」
「たいした自信ね。とにかくアンタの戯れ言をこれ以上聞く気はないわ。…警察を呼びます」
母親は冷静にそう告げて、室内に戻ろうとした。B子はさっきから、ただガクガクと震えていることしかできない。
「うひひ。これは気の強い奥様だ。勝気な熟女、いいですね~! 若い娘とはまた違った味わいがある。たまりませんなぁ、ぐふふ~」
「ふん、アンタ、とんでもない変態ね」
母親は嘲るようにそう吐き捨て、今度こそ電話機に向かおうとした。そのとき。
「ひひひ、いいでしょう。我輩もちょうどおいとまする頃合いですからな。せっかくですから、特別に我輩の姿を見せてさしあげましょう」
そんな前置きのあと、屋根の上からスルスルと、ワイヤーのようなものを伝って一人の人間が降りてきた。
不気味な魚のような仮面を被り、首から下は普通のカジュアルな服装、肩には大きなバッグを提げている。
怪人はワイヤーに掴まりながら、ベランダの鉄柵の上にストンと降り立った。
「きゃーーーーーっ!」
「きゃーーーーーっ!」
母と娘の悲鳴がユニゾンした。さすがの気丈な母親も、この不意打ちには度肝を抜かれたようである。
「いーひっひっひっひ。この際、あなた達親子には特別に教えてあげましょう。我が名は、イービルピラニアン! 我輩は、いうなればエロスの求道者であり、至高のエロティシズムをとことんまで追及する芸術家、といったところですかな」
怪人は姿を見せるや否や、めちゃくちゃ気取った口調で、そんなふざけきった口上を堂々とまくし立てたのであった。
つづく