第1話 少年の日の思い出

 それは、氷のように冷たい雨の降る、初夏の出来事だった。
 ゴロゴロと嫌な音を撒き散らす雷雲が空を覆い、真昼なのに不気味なほど暗くて、恐ろしくて……今思い返せば、何かが起こることを暗示していたのかもしれない。
 そんな空を見上げていた僕は、吸い込まれそうな錯覚にとらわれた。めまいがして、喉の方から何かがこみ上げて来そうになって……でも、

 次の瞬間、眼前の世界に無数の閃光が走ったんだ。

 さっきまでの気持ち悪さがどうでもよくなるほどの圧倒的な光。破壊力を秘めた光が、天空から地上へと堕とされた。
 ただの落雷とは到底思えなかった。嫌な予感しかしなかった。胸の中を這いずり回る嘔吐感。でもこれは、さっきの感覚とはまるで違う。背すじを凍りつかせる絶望感。
 瞬間、僕は背負っていたランドセルをかなぐり捨てて、脇目も振らずに走った。足がちぎれんばかりの速さで走りに走った。

 隣町の学校に通う僕の家まではだいたい2キロくらい。その距離を、呼吸を忘れるほど全力で走ったのだ。子どもの体には相当応えただろう。
 慣れ親しんだ通学路がまったく別物に見えたのは、感覚が異常なまでに研ぎ澄まされたからか、はたまた胸中をうずまく焦りと絶望からなのか……とにかく最悪な気持ちだった。

「ハア、ハァ、……ハア、ゲフッ!? はは――」

 過呼吸気味に喘ぎ、眼前の光景に自然と乾いた笑みのようなものが張りついてしまう。
 足腰が限界だったのか、膝から崩折れる。目の前の惨状を否定しようと、無意識の内に額を地面に擦りつけていた。
 映画でしか見たことがないような、この世の終わりとも言えるほどの轟音と共に撒き散らされた無数の閃光は、神の威光の代行か――

 僕の町は空から見たらきっと、神が気まぐれで作った現代アートみたいに見えるのだろう――直径10メートルはくだらない無数の穴ぼこに様変わりしていた。
 恐る恐る穴を覗いてみる。近場にあったこぶし大の大きさになったコンクリートの破片を落としてみたりもした。
 …………しばらく耳をすませたが、それでも音が帰ってくることはなかった。

 近くにあった本来なら白いはずの、くたびれたウサギのぬいぐるみをずりずり引き寄せる。布が破け、綿が飛び出てしまった。

「……う、ぐっ、……ひっ、うぅ、…………」

 嗚咽がもれる。目から大粒の涙がとめどなく溢れてきた。その涙は拭っても拭っても止まることはなく、しばらくの間ぬいぐるみを思い切り抱きしめたまま泣き続けた。
 ここは確かに自分の家なのだ。その証拠にいま僕は母から3歳の誕生日にもらったぬいぐるみを抱いているのだから。
 けれど、辺りに家はちらほらとしかなくて、僕の家が見つかることはなかった。

 目の前には大きな穴。穴、穴……穴だらけ。これだけの条件が揃ってしまってはいくら否定しようとしても無駄だ。悲しいまでに現実を突きつけてくる。
 眼前に広がる光景は現実逃避さえ許してはくれなかった。

「…………」

 しばらく呆然としていた。時の流れが止まったような感覚。ゆらゆら、ゆらゆらと、そのまま自分という存在が溶けていってしまいそうな錯覚。むしろそうなったらどんなにラクだろうかなどと半ば自暴自棄になりながら、拳を叩きつけていると、

 ふと、頭上に影が下りた。

「なっ……!?」

 息を呑むほど巨大な影だ。その存在感に圧倒されていると、背後から女の声が聞こえた。

「あら? あなたにもアレが視えるのかしら、しかも肉眼で?」

 さっきまでここは確かに自分だけだったはずだ。人の気配など微塵も感じないほど死と静寂で溢れていたのだから。
 それが唐突に声をかけられた。まるで初めからそこにいたかのように平然と、一体この女の人は何者なのだろう?

「しかし驚いたわね。たった一度の雷で町一つを壊滅させるなんて……レムナントの干渉はなさそうだけど、なら直接コッチに来た?」

 女は口ではそう言うものの、驚いたそぶりなどまるで見せず……淡々と目の前の状況を確認し始めた。

「新人クン、悪いけどそこの坊やを連れてC.I.に帰還しなさい」

 側に控えていたのだろう、若い男にそう告げた。

「し、しかし先輩、アレはどう見ても……」

 男の警告をピシャリと遮ると、

「あら、よく分かってるじゃない。彼我の力量を見極めるのは簡単なことじゃないわ。将来有望な後輩を持てて、私は幸せだわ」

 どうやら男の言いたいことを理解している彼女は焦っているわけでもなく、ゆったりとした笑みをみせた。

「あっ、先輩ッ――!?」

 男の声を最後まで聞かず、女は物凄い勢いで跳躍した。
 彼女の足元に幾重にも重なる、奇妙な紋様の描かれた円が浮かび上がる。それを踏みつける度、彼女の身体が人間のものとは思えないほど加速する。

「どうして?」

 僕の口から漏れるように出たその言葉は、いたって普通の疑問だった。なぜ彼女はあんな訳のわからないバケモノを相手に立ち向かえるのだろうか? 実際、今の僕は腰を抜かしてとてもじゃないけど、一人では身動きがとれそうにない。
 僕の疑問に、背後から優しく手を添えた男は、見当違いな解を示した。

「坊やが驚くのも無理はないね。なんたって僕らは魔法使いだからね」

 魔法使い。その言葉の意味が僕には理解できなかった。

「でも、流石に先輩でもアレはまずい。今までの相手とはケタ違いだ――」

 男がなにか言っているようだったが、僕の耳には入ってこなかった。
 魔法使いとはあの魔法使いのことだろうか? おとぎ話に出てくるような、不思議な力を使って悪いヤツらをこらしめる、とんがり帽子をかぶったおじいさんのような。

 とても信じられない。だってアレは物語の中だけでの話だから……そんなものは今時小学生の僕だって知っている。
 フィクションと現実はぜんぜん違う。僕だってそれくらいの分別はつく。サンタクロースを信じるほど愚かじゃないつもりだ。
 夢も希望もあったもんじゃないといってしまえばそれまでだが、僕はその辺、ほかの小学生より少しだけ賢いのだ。

 そんな僕を前にこの男は今なんといっただろうか? 魔法使い? 鼻で笑うを通り越して、呆れてしまう。

「クソッ! 今の僕にはどうにも出来ない。おとなしく先輩の指示に従うしか――」

 男が血がにじみ出るほど強く、拳を握っているのがわかる。
 すまない。男が小さくそう呟いたような気がした。
 と、唐突に浮遊感が訪れた。身体が簡単に担ぎ上げられる。
 景色が激流のように流れていく。

 信じられない速度だった。振り返ると、背後ではさっきの女が巨大なバケモノと戦っている。
 傷だらけの身体、何本もの赤い線に刻まれた彼女はこちらを見ると、苦しげに歪められた表情をふっと緩め、

 生きて――と、真紅の雫を瞳から落として、この世からかき消された。

「あ――」

 僕はそんな気の抜けた声しか発せなかった。
 目の前で人が殺されたのだ。事故とかそういうのじゃない。バケモノが腕をふるっただけで彼女の命が潰えたのだ。
 意味とか、理由とかそんな物の介入する余地は1ミリもなかった。ただ単に、あっさりと、驚く間もなく……。

 意味がわからない。まるでわからない。

 理解しようとする僕の思考を嘲笑うかのように、遥か先を行くその光景に――ただただ、圧倒されるだけだった。

 バケモノがこちらを見た気がした。
 口の端を歪に曲げ、嗤う。

 何がそんなに楽しいのだろう? 何がそんなに可笑しいのだろう? ケタケタ、ケタケタと。背筋を凍らせるその嗤い声が、僕の耳を痛いほどにひき裂いた。
 ぐにゃりと、バケモノの姿が蜃気楼のように揺らぎ、消えた。

 刹那、時間の流れを感じさせないバケモノが眼前に現れた。

「クソッ!? ここまでか――?」

 男が口惜しげに悪態をつく。
 僕が聞き取れたのはそこまでで、僕の視界はテレビの電源のように一瞬にして暗転してしまった――

 ***

 僕が次に目を覚ましたのは、ひどく天井の高い真っ白な部屋だった。
 だだっ広い空間にぽつんと置かれたベッドの上に寝かされていたらしい。
 あのバケモノに襲われてどうやって生き延びたのかはわからないけれど、とりあえずは危機を脱したみたいだ。

 僕を助けてくれたあの男は無事なのだろうか。そもそもあのバケモノは一体なんだったのか。などと、いろいろ考えているうちに、前方の扉が音もなく開いた。
 姿を見せたのは、僕を助けてくれた男と白衣を身にまとった40歳ぐらいの男だった。

「身体の調子はどうだボウズ?」

 研究員だろうか、右目に刀傷の入った白衣の男は僕の身体を上から下までじっくりと眺めた。
 いろいろと訊きたいことはある。が、優先すべきは現状の確認、それから僕の住んでいた町はどうなったかだ。

 僕はここに至ったまでの経緯を男に尋ねた。

「ほう? 小さいくせにしっかりしてるな! それともただ冷血なだけか? まあ、どっちでもいいがな。ボウズが置かれている状況はこうだ――」

 10分くらい経っただろう。男はこと細かに僕が気絶してからの出来事を話してくれた。
 彼の話をまとめると、

 1.僕の住んでいた町、人口にして12万近くの人が住む町だが、壊滅したらしい。バケモノによる被害を最少に抑えるべく、あの区画一帯をバケモノ共々隔離したとのことだ。
 いろいろと信じられないことの連発で脳が追いつかないが、とりあえず先に進もう。

 2.ここは、僕の町に現れたバケモノ――正確には|災害因子《カラミティア》というらしい――を近年開発された新技術、魔法を使って駆逐する専門の機関、災害研究機関。通称C.I.とのこと。
 いわく、災害とはこのカラミティアたちによって引き起こされる現象を指すらしかった。

 3.新技術、魔法はまだ開発されて数年であり、公には内密に研究が進められており、この技術をいち早く手に入れようと画策する企業や団体、宗教組織が絡んでいるみたいだ。
 しかし、今回の事件はさすがに隠し通せるわけもなく、C.I.はカラミティアのことをつい先日、公にしたのだと言う。

 男の話は大体こんな内容だった。そしてここからが、本題。
 それでな、と男はタバコをふかしながら|訥々《とつとつ》と話を再開した。

「さっきも話した通り、魔法ってのはまだまだ未完成な部分が多い。……そこに現れたのがボウズ、お前だ。お前さんはなぜか、カラミティアを肉眼で捉えることができた。うちの職員は何万といるが、そんな奴は今まで一人もいなかった」

 要するに僕は特殊な体質みたいだ。他のみんなは魔法を介してしか視認出来ないはずのカラミティアが、僕だけには肉眼で視えるのだから。
 冗談じゃない! 僕は今まで普通に生きてきただけだ。わけのわからない争いに巻き込まれるのはゴメンだ。さっさとこんな場所とはおさらばして、どこか遠くへ――
 けど、そんな僕の胸中を知る由もない眼前の男は、まだ小学校に入学したての年端もいかない少年を前にして、無慈悲にもこう告げたのだ。

「ボウズお前の|瞳《め》は特殊だ。そんなお前には3つの選択肢を与えよう。
 1.この研究所を出た途端、新技術を取り入れようと奔走する他の企業・組織に拉致られ、モルモットのような人体実験を繰り返され、死ぬより辛い苦痛を味わうだけの人生を送る。
 2.他の組織に情報が渡る前に、今ここで殺害される。
 3.瞳に関する一切の情報を守り抜き、C.I.の庇護下で魔法を習得し、他の連中に殺されない、バケモノさえ葬り去る圧倒的な力を身につける。無論我々C.I.が人体実験をするようなことはない。
 さて、それじゃあ――ボウズ、お前の選択を訊こうか?」

 齢六歳にして、こんなにも理不尽な選択肢を突きつけられることがあるだろうか? きっと世界中探したって僕一人だけだ。

 男がほんとうに楽しそうに嗤う。どこかで見たような、問答無用で背筋を凍りつかせる笑み。それはあのバケモノに似ているような気がした。
 僕がその笑みを忘れることは二度とないだろう。だってそれは――

 ドクンッ! 思わず心臓が跳ね上がる。今まで感じたことのないくらい強く、激しく。胸の中を暴れまわり、喉から飛び出そうになった。

 ――そして僕は、選んだんだ。それが最悪の選択肢だとは知らずに。だってそれしか、生き延びる選択肢はなかったのだ! 始めから僕に選択の余地なんてなかった。
 だから、死なないために……死ぬほど努力することがどういうことか嫌というほど知ることになる。


 それはこの先の10年、あの時死んでおけばどれだけ幸せだったろうかなどと、死ぬほど後悔することになるほどに。

紅十字
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