闇である。
新月は道を示さず、どこまでも墨を零した様な黒を広げていた。
草木も眠る丑三つ時、齢七十を超えた老武士が息を乱しながら駆けていた。この男に「己の意思か?」と問えば「わからぬ」と答えるであろうか? いやその問いすらも耳に入らぬかもしれない。
闇は全てを隠す。
急に曲がった道は老武士を田の中へと叩き込んだ。だが勢いは衰えず這い上がってまた駈け出したのだった。
目的地は無い―
老武士の名は畑権助、彦根藩江戸屋敷に詰める足軽だった。
彦根藩の足軽は他藩の足軽とは身分に違いがある。足軽屋敷と言えば長屋が当たり前であり、一軒家を与えられるのは足軽頭以上の身分でしか考えられないのが普通だった。しかし彦根藩では足軽に庭付きの屋敷を与えて同じ組の者同士が固まって住む形式が採用されていた。つまり彦根藩の足軽というだけで他藩の足軽頭並の身分を保証されていたのだ。
畑権助は江戸藩邸に住む足軽であったために一軒家を与えられる事は無かったが、江戸と国許での差があるのは住まいくらいで生活は他藩の足軽たちよりも豊かであった。そして権助には藩主の江戸城登城に随行する名誉ある役職に就いていたのである。
無意識のままに駆けているようで、権助の思考は様々な自問自答が繰り返されていた。
「どこへ行く?」
「わからぬ」
「なぜ?」
「足手まとい…」
二刻程前に小西徹蔵という若者の言葉が何度も浮かんでは権助を苦しめた。
「畑殿はご老年である故に決起はご遠慮願いたい」
他の者も「そうだ」という眼を権助に向けた。その場に居た二十名近い同志は誰も彼も青年や壮年であり、祖父ともいえる齢の権助を庇う者は一人も現れなかったのだ。
権助は悔しさの余りその場―世田谷代官屋敷を飛び出して駆けたのだった。
(これほど走ったのは桜田門以来か?)
今度は水路に飛び込みやっとの思いで這い上がり、フッと冷静になった頭が権助に語りかけた。
幕府は高官たちの登城の際に駆け足で行列を進めるように命じていた。
政治の全てを司る幕府では、時には重大事が起こることもある。有事においては幕閣の早期集合が理想だが、その場合のみに登城行列が慌てて進むと下級役人や町人に国の変事を悟られてしまい、世情は混乱する。なれば普段から走りながら登城していれば悟られる心配も無くなる。という配慮からだった。
権助の仕える井伊家は、譜代大名筆頭の家格を持つ為に幕閣にも大きな発言権を持っていたが、一大名である間は登城行列もゆっくり進んでいた。しかし安政五年四月二十三日に井伊直弼が大老に就任し登城形式も慌ただしいものとなったのだった。
大老に就任すれば、ほぼ毎日の登城となる。直弼の駕籠のすぐ後ろに従う権助たちのような足軽も日によって多少の交代はあるものの毎日走っていた。
登城の道は、井伊家上屋敷を出発し、外桜田門を入り老中の屋敷前を通って、坂下門を入る。そして西ノ丸裏門の前を抜け、金蔵近くを通り玄関前門までであった。ここで多くの供は待機し、直弼は十三人のみを従えて江戸城本丸へと歩んでいくのである。
当然権助は玄関前門で待機し直弼の政務が終わるまでひたすら待ち続けるのだった。
走って待ってまた走る。これだけの仕事だったが、君主の傍で護衛を務める重大さに権助は誇りを持っていた。しかし毎日のように走らなければならず、また諸外国との修好通商条約や安政の大獄で多くの恨みを買っている直弼への警護も考えると七十二歳という老齢が身に堪えた。
(今年一杯で隠居をしよう)
子に恵まれず、養子すらも迎える間を逃していた権助が隠居をすれば、駕籠警護役は畑家から離れてしまう。そのような事態を避ける為にも、畑家と主君を守る若者を探さねばならない。この日の権助は寒さに震えながらそのような事を思っていたのだった。
安政七年三月三日。
上巳の節句に季節外れの大雪が江戸の町を覆い、二尺も積もった。
「本日の登城には雨具を着用するように」
主君からの命が下り、権助も刀に柄袋を被せ雪が入らないように固く紐を結び、蓑を着用した。
登城の刻限となり駕籠に乗る主君をちらっと見た権助は小さな不安を覚えた。その表情があまりにも清々しかったからだ。直弼が彦根藩世子として江戸に来てから十五年近い月日が流れるが、あのような顔を見たことは無かった。世子時代は兄に遠慮し、藩主時代は慣れない行事に追われ、大老に就任してからは重荷に潰されない様に踏ん張っていた主君である。
(大老の重圧はますます重く圧し掛かる一方ではないのか?)
何かに解放されたような表情の意味が理解できなかった。
「ご出立」の掛け声が響き上屋敷の門が大きく開かれる。
行列は門を出て外桜田門へと駆け出して行った。
「お願いの儀がござります!」
行列の前方で叫び声が聞こえ、急に停止した。やがて二、三の気合いが響き駕籠の警護をしていた中級藩士たちが行列の前へと集まって行く。権助も行くべきか迷い一瞬の思考の空白が生まれた。
ダーン
乾いた銃声が木霊した。
(左!)権助は何が起こったのか理解できないままに銃声の発射元を探すと、左方江戸城中濠沿いに建つ小屋の陰に銃口から煙を残す短筒を構えた浪人を見つけた。同時に、何人もの浪人者が駕籠に向かってきたのだった。
「おのれ!」
先の騒ぎでも駕籠の傍を離れなかった河西忠左衛門が大小の刀を抜いて構え浪人たちに挑んだ。河西は常に駕籠を背にして直弼を守っていた。
「殿、早くお逃げ下さい!」
河西は刀を振るいながらも駕籠に向かって叫んだが、直弼が出てくる気配はなかった。
あちらこちらで斬り合いが行われている。権助も刀を抜こうとしたが紐の結びが固く柄袋が外れなかった。同じような現象が多くの彦根藩士に起こっていて鞘ごと刀を構えた者もいた。
鞘を構えた姿に斬られる恐怖を感じない浪人たちは強気に斬りかかってくる。しかし藩士も浪人も冷静さを失っているのか鍔元で刀を重ね、多くの藩士たちは指や顔を斬られた。
柄袋を取り払った藩士も現れ、浪人たちが必死の形相になっていく。
権助もやっと刀を抜くことができた。駕籠に駆け寄ろうとした権助の目の前で、河西に複数の浪人が斬りかかり、河西が倒れた。
次の瞬間「覚悟!」という大声と共に直弼の乗る駕籠の横から浪人が刀を突き刺し、別の者が後ろからまた別の者が…と幾本もの刀が駕籠に吸い込まれていった。
薩摩訛りの男が駕籠の戸を開けて中から血に染まった直弼を引きずり出すと、首を落として刀の先に刺して走り去って行ったのだった。
権助は、直弼の首が運ばれていく様をただ茫然と見ていた。身体が勝手に幾度かの呼吸を繰り返して現実と向き合う余裕を与えた。
「殿!との!」
首の無い主君の身体に触れようとしたが、足軽の身で大老の身体に触れる非礼を躊躇させる余裕まで思い出してしまい、途方に暮れた。
彦根藩上屋敷から援護の藩士がやってきたのはこの直後だった…
権助は闇の中をまだ駆けていた。
目的が無いなどとは己に嘘を付いている。否、気が付かないふりをしていた。
駆けながらひたすら探しているのは死に場所だった。主君を目の前で殺され、仇討すら出来ない身を生かし何の得があろうか? ならばせめて主君の後を追って殉死するしかあるまい。
野垂れ死には無駄である、とは言えども藩に関わる場所で自害すれば、藩の責任を問われてしまう。後を追うことすら容易ではなかったのだ。
「このまま泣き寝入りとは武士の一分が立たぬ、水戸藩に討ち入るべし!」
首がない直弼の遺体を迎えた上屋敷では藩士たちが大騒ぎとなっていた。直弼を襲った一団が十七名の水戸浪士と一名の薩摩浪士だと知らされると水戸藩邸へ仇討ちし、前藩主である水戸斉昭の首を取る計画まで練られたのだった。
直弼政権を補佐していた老中首座の安藤信正が、混乱する幕閣の舵取りをしなければならなかった。
安藤は彦根藩士と水戸藩士が江戸市中で争って治安が乱れる恐れを抱き、世子が届けられていなかった彦根藩に対し直弼の嫡男の愛麿呂を世子として元服させ“直憲”と名乗らせ、この間は直弼を生きている事にして彦根藩を相続させたのだった。これは彦根藩士が騒動を起こした場合には即刻藩を取り潰すように暗に示した幕閣と彦根藩重臣の取引でもあった。
「藩を人質に取られては何もできん…」
多くの彦根藩士は、悔しい思いをしながらも耐える道を選ばずにはいられなかった。
どのくらい走ったであろうか?足は悲鳴をあげ喉はカラカラに乾き、身のあちらこちらは傷だらけとなって流れる血が権助の体力を消耗していった、道の小さな窪みすら避ける力も無くなりそのまま転倒した。
(もう力が入らぬ、このまま殿の元へ参ろう)
薄っすらと白み始めた空が己の見る最後の景色になると覚悟して目を閉じた途端に気を失った。
「やはりこのままでは納得できない」
桜田門外の変と呼ばれるようになった直弼暗殺事件当日に江戸に詰めていた若い藩士を中心に、抑えきれない怒りの炎が燃え上がろうとしていた。
幕閣からの指示により江戸藩邸の指揮を執っていた家老の岡本半介は、そんな藩士たちの爆発をどうにか抑えようとその行動に逐一目を光らせ様々な懐柔策を練ったが、彦根藩では定期的に国許と江戸の家老を交代させる制度があり、岡本が彦根に向かい同じく家老の木俣清左衛門が江戸に赴任すると、木俣はこれらの藩士を力のみで押さえつけようとし、逆に藩士の細かい行動が目に入らなくなった。
この頃から、直弼の仇討を考える藩士たちは井伊家の飛び地である世田谷代官屋敷や佐野代官所に集まって水戸藩への報復計画を練るようになったのである。
闇が続いている。
権助がその意識を取り戻した時、周囲はまた闇に包まれていた。
(これが浄土なのか?)
信仰心よりも忠誠心を大切にしていた権助に、死後の世とは如何なるものか知る由もなくただ受け入れるのみであった。
「やっと目覚められたか」
不意に足元付近から壮年男性に話しかけられ、権助が建物の中で布団に寝かされているのだとわかった。
「二昼夜も眠っておられたのでもうダメかと思いましたぞ」
男は横になったままの権助に近付いて顔を覗き込んだ。
男は袈裟を着て坊主頭であり、どこかの寺であろうかと予想され、権助は「ここは?」と訊ねた。
「川崎の廣福寺、私はこの寺の住職でございます」
やはり寺であったが、世田谷から川崎まで駆けていた己に驚いた。
「あなた様は寺の前の道に倒れられていたので、拙僧がここにお運び申し上げたのです、お身は傷だらけ、足は大きく腫れて、息も細くあられましたので失礼ながら着物は変えさせていただいた、お許しくだされ」
「死ねませんでしたか…」
権助が弱々しく呟くと住職は「寺の前で人は死にませぬ」と答えた。
「人は死して後に寺に運ばれるものであり、自らの足で寺に参るのは生者である証にございます。あなた様が寺の前にお倒れ遊ばしたのはまだ生きる為でございましょう」
不思議な考え方だった。が、権助に反論をする知識も体力も無くただ「はぁ」と受けいれるしかなかった。
「何があったのかは存じませぬが、あなた様は『生きなければならぬ』と御仏が仰っておられるのではありますまいか?
しばらくはここにお留まりになり考えられてはいかがかな?」
住職の半ば強引とも言える話術によって権助の廣福寺生活が始まったのである。
寺に導かれたのも何かの縁であろう。と権助はここで主君の菩提を弔らう決意をした。
廣福寺は平安時代に真言宗の寺として開山し、鎌倉時代は稲毛三郎重成が中興し、成重が城主を務める枡形城の中にあった。稲毛家は源頼朝と姻戚関係を結んだ縁で御家人の中でも大きな勢力を持っていたのである。
寺には平安時代の作と伝えられている聖観音立像が鎮座した観音堂がある。権助は住職の許しを得て、毎朝夕この観音堂に参拝した。
(これは殿である)と思ったのだ。最後の日直弼の清々しい顔を見なければ不動明王や鐘鬼像を探したであろう。権助の知る直弼は常に厳しい顔をしていたからである。しかし本当の直弼の持つ顔を知り、そして彦根に戻った時は何度も領内を巡視して領民の生活に気を配ったという話を思い出すと、聖観音のような穏やかで慈悲深い顔を持つ仏こそが主君に相応しいと思った。
報復計画の首謀者は、権助と同じく足軽出身の小西徹蔵だった。
徹蔵は小西貞徹の次男で、すでに家督は兄が継いでいたので本来ならば彦根藩に仕える身ではなかったが、桜田門外の変で直弼の駕籠を守って闘死した河西忠左衛門が剣の腕を認めて特別に直弼警護役を任ぜられていた剣豪だった。しかし桜田門外の変の日は非番だったのだ。「もしも自分があの場に居たならば、殿も河西様もお守りできたのに…」との後悔の念が小西を駆り立てていた。
「たとえ脱藩してでも殿の仇を討つ!」
小西の決意は固く、また聞いている者にとっても耳に心地良く響いた。剣士でありながら学問も修めていた小西は、弁舌も上手く、若者だけではなく権助のような老年者でも魅了され、簡単に水戸藩に討ち入れそうな気になっていた。
皆が小西の言葉に酔い、小西を中心に結束していった―
計画を進める会合は主に月末から月始に行われた。新月の前後ならば行動が分かりにくいからである。世田谷代官屋敷は格好の隠れ場となっていた。
小西はついに脱藩した。この日は、これに続く同志を求める会合が開催された。
権助は、今までの会合は全て参加していて畑家が断絶になろうとも小西に続こうと決意していた。
「今日が皆との最後の会合となろう」
小西の演説は、二十名近い参加者をまたも魅了した。
「さて」いよいよ最後の同志を募る言葉が出て来る。権助の脳裏には、駕籠に何本もの刀が刺さり引きずり出され首を斬られた主君の姿、忘れられない光景が幾度となく繰り返された。小西には真っ先に協力を申し出ようと構えた。
「畑殿はご老年である故に決起はご遠慮願いたい」
権助は一瞬耳を疑った。
(何を申しているのだこの者は…)と小西を凝視した。
誰かが「そうだ!」と叫んだ。するとあちらこちらで「うむ!」「その通り!」と声が上がった。
「畑殿、後は我らに任せて下さいませ」
小西は優しく権助に語ったが、気休めにもならなかった。呆然とした権助は、そのまま代官屋敷を飛び出して闇の中へと駆けだしたのだった。
安政七年が万延元年に改元され、権助が世田谷代官屋敷を飛び出し廣福寺に転がりこんでから二月ほどの時が流れた。
「八月十五日に、水戸斉昭が亡くなった」と権助の元にも伝わってきた。
この時「これは彦根藩士の報復である」という噂も一緒に伝わり、権助も「そうかもしれない」と思っていた。
斉昭は中秋の名月を楽しむ祝宴を水戸城内で行い、厠に立ったまま帰らぬ人となったそうだ。
厠の天井に忍んだ彦根藩士が、隠し持っていた小刀で斉昭の胸を背中から刺した。と、まるで見てきたような話も伝わってきた。
(彦根藩士なら堂々と前から刺すであろう)
権助はそう信じた。
そんな噂もすぐに消えてしまった。異人が斬られる事件や京で流行りだした天誅事件、そして和宮降嫁など、世情が目まぐるしく動いたからだ。
直弼や斉昭の死から二年後の文久二年は、彦根藩にとって試練の年となった。
一月十五日、江戸城坂下門外で安藤信正が水戸浪士五名に襲撃され負傷、この時まっさきに逃げ出した安藤は士道不覚悟の責任を負い四月十一日に老中を罷免され八月十六日には隠居・謹慎・二万石の減俸を受けている。
安藤の失脚により、桜田門外の変で直弼が生きていたという虚偽の届け出を井伊家が行った一件が問題視された。これにより井伊家に委ねられていた京都守護の役職は没収され、彦根藩は十万石の減俸となった。
幕閣の政変は彦根藩内にも政変を生んだ。直弼の懐刀だった長野主膳と宇津木六之丞は彦根城下の牢屋敷に容れられて取り調べも行われないままに斬首となる。左幕派の家老であった木俣清左衛門と庵原助右衛門は隠居謹慎となった。彦根藩政は勤皇派の岡本半介と新野左馬助に委ねられ、岡本と交流の深かった下級武士の組織である「至誠組」が暗躍するのである。
至誠組の中心に大東義徹という知らぬ名の武士が居て、その噂を権助が度々聞くようになった。
(最早、彦根藩を出た身である)
足軽出身であるという大東の活躍を耳にする度に、自らに言い聞かせようとしても簡単には切り替えができない苛立ちが襲ったのだ。
廣福寺に身を寄せた時、主君の菩提を弔らう一心で全てを仏に捧げたが、「それでは自分だけが逃げたことにはならないのか?」と思い悩み「やはり腹を切らねば収まらぬ」と何度も刀を探した時もあったが、いつの間にか住職が隠した権助の刀を見つけることは出来なかった。そして今は彦根藩の未曾有の危機であり、それを支えるのは聞いた事も無い名の足軽だった。
彦根藩の動向を気にしながらも何もできない権助は、聖観音に祈る毎日を続けた。
文久三年、苦悩の中にある彦根藩を見つめながらも七十五歳となった権助は出家し「秀元」と名乗る。
(俗世の縁はこれまでとし、ただ彦根藩の無事と殿の往生を祈ろう)
秀元は、廣福寺の本堂前に決意の句碑を建立した。
“彦城隠士”と号した秀元には最後まで彦根藩への思いが籠っていたのである。
碑の建立を見届けた後、秀元は廣福寺を出て近くの寺に寺男として奉公するようになり、歴史の記録に現れることなく静かにこの世を去った。
明治維新は彦根藩に不幸を与えなかった。
文久の政変以降、至誠組が藩の主導権を握り、鳥羽伏見の戦いで早々と官軍に鞍替えしその後に続く戊辰戦争でも旧幕府軍を相手に善戦した。
この軍を率いたのは直弼の従兄弟になる河手主水であり、補佐をしたのは岡本半介だった。また砲撃隊は大東義徹の手に委ねられていた。
彦根藩の活躍は並々ならぬものがあり、箱館戦争への参戦は免除され京の警護を任されていた。そんな維新の騒乱が終わり三十年が過ぎた頃、義徹は衆議院議員選挙に当選し、初の政党内閣である第一次大隈重信内閣では司法大臣に就任した。
内閣解散後もしばらく東京で政治に関わっていた義徹が何の縁があってか廣福寺に立ち寄ったのである。
「当寺には、彦根藩所縁の方がお住まいでした」
文久年間とは代が変わっていたであろう住職はそう義徹に告げ、その証拠である句碑へと案内した。
「時ありて 時ありて」
句碑に刻まれた発句を読む事が出来たが、続く文字が読めない。
「達筆であるな…」解読を諦めた義徹は、この句碑の主が誰であるかを確かめる為に裏を覗いた。
「彦城隠士 畑権助 法名秀元 文久三年 時年七十五建立」とある。
義徹はその名を懐かしそうに思い出していた。
「あのおり、我が言で代官屋敷を飛び出したご老人はここでお過ごしであったのか」
まだ小西徹蔵と名乗っていた若い頃、腕に過剰な自信を持ち、年寄を役立たずと決め付けた過ちを恥じ、句碑に手を合わせた。
「畑殿、私は水戸城に潜入し斉昭の命を奪いました」
主君の仇を討った後、兄の誘いで再び藩に戻ることになったが、名を変える必要に迫られ小西の反対の大東を名乗るようになり、それからは若者に担がれる形で至誠組を束ねるようになった。
(何故、背を刺した)
どこからともなく権助の声が聞こえた。
「水戸浪士が殿の駕籠を襲ったおり短筒を放った後の背後からの突きが、殿を最初に貫いたと聞き及んだからです。
背から襲うような卑怯極まりない武士道が水戸の作法ならば、我も己の道を捨てて卑怯に振舞う。と存じました。しかし飛び道具を使うまで矮小にはなれませんでした」
(できれば、卑怯者にも堂々と彦根藩士の意地を示して欲しかった)
権助の声に若気の誤りを再び恥じる義徹だった。
「やはり、あの場には熟練した畑殿のような同志が必要でした、申し訳ござりませぬ」
(よいよい、これで安心して殿の元に報告に向かえる)
権助の声はそのまま消えた。
「しまった、句碑の中身を聞くべきであった…」
義徹はもう聞こえなくなった声を名残に寺を去って行った。
彦根藩足軽の中に畑権助という名前は残っていない。偽名であった可能性は否めない。
そして、権助の歌が解読されたのは歌碑に刻まれた年から150年が過ぎた平成25年の事だった。
そこには、知ったものが非業の死を迎えながらも自らの腹を切れない男の苦悩が刻まれていたのだった。
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