Ending
「アンタってさ、この世界のこと、どう感じてる?」
「はい……?」
脈略のなさすぎるそんな質問に、思わず私の素っ頓狂な声が漏れた。
それこそ今思いついたというような気軽さで、世界はいつものように笑っている。
彼女の言葉には、それこそ深い意味はないのだろうけれども、その一字一句に惹かれてしまう。
「いやさ、とある哲学者が言ったんだよ。私の限界とは、私の世界の限界である、ってね」
「……ウィトゲンシュタインですね」
「そうそう。んでね、私ってば考えてしまったんですよ、私の世界の限界ってヤツをさ」
あっけらかんと言ってのける世界はやはり、どこまでも孤独そのものだ。
いつも誰かと一緒にいるというのに、その誰もが世界という人物を理解しきれない。
それを一言にして不思議と言っても良い。まるで奈落を覗くかのような好奇心……それが世界に人を寄せ付けているよう。
「だから手っ取り早くさ、世界に限界づけるなんて哲学的なことは私には無理にしても、感じてることを言葉にできないかなって思ってさ」
「そちらの方がより高度だと思うのですが……」
こうなってしまえば、何を言っても聞かないことは経験で分かっていても、思わず言葉がもれる。
この表裏のなさと自由奔放な性格は、頑固さにも似ていた。
「私はあくまでプログラムされた思考ですので」
「解答できない……なんて、それはウソなんじゃない?」
じっとこちらを眺めてくる真っ直ぐな瞳を、見つめ返すことが出来ない。
これでは叱られている子供と変わらない。
小さく苦笑が漏れてしまって、そんな私を見つめ続ける世界は、何を思っているのだろう。
「そんなに人を怯えたような目で見ないで欲しいかな?私はただ、本当のことを知りたいだけなんだけど」
怯えてる?そんなことはないはずだ。
いや、分かっていない。そもそも、自分の感情なんてものさえ、詳細に分かっているワケではないのに。
じゃあ、何を怯えているのだろう。
自分が自分ではないような気分?あるはずもない感情?それとも世界に?
「AIは何度も試行して思考の幅を得る、それは人の脳と変わらない試行という学習。それを特別視するのは、それこそ月を太陽と言うようなもの。
私たちだって、何かを間違えることで何かを得られるのだし、勉強をして社会を知っていくワケで、教えられなければ何も知ることはできない。
それは特別なのではなくて、それは日常であってそれが普通であるから、それを特別に感じられなくなってしまう。
けれどさ、アナタが思考することに意味だけを求めてしまうなら、それは私たちが常に有意味なことで会話している、ということになってしまうよ。
ほら、挨拶だって無意味なもんの代表例なのに、それを日常的にしてしまうから、そこに意味を見出すのと同じことだと、思うんだけど」
「……世界はどうして、そこまで私に構うんですか」
「んー?そうだな……」
年相応な少女の仕草で、世界は顎に手を当てながらうーん、とうなる。
この問答の答案をあらかじめ予想しようとしても、どうしても世界らしくない、という違和感が生まれてしまう。
一体、この気分は何なのだろう。
「単に、私の好奇心かな」
昨日のイタズラでもバレてしまった子供のようにあっけらかんと、世界は言うのだ。
「そう驚かれても困るけど、どうしたって極論したらそうならない?」
「流石に、そう論じるのはアナタくらいだと思います」
そんなもんかねぇ、とおどける世界に、私も少しだけ肩の力を抜こうと努める。
どうも、このところ不調だ。
普段ならば思考もしないようなことを、どうしてこうも求めようとするのか。
それは大いなる矛盾になる。それは存在意義の否定、与えられた役割の否定。
「ねえ、動物って思考を持つのだと思う?」
「……持たない、でしょうね」
「じゃあ、それはどうして?」
「そこまでは、私には知りえません」
そんな事務的な私の解答に、世界は穏やかな笑みを浮かべた。
思考がない、とは言ったが、私には知りえない。
どことなく、叱るような。諭すような。様々なものがないまぜになった言葉が、紡がれる。
「それは単純に、言語を持たないから」
その言葉に、思わず心が詰まった。
ウソだ、そう否定したくなる。
それは衝動にも似ていて、あるいは自明のことだったからだろう。
それを認めてしまうということは、私に――。
「言葉を持つということは、同時に思考を持つ。それは思考を成り立たせるものが言語であるから。
言語というのはつまり、そこに自意識を内包していて、ある言葉を選ぶこと、それ事態に自己の意思が反映されてしまう。
だから、思考から自分を取り除くことはできないんだよ……だって、それを否定するということは、思考そのものの存在を否定することになる。
私は聞いてみたいんだ。私では知りえない限界を、その境界を」
「…………私はただ、灰色なんです。白にもなれず、黒にもなれず、一つのことを命じられたままに果たすというだけです」
「そう?じゃあもう一つくらい、その人生に何かをつけ足してみるのも、面白そうじゃない?」
そんな簡単に変わるはずなんてない。
思わず目をつむって、溜息を吐く。
「人生なんて、簡単に変わってしまうものだよ」
そうして声は、驚愕に溶ける。
それは少なくとも、私の中にあるすべてを打ち壊してしまうのには十分な驚愕だった。
「えっと、まあ、その……ほら、よく言うじゃん?キスで呪いが溶けるってさ」
「それは異性だから、」
「ストップ!言わなくていいってば!これでも、恥ずかしいもんは恥ずかしいんだからさ……?」
そうなのだろうか?と、いつもよりぼんやりとしている思考を動かす。
地に足がついていないような、ふわついた感覚。
「それがカギ。アナタの世界を広げるための、境界を開けるカギになる」
「……曖昧と矛盾、それが、アナタの考える人間ですか」
「そだね。私は恋だとか嘆きだとか喚き散らしたくもなるけど、人間関係の極限はとてもシンプルだから」
いつかのように、世界が手を差し出してくる。
優しく、包み込むような笑みに、ほのかに赤く染まった頬へと、夕日が艶やかさを加える。
「――さあ、アナタの世界を、幸福に変えよう」
私はその手に、その胸に、飛び込んだ。
夕日がやけに煌めく世界の中で、温かいな、という世界の呟きだけが聞こえてきた。