「お嬢様、おめでとうございます」
 白無垢のお幸さんを目の前に想像しながら、私はそう語りかけた。
「もう、この歳でお嬢様もないと思うんだけど……、慎兵衛はいつまでそう呼ぶつもり」
お嬢様は想像でも生意気だ。
「えっ、あっ、でも、私はその呼び方に慣れておりますので」
「まあ、慎らしいと言えば、らしいかな。子どもの頃から変わらないんだから」
「申し訳ありません」
「それって、謝る事?」
こうしてまたお嬢様のペースに乗せられてしまいます。相手は幻なのに、ここまではっきりとお嬢様……いや、お幸さんの事を再現できるのは私だけでしょう。それが、例え直三郎さんでも……
 そんな事を思うこと自体、私は少し動揺しているのかも知れません。
お幸お嬢様の花嫁姿をこれから目にする心の準備が出来ていない自分を情けなくも思います。
明治四年七月、廃藩置県で彦根藩が彦根県になり、世の中は少しずつ御一新の空気に慣れつつある今、既に四十路を越えて幾年か経つお嬢様。
私が何故、このように心をかき乱しているのか、やはり三十五年間の歴史に答えがあるのでしょうか…。


「慎吉、ここが村尾屋さんだよ。今日からお前はここでお世話になるんだよ」
春の陽気とは程遠い重い口調で母がそう口にした事を私は今でも忘れていません。
「おや、もう着いたのかね」
店の中から精悍な顔つきの青年より少し歳をとった感じの男性が現れ「お前が慎吉かい」と、私の目を覗き込みました。
男性の問いに私が黙っていると、母は慌てて私の頭に拳骨を落としそのまま頭を抑えて自分も一緒に頭を下げたのです。
「礼儀も知らない子で申し訳ないです、この通りお許し下さい」
男性は、彦根の城下町で小物を扱う商人らしい優しそうな笑顔で私たち親子に頭を上げるように促しました。
「慎吉、お前は確か六歳だったね? それならばもう母上を困らす事をしちゃいけない、ましてや、今日からはここで働いてもらうんだから、お前も一人の男だ。だから、私も男としてお前に話をしよう。良いかね」
その時、私は初めて自分を男子として接してくれるこの男性に惹かれたのです。
「お、俺は…じゃなくて、私は慎吉。今日からお願いします」
「そうか慎吉か、では今日から頑張ってくれるかい」
今思えば、一人称を俺から私に変えたこの瞬間に、私は村尾屋に一生骨を埋める覚悟ができたのでしょう。
「私は、村尾屋の主人伊助」
「よろしくお願いします旦那様」
すると男性は少しくだけた調子で「おやおや、どこで旦那様なんて言葉を聞いたんだい?」と口にしました。
「かあちゃんが、そう呼べって言ってた」
「そうか、じゃあ私は『旦那様』だ」
旦那様は可笑しそうに笑って私の顔をいたずらな少年のような瞳で覗き込んだのでした。
「では、私は母上と話があるから先に店に入っておくれ」
そう言うと、旦那様は母の方に目を向けました。
振り向いて見た二人の姿は、何度も頭を下げる母とその肩に手を置いて何かを語りかけている旦那様。
この時はその姿の意味はちゃんと解かりませんでしたが、これから同じ風景を何度も見るようになり、その光景を見るたびに私の立場は上っていったのです。
店の奥の座敷に通され、しばらく待つと旦那様がやってきて「さて早速だが、お前には今日から私の娘の相手をしてもらうよ」と、言ったのです。
「えっ、娘って女の子の……ですか」
 私がトンチンカンな返事をすると、旦那様は大笑いで「おかしな事を言うね、男の子は娘と言わないだろう?」と、問いかけたのでした。
 私が口篭っていると、廊下の遠くから大きな足音が響き、そして近付いてきました。
「お父様、この子が新しい奉公人ですか」
 襖を開ける音と同時に飛び込んだ女の子が大きな声で叫んだのでした。
「これお幸、女の子がそんなに慌てて、着物の裾も捲れてるじゃないか、はしたない」
「もう、お父様ったら、例え娘と言っても女性に対してそんな言い方したら嫌われるんだからね」
お幸と呼ばれた女の子が、裾を直しながら悪態をついていましたが、その声には父親に対する甘えが入っていたように感じます。
「この子が今日からウチに奉公に来た慎吉だ」
お嬢様は、興味もなさそうに「ふ~ん」と答えながら横目で私を見ました。
「そして、お幸の世話をしてもらう」
 今まで他人事の筈だったのに、急に我が身に降りかかった一言にお嬢様は一瞬戸惑いました。
「えっ? ちょっと待ってよお父様、この子幾つよ」
「六歳だが」
「じゃあ、私より二つ歳も年下じゃない、そんな子に私の世話? しかも男の子だよ、心配じゃないの」
「何をおませさんな事を言ってるんだい。男の子と言ってもお前が言ったように二つも年下じゃないか、それにお幸がじゃじゃ馬だから女の子じゃお幸に合わせられない、仕方なく男の子に頼んだんじゃないか、嫌って思うなら少しは女の子らしく振舞っておくれ」
「お父様、ひどい。二言目にはそうやって私を責めるんだから…」
 この間、父娘の中では私の存在はあってないようなモノだったに違いないでしょう。
「あのう…」と声を掛けると二人で驚いたように私を見たのです、そしてその後の反応は対極的でした。旦那様は優しい目で「何だい」と言い、お嬢様はキッと睨んで「何よ!」と叫んだのです。
「私は、どうしたらよいのでしょうか?」
「さっき、私たちの会話を聞いたように、お前はしばらくこのじゃじゃ馬の世話をしておくれ」
 するとお嬢様はますます大きな声で「嫌よ! だいたい、年下の世話を受けるなんておかしいわ! これじゃあ私が世話をするみたいじゃない! それに男なんて女に比べてとろくて何も出来ないんだから! 私の世話係じゃなくて『私に世話される係』よ!」
 ちょっと言いすぎじゃないですか? お嬢様……、でも私にはそんなお嬢様の言葉が否定できる訳でもありませんでした。
「いい加減にしなさい!」
旦那様が大きな声で怒り、私とお嬢様は同時に肩を震わせました。
しかし、それ以上は何も言わずにその場を離れ、部屋には私とお嬢様が残されたのです。
しばらくの間があり、お嬢様が渋々といった様子で口を開きました。
「あんた、震えてるの、男のくせにだらしないわね」
「そういうお嬢様は、とうちゃんに怒られたくらいで腰抜かしてるくせに」
「何よ」「何さ」二人はこれでもかと言うくらいに顔を近付けて睨み合いました。
その時、初めてマジマジとお嬢様の顔を見た私は、素直に「かわいい」と思ってしまい、照れて眼を反らしてしまったのです。
「思った以上にだらしないわね、まぁいいわ。いらっしゃい」この瞬間から、私はお幸お嬢様の虜となったのでした。
お嬢様は、何処へ行こうというのか、私を後ろに従えて、どんどんと建物の奥へと進んで行きました。その間ずっと「こんなだらしない男の子じゃすぐに私の所から居なくなっちゃうかもしれないけど、いいわ、一応は面倒を見てあげる」とか「なんでこんな子を」など、私が逆らえないことを知ってか知らずか、散々に大きな独り言とも私にわざと聞かせいてるとも思える愚痴をこぼしていたのです。
 そして、一度だけ私に振り返り、「慎吉って言い難いから、今からあなたの事は『慎』って呼ぶわ。それから私は『お幸』。もし『お嬢様』なんて呼んでみなさい、承知しないから!」と怒鳴りました。
「わかった!」
「は、はい」
そうでした、危ない危ない。でも、結局私は『お嬢様』って言葉を使い続け、最初の頃はその度に色々な『承知しない』を身に受けましたが、結局はお嬢様の方が根負けしてしまったのでした。
さて、そろそろお嬢様の向かった先をお話しなければなりませんね、実はお嬢様は、私を連れたまま浴室へと入って行かれたのでした。
六歳といえども男子たる私が流石に躊躇していると、「何してるの、早く着物を脱がせてよ。そして慎も一緒に来なさい。あんた臭いんだから私まで臭いが移っちゃった気分だわ」と言って、両腕を真横に伸ばして立っているではありませんか。
それでも私はすぐにお嬢様の着物に手を伸ばすことはできませんでした。
「お、お嬢様」
「お幸って言ったでしょ」
「あっ、はい。でもお嬢様、痛っ!」
お嬢様の蹴りが私の脇腹に炸裂しました。
「お嬢様って呼んだら承知しないって言ったでしょ! あんたバカじゃないの?」
そう言うと、また例の恰好で立っています。これ以上は逆らえないと思った私は、お嬢様の着物の帯に手を差し出したのです。
 私には妹が居てその世話をする事もあったので、女の子の着物に慣れていない事はなかったのですが、普通な女の子の方が嫌がりそうな作業に、お嬢様は何の躊躇いもなく当たり前の様に私がするままに薄着になっていきます。
 私が目を伏せながらお嬢様の着物を脱がすと、それも当然のように恥かしがる事もなく私を急かして脱がせ、二人で浴槽へと入ったのでした。
 お嬢様の中では、誰かにしてもらう事が当たり前の生活になっているんだと私が悟ったのは体を洗う事すら私の仕事だった時です。お嬢様は妹よりも白く柔らかい肌で、力を入れたらそこから破れてしまうのではないかとハラハラしました。しかし、それでいながら旦那様がじゃじゃ馬と言われたように、足や腕には生傷も幾つか見つかりましたが、その傷口が白い肌に妙に似合っていて、私は思わずお嬢様の右の二の腕にできたばかりとも思える傷に口をつけて少し出ている赤い液体を吸い込みました。
「慎も傷に唾を付ければ治るのを信じてるの、前に居た美津と一緒だ」
お嬢様は、くっすと笑うと、「私なんて毎日傷が絶えないから、そんなことならどれだけ唾を付けても足りないかも」と言ったのです。この時、私はお嬢様の傷に口を付ける事を許されたのです。
お嬢様の体を洗った後、興味本位で私を洗おうとしたお嬢様から逃げながら体を洗った私は、その後、二人でゆっくり湯船に浸かったのです。
横でお嬢様が色々話し掛けてくれるのを上の空で聞きながら、ぼんやりとこれからの事を考えていたことが今でも思い出されます。

 後に知った話ですが、ある程度大きな商家に奉公に上がると、幼い間は子守りや掃除といった雑用をこなし、お店で働くという環境に慣れると読み・書き・算盤の手習いやお店での商用を教えられるそうです。ですから、私がお嬢様のお世話を言い付けられた事は決して不思議な話ではないとか。でもお嬢様は私の世話が自分の義務だと思い込んでいました。ですので、何処に行くにも私を連れて歩いたのです。そして村尾屋の近所ではいつの間にか私とお嬢様が一組として扱われるようになっていたのでした。
 また、旦那様は既に奥様を失っていて、お子様はお嬢様だけでしたので、村尾屋の主としての帝王学を幼いお嬢様に教育されていたのです、そのお嬢様から離れない私も一緒に旦那様のお話を聴く事ができました。
 こうして私は、ただの使用人では解かり得ない知識を学ぶ事ができたのです。

 私が村尾屋でお世話になるようになった翌年のある夏の日の事、お嬢様から、山一つ越えた所にある美津の家へ行くからと同行を申し付けられました。
「美津は慎の前に私の世話をしてくれてたんだけど、お嫁に行くから辞めちゃったんだ、だから慎に逢わせてあげたいの。でも、慎は私が世話をしてるんだけどね」
「しかしお嬢様、旦那様にお伝えした方が……」
 この後、当然のように『承知しない』攻撃が入り、そして「お父様に話したら絶対反対されるから嫌!」と言って、私の手を曳いてお店を出たのでした。
 山一つといえば大人でも簡単に越えられるものではありません、ましてや子どもの足では結果は見えています。そして運の悪い事に山の中腹で夕立に見舞われたのです。
 頭の先から足の先までびしょ濡れになった私たちは、偶然見つけたお堂で雨宿りをする事になりました。
そして、雨の当たらない場所に入り気が緩んだのか、お嬢様が急に震え始めたのです。
 私は、お嬢様の身体を少し強く抱きしめてその震えが止まるように祈ったのです。
「慎って暖かいね」いつもでは考えられないような優しく弱い声でお嬢様が口にしました。
「私ね、寒いのは得意な筈なの…」お嬢様の声が震えているのが、身体にも伝わっています。
「お嬢様、しっかりして下さい」私はもっと強く抱きしめました。
「また、お嬢様って…私は『お幸』って呼びなさいって言ったでしょ」
「しかし……」私が戸惑っているのをお嬢様は楽しんでいるのか?
「今日は、慎が暖かいから許してあげる。でもね、私の本当の名前は『幸』じゃないの」
弱々しい声で、今言わなければならない事なのかも理解できないままに、私は急に伝えられたその言葉の意味を考えました。
「お父様が私に付けてくれた名前は『雪乃』雪のように美しく純白な娘になるようにって願いからだって聞いたけど、私は雪って凄く冷たくて、すぐに溶けちゃう印象しかなかったから、これを知った時にお父様に散々文句を言って普段は幸せの『幸』を使ってるの。
だから、寒いのは得意って思ったんだけど、ダメみたい」
朦朧とする意識の中で、何かを話さなければと必死になったお嬢様の心の奥底にあるモノが口から出てきたのでしょう。私は自分自身の名前すら自分で決めようとするお嬢様の強さがただのじゃじゃ馬ではない芯が通ったものだと知ったのです、だからこんな風に弱っているお嬢様が余計に心配になりました。
「でも、この話は内緒だよ、お店ではお父様と番頭ぐらいしか知らない事なんだからね。この先は二人だけの秘密」
「わかりました」
「じゃあ、その口を封印」こう言ってお嬢様が私の唇に自分の唇を重ねてきたのです。
身体が冷え切って震えているとは思えないくらいに暖かく柔らかい唇から漏れる吐息が口から鼻に甘い香りを通していきました。
「慎、この事はお父様にも内緒だからね」唇を離したお嬢様は、こう言った後に気を失ったのです。

 動かなくなったお嬢様をもっと強く抱きしめて、絶対離さないと決心し、辺りの日が落ちて真っ暗になっても、耳元からお嬢様の吐息が聞こえ、いつの間にか眠っていると知ってもお嬢様の身体を離さなかった。いや、離すことが怖かったのです。
 やがて夜明け。
 日が入るのと殆んど変わらずに、お堂の扉が大きく開きました。
「お~い、居たぞ~」男性が大声で叫び、私たちの小さな冒険は終りを迎えたのだと知りました。
 店に戻った私たちは旦那様の前に連れて行かれ、二人揃って大目玉を喰らいました。

 これから先、二人だけで遠くに行く事は認められなくなりましたが、私の仕事がお嬢様のお世話から外れる事はなかったのです。そして、二人だけの秘密が私たちの絆を強める宝物にも思えたのでした。

 私が十五になった年、元服式が行われ、旦那様から『慎兵衛』の名前と手代の地位が与えられました。
「慎兵衛なんて生意気。慎はやっぱり『慎』よ」などと言ってお嬢様は私の呼び名を変える気はありません。
 この頃には私にも多くの後輩ができて、村尾屋ではそれなりに高い立場に居た筈なのですが、お嬢様のお世話は相変らず私の仕事でした。流石に一緒に風呂に入る事はなくなりましたが、傷口に唾を付ける習慣はそのまま続いていたのです。
ですが、十七にもなった娘さんがまだ生傷が絶えないという事も問題だったのかもしれませんね。

翌年、そんなお嬢様にも、ついに婿取りの話が舞い込んできたのです。相手は、旦那様の取引先だった新町屋の次男・直三郎さんでした。兄・清太郎さんを支えて新町屋の身代を大きくした事で、商人たちの間では名の知れた方だったのです。
取引先の唐崎屋さんからこの話が舞い込んできた時に旦那様は随分躊躇されたそうです。しかし、お嬢様は既に十八。どこかに嫁がれるならまだしも、旦那様にはお嬢様以外にお子様も居られず、婿養子を迎えるならば早すぎる歳ではありません。
こうしてトントン拍子に話が進み、天保十五年の秋に直三郎さんとの婚儀が執り行われたのです。

「お嬢様、おめでとうございます」
 白無垢のお嬢様を目の前にしながら、私はそう語りかけました。
「もう、婿を迎える身でお嬢様もないと思うんだけど……、慎はいつまでそう呼ぶつもり?」
お嬢様は直三郎さんの手前、大人しく答えているが、眉の端に怒りが込み上げています。
「私はその呼び方に慣れておりますので」
「……」何かを言葉に出すとじゃじゃ馬ぶりが出て旦那様に迷惑が掛る事を恐れたらしい、お嬢様は無言の威圧をかけてきたのです。
「申し訳ありません」私が詫びを入れると、「何のこと?」とそ知らぬ返答。
こうしてまたお嬢様のペースに乗せられてしまう。直三郎さんのこれからのご苦労を思うと同情したくなった、しかし、それと同時に直三郎さんを見つめるお嬢様の顔を見る度に胸の奥に殺意も芽生えていたのです。

 お嬢様との婚礼の後、正式に村尾屋の跡取りとなった直三郎さんは、旦那様から直接商家の技術を学ばれました。
そう言いましても、すでに生家・新町屋で実績を積まれた方ですので、旦那様の言葉をまるで海綿が水を吸うかのように吸収し、より良い形へと発展されていかれたのです。約二年間旦那様に学び続けた直三郎さんに後事を託せると感じた旦那様は、店の主権を譲り楽隠居を決め込まれたのでした。
以後、私は大旦那様(隠居をされた旦那様)のお世話や雑用を申し付けられるようになりました、そして大旦那様は若旦那様(直三郎)夫婦の商売には一切口を挟まれなかったのです。
若旦那様はそんな大旦那様の期待に応えるような成果を示し、村尾屋の身代は段々大きくなってゆき、十人程度だった使用人の数は五十人以上に増え、店も隣の敷地を買い上げて一棟を丸々店舗とする程の発展だったのです。
嘉永三年の冬、そんな村尾屋の姿に安心したのでしょうか? 大旦那様は隠居からたった四年目にして病に倒れたのです。
 大旦那様の看病にあたったのはお嬢様と私でした。大旦那様の病状は楽観視できるものではなく、すると、私とお嬢様が顔を会わす機会が多くなったのです。若旦那様をお迎えしてから約六年間、同じお店の中に居ながらも私たちは殆んどすれ違う事もなく、お互いに噂程度でしか存在を確かめる事ができない間柄となっていたのでした。
 久しぶりに会うお嬢様は人妻らしい色香を醸し出し娘時代のじゃじゃ馬ぶりがどこかに消えてしまったようでした。この六年間に私が耳にしていた噂でも、人当たりが良く良妻ぶりを誉める言葉で埋め尽くされ、私の知るお嬢様との違いを不思議に思っていましたが、この姿を拝見し私たちはもう幼い頃には戻れないと実感したのです。
 そんな私たちの看病も空しく、大旦那様は日に日に病が重くなってゆき、ついに最後の瞬間を待つばかりとなりました。肩で苦しげに息をしながらも、その商人は自らの意識を保とうという強い精神力を持ち続けていました。

 しかし、ついに医者から辛い報せを告げられました。
 大旦那様の枕元に呼ばれたのは若旦那様夫婦と私の三人のみで番頭さんや他の手代・使用人もこの場に同席する事は許されませんでした。若旦那様は私を一瞥した後、自らの両手で大旦那様の手を包みました。
「義父上、しっかりして下さい」
「おお…直三郎…殿、村尾屋を…ここまで…盛り立てて…下さり…感謝の言葉も…ありません…ありがとう」大旦那様は息も絶え絶えに若旦那様の目を見つめました。
「はい、今後も村尾屋の名を辱めないように精進致します」
 大旦那様は軽く頷かれました。そして、その手を私の方に伸ばされたのです。
「慎兵衛、おゆきの事を頼んだぞ……」私は「えっ?」と驚いた顔をしていたことでしょう。そのままお嬢様を見ると、その横に座っている若旦那様が刺すような目で私を睨んでいました。
「それと…村尾屋は…この店以外に支店を増やしては…ならない。しかと…申し付けた」若旦那様の表情は落胆へと変わっていたのです。
私が「わかりました」と応えると大旦那様は相好を崩し目を閉じました。
「お父様!」お嬢様が大旦那様に抱きつきました。
「ゆき…の…」一瞬お嬢様の目が見開きました、大旦那様はこの言葉を最後に旅立ったのです。
 お嬢様が肩の力を落としている中で、若旦那様はあっと言う間に大旦那様を過去の人にしてしまったのです。既に店が若旦那様に引き継がれていた為に商売への影響も少なく、大旦那様の死後三日で全ては元に戻りました。ずっと大旦那様付きだった私は村尾屋手代として現場に復帰したのでした。

「江戸に村尾屋の支店を出す」
 若旦那様が全ての使用人の前で宣言したのは、大旦那様が亡くなって十日が過ぎた頃。
 私を始めとする使用人は驚きの声をあげ、お嬢様も初耳だったらしく、目を見開いて若旦那様を凝視したのです。唯一この話に驚かなかったのは番頭の助右衛門さんのみでした。
「お待ち下さい、大旦那様の今際の際のお言葉をお忘れですか!」私は素早く反対の立場を表明しました。
「慎兵衛、手代の立場で主人に逆らうんじゃない」番頭さんが私を窘めました。
私が次の言葉を発するより早く「慎兵衛、今の村尾屋は誰の物だ?」と若旦那様が冷たく言い放ったのです。
「若旦那様ですが……」私は呟きました。
「誰に対して若旦那だ! 村尾屋の主人は私、直三郎だ! 伊助はもう居ないと知れ!」
 若旦那様は、反対意見を耳にする気は元からなかったのだと理解しました。
「手代は手代らしく黙って働けばそれでいい、余計な事は口にするな!」
 番頭さんが若旦那様を宥めて、冷静さを取り戻し今後の方針を口にしたのです。
「江戸支店は助右衛門に任せ、慎兵衛以下十人で働いてもらう。一ヵ月後に出発するように…」
「直三郎さん、それはあまりにも一方的です」お嬢様も異論を口にしましたが、「お前は黙っていなさい」という若旦那様に逆らう事もできず口を噤むしかなかったのです。
 この先一ヶ月に渡って、お嬢様が使用人の前に出る事を禁止され、若旦那様によって奥の間の一室に閉じ込められたのでした。お嬢様が表に出てこられたのは、私たちが江戸に出発した翌日だったと聞いています。

江戸支店を任された番頭の助右衛門さんは、私が村尾屋に奉公に上がった時には既に番頭として店を取り仕切っていた人物で、初めての日に私を奥の間まで案内してくれた方だったのです。
大旦那様が隠居された後に、引き続き若旦那様の元で補佐として第一線で店を支えていたのです。今回の江戸支店については「大旦那様が亡くなられた今、本当の実力を世間に知らす為にはこの助右衛門を他へ移した方が良いのでは?」と若旦那様に話し、若旦那様がこの案に乗ったそうです。
しかし、この時、私は勿論の事、若旦那様も助右衛門さんの野望には気付いていませんでした。その野望が村尾屋を衰退に追い込む事も……

 村尾屋江戸支店は、支店と言いながらも彦根の本店とは全く異なった商売を行い、一年に一度だけ使用人を本店に報告に行かせるのみでした。
 若旦那様はその報告でしか江戸支店の実態を知る事ができずにいた筈ですが、助右衛門さんに全面的な信頼を置いていた為か、その報告だけで満足していたのです。
 現場の江戸支店では助右衛門さんが全ての権限を握っていて、手代の私を始め全ての使用人は金庫も帳簿も触る事もできませんでした。
 また、取引先にも助右衛門さんが直々に顔を出していて店には殆んど居なかったのです。つまり私や他の使用人はただの飼い殺しでしかなかったのです。
 このような状態で江戸支店に活気が生まれる訳がなく、やる事がない使用人たちが賭博と吉原に入り浸り、方々で問題を起こすようになっていたのも当然の成り行きだったでしょう。そうなっても助右衛門さんが店を省みる事はなく、私の仕事は使用人の起こした問題の処理となったのでした。
 嘉永六年六月三日、江戸支店ができて三年が過ぎた時、浦賀に亜米利加から黒船が来航。
 私が江戸に着いた頃から、江戸湾近郊には外国船が姿を見せていたので、今回も江戸の町ではそれ程の騒ぎにもならず、私も江戸でできた友人と共に浦賀に黒船見物に出掛けていました。
 浦賀では、沢山の人が集まって弁当を持ったり酒を呑みながら黒船を見物していて、その中には芸者や太鼓持ちを雇って船に乗って黒船に近付く大尽もいたのです。
 そんな大尽たちが乗る船を眺めていると、一艘の船の主が助右衛門さんである事に気が付いたのです。
 助右衛門さんは、二人の芸者を連れて泥酔しているようにも観てとれました。そして脇に置いた千両箱から小判を取り出しては芸者に与えていたのです。
 支店では、助右衛門さんが全ての金を管理していたために給金が払えない時もあり、使用人にも反感が生まれていましたし、当初十人でやってきた使用人は既に六人に減っていたのです。
「慎兵衛さん、あれはおたくの番頭さんでは?」友人の一人が助右衛門さんの存在に気が付き指差しました。
「確かに、その通りなのですが、店の者にこの事は内密に願いたいのです」
 私は友人に手を合わせて頼み込んだのです。
 しかし、人はどこで誰が見ているものか解からないものです、店に帰ってみると使用人たちが声を潜めながら頭を付け合せて何かを話していました。そして、私の顔を見るなり「今日、浦賀で番頭さんが芸者に金をばら撒いていたというのは真ですか!」と詰め寄ってきた。
「いや、それは……」
「隠しても無駄です、見た者が沢山いるんです!」
使用人の中では一番温和で冷静な久之助が皆を代表して口を開いたのです。私はゆっくり一度頷いて「残念ですが」と返事をするしかありません。
「それでも、もう少し、私を信じて助けて欲しい」私の何を信じれば良いのか? 私自身がその答えを出せないままに使用人たちに我儘を言ったのです。
 私自身、なぜここまで言わなければならないか理解できませんでした。助右衛門さんの為ではない事は解かっています。大旦那様の遺言を無視して支店を出した若旦那様を助けたいという気持ちも持っていません。敢えて言うなら、お嬢様でしょうか? お嬢様の村尾屋に泥を付けたくないとでも思っているのでしょうか?
(お嬢様に逢いたい、昔のようにずっと一緒に居られなくても一目この目で姿を確かめたい)江戸に来て、いや直三郎さんが婿養子にやってくる事が決まってから九年で初めてそう感じたのです。
 これが恋慕の念である事は幼い頃から知っていた、しかしそれと同時に身分の違いに諦め、相手が人妻になったという現実も高い壁となって私に圧し掛かっていた。かといって他の女性でどうにかなるモノでもなく、二十五になっても浮いた噂もなく独り身を貫いている。
 今、遠く離れた江戸で起った問題に立ち向かいながら、私を救えるのは唯一お嬢様だけなのだと改めて認識した私こそがここに居る中で一番ここから出て行きたかったに違いない。
 しかし、私と使用人たちはギリギリまで耐えていたのです。
 黒船も去り、江戸も表面上は落ち着きを取り戻したが、翌年一月十六日に再来航し幕府も亜米利加を受け入れざるを得なくなったのでした。この時から日本は大きな波に飲み込まれる小さな船のように迷走する事になるのです。特に商業への影響は大きく、金の海外流失による貨幣価値の変動が物価の高騰を生み、江戸支店の取引先も激減しました。助右衛門さんはそんな中でも放蕩が止められず、ついに借金を背負う身となり、失踪したのです。こうして村尾屋は江戸での信用を失ったのでした。
 店に残っていた僅かな書付から、助右衛門さんが江戸で独立し、ゆくゆくは村尾屋を越える店を構えて彦根に凱旋したい、という夢を持っていた事が判明しました。その為に覚えた遊興が身を滅ぼす結果となったのです。
 ここにきて江戸の者だけではどうする事もできなくなり、私が本店に戻って若旦那様と相談する事になりました。
 店を久之助に任せた私が江戸を出発したのが十月始めの事です。
 本店に四年ぶりに本店に戻った私は江戸支店での実情を若旦那様に話しました。今まで助右衛門さんの報告をそのまま信じていた若旦那様にとっては、あまりにもかけ離れた報告をした私の話を信用なさらず解雇しようとされた程だったのです。
 しかし、その直後に久之助から助右衛門さんの借金の催促状が届いたとの報せがあり、事実を認識した若旦那様自身が江戸に赴いて全てを治める決心をされたのでした。
 私も若旦那様に同行するつもりでしたが、若旦那様はそれを許して下さらず、江戸には若旦那様と手代の伝兵衛が出向く事となったのです。
 秋が深まる十月下旬に若旦那様は江戸に向けて出発したのです。

「若旦那様はなぜ私を避けられるんでしょう」約四年ぶりの本店の仕事にやっと慣れつつあった日、お嬢様に呼ばれた私はそんな疑問を思わず口にしてしまいました。
「久しぶりにゆっくり話せるのに、話題がそれなの?」お嬢様はため息を一つついて呆れ返っています。
 江戸に居る時は、あれほど逢いたくて胸の奥が締め付けられて息ができないくらいだったお嬢様がいざ目の前に座っていると何故か安心してしまい、幼い頃から変わらずに話をしているような気分になってしまうのです。
 そんな私の事を解かっているのかいないのか、お嬢様も「久しぶりに」と口にしながらもたいして気にしている様子ではありませんでした。
「直三郎さんは、慎の事が嫌いなのよ」お嬢様は当たり前と言わんばかりに口にしました。
「私は、若旦那様に嫌われる事をしましたか?」
「一番ハッキリしているのは江戸支店に反対した事じゃないかな?」
 しかし、それでは私の中では納得できない所がありました。
「それに、ヤキモチもあると思うよ」
「ヤキモチですか?」
「私と慎って小さい時から一緒だし、ね」お嬢様が上目使いに私を見て私をドキッとさせました。
「はははっ、慎が驚いた~
でも、男のヤキモチなんてみっともないと思わない?」
 流石にその言葉にすぐに同意する事はできません、私自身、若旦那様にヤキモチを焼いているのですから。しかし、そんな事をしらないお嬢様は「慎はそんな男になっちゃダメだよ」と私に止めを刺されたのです。
 私とお嬢様がこんな暢気な話をしていた日に、若旦那様には大きな不幸が襲っていました。私たちがそれを知るのは数日後に伝兵衛が戻ってきた時だったのです。

 伝兵衛は、旅立った時では想像ができないくらいに、あっちこっちに晒し木綿を巻いた無残な姿で帰ってきました。
「伝兵衛どうした、それに若旦那様は?」最初に伝兵衛を迎えた私はあまりの変わりように疲れている身も理解できずに質問をぶつけたのです。
そんな伝兵衛は一通の文を私に託して疲れから倒れこんでしまったのでした。
伝兵衛を奥に運び休ませると、その文を開きました、文は大旦那様の頃から取引がある唐崎屋の伊豆支店の番頭からお嬢様に向けての物でした。
まずはお嬢様にとも思ったのですが、そのまま文を読み進めると、そこには十一月四日に伊豆で大地震が起った事が書かれていて、その時に若旦那様が唐崎屋さんに寄って居たとも記されていたのです。
地震の後に津波が起り、唐崎屋の建物が崩壊、若旦那様はその津波に飲み込まれ行方不明になったと続き、引き続き当方で捜索するが絶望視して欲しいとの文章で締められていたのでした。
私は重い足取りでお嬢様に文を渡しました。文を一読したお嬢様はその姿勢を崩す事も、涙を流す事もなく「そうですか」と呟くと、伝兵衛の回復を待ったのです。
伝兵衛が意識を取り戻したのは丸一日過ぎた時でした。伝兵衛の話によると、地震直後すぐに高台に避難していた唐崎屋の使用人や若旦那様・伝兵衛の予想をはるかに越えた津波が襲い、逃げようとしたが間に合わずに飲み込まれていき、伝兵衛自身の目で若旦那様が波に飲まれて沈んでいく所を目撃したとの事でした。
ここで初めてお嬢様が冷静さを失い大声で意味不明な言葉を叫んで暴れ出したのです。私はそんなお嬢様を押さえ、正気に戻るまで待ちました。
四半時ほど後、お嬢様が落ち着いたところで使用人を集めて村尾屋を襲った不幸を知らせたのでした。
これと同時に、江戸支店の閉店と使用人の帰国・伊豆へ若旦那様の捜索人派遣が決定されました。

若旦那様が戻るまではお嬢様が村尾屋の主として新体制が始まりましたが、女主人ではこれからの時代の激流を超えて行けないと判断した使用人たちが一人また一人と去り、若旦那様の捜索を断念した一年後に残っていたのは私・伝兵衛・久之助のみとなったのです。
しかし、伝兵衛は怪我が治らないままに少なくなった人数を埋め合わせる為に無理をしてついに帰らぬ人となってしまったのでした。この時点でお嬢様は村尾屋を閉める決心をされたのです。
店を売ってできたお金を私と久之助に手渡して「今までご苦労様でした」と頭を下げられたのです。背中を向けて去っていくお嬢様を眺めながら久之助は「慎兵衛、これでいいのか?」と言いました。
「お幸さんにはもう柵はない、そして今は一番支えが必要な時期だろう?」
「しかし……」私が躊躇していると、「お前はすぐに『しかし……』と口にする、そうやって自分を否定しながら大切な人を失ってもいいのか? グズグズしないで行け!」と無理矢理背中を押して私を走らせたのです。私は、その勢いに自分の想いを乗せて「お嬢様」と叫んで追いかけて行きました。
 遠目で見ていた久之助は、お嬢様に追いついた私が久しぶりに『承知しない』を身に受けている姿に大笑いした事でしょう。
 安政三年冬、村尾屋の歴史は静かに幕が降りたのです。

 後に幕末と呼ばれる時代、国内は慌しく変化しましたが、私やお嬢様の周囲は時の流れに飲まれる事もなく、また二人の間も変わる事がなかったのです。
 久之助が知れば頭を抱えたかも知れないくらいにお嬢様と奉公人という立場を貫いていました。
私たちは「別々に住むのは勿体ない」というお嬢様の提案で小さな家に一緒に住んで小売業を営んでいたのです。

平凡な日々が十二年続き、明治という新時代を迎えました。
明治元年、世の中の変化を確かめるというもっともらしい理由をつけて私とお嬢様は初めて二人で京へ旅行に行ったのです。
最近まで血生臭い事件が続いていたというだけあってギスギスした雰囲気がありながらも都の雅さもどこかに漂っていました。
名高い清水寺に参拝し清水の舞台に立っていると、私の目は隣りに居た夫婦に目が行ったのです。
「若旦那様」
「慎兵衛、それにお幸」夫婦は同時に私を見て、夫は驚きを隠せませんでした。
一瞬、皆が沈黙しましたが、この沈黙を破ったのは若旦那様でした。
「すまん、生きていた」
「何を今さら、十二年も待たせておいて」お嬢様は静かに言いました。
「お前たちは、まさか……」
「私はただの使用人です」私がそう応えると、若旦那様は深く頭を下げました。
「俺は、津波で大怪我を負って半年間動けなかった、その時看病をしてくれたのが、ここに居るお恵だ、そして私たちは一緒になった。
一年程して、自由に動けるようになった時、帰ろうと思ったのに、お前たちが夫婦になっていると思い、惨めになりたくて逃げていた。
あの時、ちゃんと戻ってお前たちを認めていたら」
 お嬢様は「勝手な事を!」と若旦那様を平手で打ちました。私とお恵さんで止めには入りましたが「もう、二度と私たちの前に現れないで下さい」と呟いて私の手を引いてその場を去ったのです。
後年お嬢様はこの時の事を振り返って「清水さんの隣の地主神社は、縁結びの神様らしいから、慎と私のわだかまりを捨てる為に直三郎さんに会わせてくれたのかもしれないね」と口にしました。


明治四年四月四日、政府は戸籍法を公布。この法律によって戸籍に姓と本名を記さねばならなくなったのでした。
私は、堂本という姓を名乗りました、姓を考えている時にお嬢様との淡い思い出のあるお堂が頭を横切ったからでした。
お嬢様はトコトンまで反攻したそうですが、ついには説得されて本名を記録する事になったのです。
あのお嬢様を説得した人物が誰なのかは聞いていませんが、その方に賞賛の拍手を送りたい気分です。
ところが、この時お嬢様はとんでもない言葉を残したのです。
「どうしても記録を残さなければならないのならば、私は村尾雪乃ではなく、天保十五年に堂本慎兵衛に嫁いだ者として堂本家に名前を記録して下さい」
「しかし、雪乃さん。おっと失礼お幸さんとお呼びするのでしたな。お幸さんはその年に新町屋の直三郎氏と結婚されたのではなかったですかな。しかもこの話を慎兵衛氏はご存知ないでしょう?」
「新町屋の事は問題ありません、元々お互いに上手くいかないと知っていた結婚でしたし、私もできればなかったことにしたい日々でした。
 慎兵衛とは今月中に形だけでも一緒になります」
「それならば、たってのお幸さんの願いと言う事で特例として認めましょう」
 そのやり取りから十日、私はまだお嬢様からそれらしい言葉は聞いていないのですが、周りの噂は早いもので、当事者の私にも詳しい状況が耳には入り、見ていなくてもその時の光景が手に取るように想像できたのです。
 いざって時に踏み出せない困ったお嬢様ですからね。私の想いなんて気付いているのでしょうか? 直三郎さんと婚礼を挙げられた年なんて遅いくらいです、本当なら初めてお会いしたその日に私はお嬢様の虜になったのですから……
 今迄、誰にも明かさないでいた二人だけの秘密、お嬢様の本名なんて、直三郎さんはまだご存じないでしょうね。
 私としてもこのままお嬢様の大切な所での押しの弱さを待って、また誰かに盗られたくありません。ですから、お嬢様とお会いして初めて私の主張をしたいと思います。
 こうして、私は冷静を装いながらも心の中では緊張に潰されそうになっているであろうお嬢様を前にしました。
「お幸さん」
「え、えっと、なんでしょうか?」お嬢様には珍しいしゃべり方になっています。
「実は、お話があります」
私は、息を大きく吸って呼吸を整えました。ある程度答えが分かっているものでも最後まで絶対はありません。
「私の妻になって下さい」
私はそのまま深く頭を下げました。しばらくしても何の声も掛からないので頭を上げると、救われたような表情で涙を流しながら、ただ呆然と私を見つめていました。
そんな時間が千秋は過ぎたのではないかと思ったくらい長く続いた後、少し顔を落としたお嬢様が静かに言葉を紡ぎ始めたのです。
「私はもうお嬢様ではないよ」
「はい」
「一度、夫を持った身だよ」
「わかっています」
「年も四十路を越えたよ」
「お互い様です」
「何もできない女だよ」
「私ができます」
 目を伏せながら、一言一言ゆっくりと口にする度にお嬢様自身が自分の形を認識しているようにも見えました。
「二人の秘密もなくなっちゃった」
「二人で同じ秘密を持ち続けた歳月は誰にも侵されない、二人だけの思い出です」
「慎兵衛」
「何でしょう?」
 伏せられていた視線はここで真っ直ぐ私を見据えたのです。
「私ね、直三郎さんと結婚する前からあなたの事が好きだったの」
「私は、初めて会った幼い頃から憧れておりました」
お嬢様の表情は急に明るいものになり大旦那様が亡くなって以来見た事がない幸せそうな笑顔になったのです。
「じゃあ、ずっと両想いだったんだね」
お嬢様は私にしがみ付いて、張り裂けんばかりの大きな声で泣きました。そして落ち着いた後にその唇を私の同じ場所に合わせたのです。
「昔、子どもの頃に慎とこうして以来、誰ともしなかったんだよ」
それは、想いもよらない告白でした。
「直三郎さんに求められても唇だけは一切拒んでたの」
今離れたばかりのお幸がいとおしくて、もう一度、今度は私から唇を重ねました。

四月に正式に夫婦となった(戸籍上はずっとなっていた)私たちは七月に式を挙げる事になったのです。
「四十路を越えた花嫁姿なんて誰も見たくないと想うんだけど……」
と躊躇するお幸を尻目に話は進み、多くの人が祝福に駆けつけてくれた。
 そんな中で、私は想像している、あえて白無垢を選んだお幸の姿を。
「お嬢様、おめでとうございます」空想だけどより現実に近いであろうやり取りに自然と私の笑みがこぼれた。
やがて、花嫁の準備ができたとの報せがあり、お幸の姿を見に行く。
「お嬢様、おめでとうございます」と声を掛けると、お幸の拳が私の腹に炸裂した。
「お嬢様って呼んだら承知しないって昔言ったでしょ、それに今日からは『堂本雪乃』です」
予想外に冷静な一撃と言葉に、これからが雪乃との全てを取り戻す始まりなのだと、改めて胸に熱くこみ上げた。
でも、私は時々『お幸』と名乗った頃のお嬢様を名残惜しく思い出すかもしれない。

古楽
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