台風一過
ザァァ…
「なぁ…」
「はい」
「俺帰れると思う?」
俺がそうたずねると、後輩は眼鏡を少し持ち上げて、俺に言った。
「十中八九、無理かと」
「…やっぱり?」
今日台風が来るのは知っていたし、傘も持ってきていた。ただ、このタイミングで盗まれるとは思っちゃいなかったが。
それに加えて、俺が普段使っている電車はこの雷雨のお陰で全線が運転見合わせ。昼頃に始まって今もまだ動いていない。
朝から研究室に篭って作業をしていた俺は、電車が止まったという情報でさえ、つい先ほど手に入れたばかりだった。おかげさまで、卒業研究が捗りそうだ。
俺の心理的に作業速度はかたつむり以下だろうが。
それにしても
「君は大丈夫なのか?親御さんに迎え頼んだりとかは?」
後輩はディスプレイに目を向けたまま答える。
「私一人暮らしなので」
「あぁ…。下宿先は近く?」
「二駅程離れています」
「じゃあ歩くのは無理か…、君も災難だな」
「………、そうでもないですけど…」
「ん?」
なんでもありませんと答えた後輩。何と言ったのかわからなかったが、目下の問題は別にある。
研究室内に男女二人、夏休みということと、台風接近が大々的に報道されていたのもあって、他の研究室が空いている様子は無く、そもそも教務課に人がいるのかも怪しい。
兎にも角にも、此処は一度相談をするべきだろう。あらぬ疑いを掛けられては折角手に入れた内定もパァだ。
「ちょっと教務課に行ってくる」
「はい?」
「なんでそこでそんな驚くのさ…。俺はこのまま帰れないだろうから宿泊の許可と、人がいれば君を送ってもらう」
「…私と二人じゃ、迷惑ですか」
余り愛想が無いのは彼女の平素だが、今は良く表情が動く。いや、露骨に落ち込んだ顔をするとかでは無くて、微妙に眉毛が下がっている。
なんだかんだで、彼女と自分が研究室内で過ごしている時間は長い。基本的に家で作業が捗らない俺は研究室で作業するのだが、いつの間にか後輩が研究室にいて、最後に彼女と共に研究室を出ることは少なく無い。
それ故に、彼女の感情の機微は何と無くわかるようになった。
ただ、だからこそ彼女がそんな顔をするとは思っていなかった。
「迷惑とは思っちゃいないが…君は迷惑だろう。俺なんかとあらぬ疑いを掛けられるのは」
後輩は少しムスッとして語気を強める。
「あまり自分を落とすのは感心しません」
「おっと唐突な上から目線」
おじさんこれには二つの意味でビックリ。
感心されたくて言ったんじゃないんじゃよ。
「わかりました。宿泊許可は必要だと思いますけど、私のことは気にしないでください」
「いや、でも…」
「気にしないでください」
「えぇー…」
なんで今日こんなに押し強いん、君。
いつもの冷静ぶりからは想像もつかない。
「お願いします、バレないようにしますから…」
「………、んー、そうは言ってもなぁ…」
割を食うのは確実に俺なのである。
「内定消されたら私が養いますから」
「君もう完全に何が問題かわかってて言ってるね?」
「ぅ…」
俺は小さくため息を吐いた。
「わかった。君が何にそんなに執着しているかは知らないが、黙っておいてやろう。その代り、くれぐれもバレないようにな」
パッと顔が明るくなる。ここまで顔が綻んだのは初めて見るかもしれない。そんなに長い付き合いではないけど、何となく俺まで嬉しくなってしまう。
「ありがとうございます!」
「あぁ、所で、君親御さんに連絡はしなくていいのかい?」
「別に、大丈夫です。一人暮らしなんで」
ブー!ブー!ブー…!
鳴り響くバイブレーション、画面にはお母さんの文字。
「一人暮らしなので」
「そうだね、実家暮らしだね」
舌打ちしながらスマホの電源を切った後輩に言う。
「流石に伝えといたほうがいいと思うぜ?次が無くなる」
「次があるんですね?わかりました連絡します」
「いや、もしかしたらのはな…」
「次が、あるんですね?」
「アーソーダネーアルカモネー」
「ありますね?」
「あぁありますあります」
今日は強いよ、すごく強い。
ここまで押しが強いのは本当に初めてだ。対応に困るどころか対応できる気がしない。
自慢じゃ無いが告白されたことなんて今まで一度も無いぞ!告白したことも無い!好きな子は居てもヘタレてました!すみません!
だってなぁ、そういう時って大体さ、自分より何もかも優ってるって思う奴が、おんなじ想いで見てるんだもの。諦めるさ、そりゃあね。
言い方は悪いが、勝負から逃げて来た。して来なかった。
波も風も立てない、つまらなくも見える、穏便な人生。
何も彼女が出来るのは今である必要はない、そのうち出来る。仲間、友達の幅が狭い学生のうちは、穏便に、穏健に。
それが俺のモットーだった。
「あの、先輩」
でも、何故だか、今は期待のほうが大きかった。
電話を終えた彼女が俺に声をかける。
ここが分かれ目。
継続(このまま)か、始まりか。
「………、迎え、来れるって?」
「…はい」
彼女の顔を見て、俺は笑って言った。
「良かったね。帰る準備しておきな」
「あの…!」
俺は作業する手を止めずに、間延びした返事をする。
「次は、一緒ですから」
「…次があったら、ね」
波も風も、常に同じとは限らない。
彼女は例えるなら、今宵の嵐と一緒だ。
同じルートは通らない。
扉を閉める音に、後ろ手に手を振って別れを告げる。
過ぎ去った嵐に、少しだけホッとして
「次の嵐は、いつになるかねぇ」