船の上
琴美は船に揺られながら、遠ざかる長浜港を見ていた。
「で、どこに向かっているんでしたっけ」
「竹生島だよ」
「思いっきり観光地じゃないですか……」
琴美が不満げに言うと、烏賊は不思議そうに「どうしたどうした。竹生島といったら日本有数のパワースポットだぞ。もちろん自然豊かだ。なにかよくない点がひとつでもあるか?ないだろ」と首をかしげてみせた。
「別に竹生島に不満があるわけじゃないですよ。問題なのは烏賊さんの乗船料まで私が払っているということです」
「ああそれは」ガハハという烏賊の笑い声が船上に響く。「助かったよ。何せ今日は一番最初のお客さんが琴美ちゃんになる予定だったからな。今のところ本日の収入はゼロだ」
これを見ろとおもむろにズボンのポケットに手を突っ込むと、細い指先で四つ折りになった千円札を挟んで見せびらかした。「これが今の所持金全額だ」
「はあ」琴美は相づちともため息ともとれるような声をもらした。
「私は今日一応烏賊さんの仕事の手伝いをしてるってことだと思うんですけど、バイト代って出ます?」
「ぼけっとしてるようで意外とお金にこだわるんだね」千円札をポケットに戻しながら言う烏賊に琴美は聞く。
「失礼ですけど、今幾つなんですか?」
「あと少しで四十五になる。立派な大人様だ。琴美ちゃんは?」
「二十三です。大人駆け出しですよ。駄目ですよふたまわりも年下の女の子にお金たかっちゃ」
「はいはい」勘弁してよ、と言うように烏賊は眉尻を下げた。
「何か考えておくよ。いざとなったらこれがあるし」ぽんとズボンのポケットを叩く。
「日給千円はブラックすぎますよ」琴美は笑って言った。「まあ、冗談ですよ。今日私が烏賊さんに着いていってるのは私の好奇心ですし」
竹生島は緑の箱庭のような場所だった。いつの間にか雲が晴れ、日差しを強く感じて、仕事鞄から薄手のストールを取り出して首に巻く。雰囲気の異世界感を、観光客の喧騒がほどよく現実に戻してくれる。拝観料を払って上を見ると、天界へ昇っていけるのではないかというほどの石階段が伸びていた。たしかにここになら天女がいると言われても不思議ではなかった。
「すごいなぁ」
先に口を開いたのは烏賊だった。
「え、地元ですよね?」琴美は驚いて聞いた。
「そうだけど。身近なとこにあるすごいもんっていうのは意外と地元民に本当のすごさが伝わっていないことが多々あるんだよ。改めて見るとわかるってもんだよな」
「そういうものですかね」
「灯台もと暗し、ってやつだ」
「はあ」
二人は石階段をひたすら登っていった。島の一部になっているような錯覚におちいる。
先に行く烏賊が、階段が途切れた場所で立ち止まり琴美の方を振り返った。顔には少年のような笑みをたたえていた。
「琴美ちゃん、そのまま振り返らずに俺のとこまでおいで」
「なんですか、急に」
とまどいながらも早足で階段を登り、差し出された烏賊の手をつかみ、後ろを振り返る。
「うわ」
眼前に広がる琵琶湖の景色に思わず声が漏れる。
「琵琶湖ってこんなに綺麗なものなんですね」
「当たり前だ。自然っていうものは綺麗なもんだ。どうだ、天女も見惚れそうな景色だろう」
烏賊の表情は自慢げだった。ころころと表情が変わる人だと、琴美は思った。烏賊と同じ年くらいの上司は嫌味を煮詰めて塗りたくったような顔しかできないのに。
「何しろここは神様が棲む島だと言われている。天女が駆け込み寺みたく居着いていても不思議じゃない」
再び石階段を登り進めながら烏賊は顎を撫でた。
「そういえば、どうやって天女を探すんですか。私、姿形を全然知らないんですけど」
「それは俺も知らない」
「え、じゃあ、どうすれば」
困惑する琴美に、烏賊は事も無げに答えた。
「そりゃあ、聞き込みに決まっているだろう」
この辺りで天女を見かけませんでしたか、天女がいそうな場所ありませんでしたか、などと観光客に聞いてまわりながら、琴美はこんな迷い猫捜索のようなやり方では天女を見つけられるわけがないと思った。話しかけられた観光客は、いやぁわかりませんねぇと皆口を揃えて言い、ほとんどが苦笑をたたえて去っていった。時たま「見つかるといいですね!」と好奇の目で見られることはあるものの、本当に天女が存在するなどと考えている人はいなさそうだった。
「私、烏賊さんに騙されているんじゃないですかね」
「何言っている。俺は嘘はつかない」
「嘘というか、探し方が悪すぎますよ。本当に探す気あります?」
宝厳寺本堂の脇にあるベンチに腰掛けながら、眉を寄せて睨んでみせる。すると烏賊は笑いながら長い指を振った。
「もちろんだ。神頼みでもなんでもいいし、藁にもすがる思いで琴美ちゃんに協力してもらってるんだ」
「私は藁ですか」
「すねるなってば。さっきここには神様が棲んでいると言っただろう。とりあえず見つかるように神頼みして、探す場所を変えよう」
よっこらせと声を出して立ち上がる烏賊に、琴美は驚く。
「ここにはいないってことですか」
「ああ、俺の嗅覚がそういっている。鼻も利くんだよ、俺は」
「また適当なことを言って。それなら最初からいないとわかるじゃないですか」
琴美も立ち上がる。烏賊の言うことは何から何まで胡散臭いが、仕事をさぼってここにいる手前、それ以上怖いことなんてないだろうと思うことにしていた。それに、豊公園での一掴みの桜の衝撃がまだ頭に残っている。
本堂を覗くと、小さくて可愛らしい赤いダルマがずらりと並んでいた。どうやら烏賊はそのダルマで神頼みをするつもりのようだった。
「本来は悩みや苦しみを弁天様に打ち明けて、幸せを願うものなんだけどな。俺にとったら天女がいっこうに見つからないことが人生最大の悩みだからな」
烏賊は白い紙に『天女が見』まで書いて、筆を止めた。少し思案したあと『見』の上に線を引いて消し、『俺に気がつきますように』と書いた。
「私たちが見つけるんじゃなくて、天女が私たちを見つけるんですか」
書き直す意味があったのか、と不思議に思って尋ねると、烏賊は「天女を怖がらせちゃいけないからな。それに、弁天様っていうのはなんとなく天女サイドにいるような気がするだろう。下手にでたほうがいいんだよ、こういうのは」
「今のは少し理屈っぽいですね」
「世の中には理屈で成り立つことも多々あるからな」
長浜港への船は混んでいた。なんとか席を見つけ座ると、烏賊は前を向いたまま琴美の耳元に顔を寄せてきた。
「琴美ちゃんてさ、もしかして男の人苦手?」
「なっ」
烏賊相手には、いつも男性を相手にしたときの不振な挙動は出ないと安心していたため、驚いて声が喉に引っ掛かった。
「さっきの聞き込みの時も女の人にしか話しかけにいかなかったし、男の人が来ると露骨に避けてたでしょ。そのときの琴美ちゃんの顔がさ、男のことは避けなくちゃいけない義務感でもあるんじゃないかってくらいに切羽詰まった顔をしていたから」
こんな風に、と烏賊は顔を歪めてみせた。
「そんな嫌な顔してましたか」
「してた」むっとする琴美に、烏賊はガハハと笑って答えた。
「だけど俺のことは平気なんだろ。無理してるようには見えないし、不思議だなあ」
「それなんですよ」琴美は思わず大きな声を出す。「烏賊さんに会ったときから、変だと思っていたんです。」
「何か俺が例外になる理由が思い当たらないのか?例えば、そうだな、他の男より顔がいいとか、紳士的だとか清潔感があるとか」
「公園でブルーシートとミカン箱だけで何でも屋を商っている中年男性は顔がよくても不審者ですよ」
そういえば、と琴美は思い出した。そもそも烏賊は何でも屋というものをしていたのだ。「顔がいいことは否定しないのか!」と喜ぶ烏賊に、琴美はぐいと顔を近づけた。
「私がなぜ男性が苦手なのか、どうして烏賊さんは平気なのか。何でも屋の烏賊さんとしてその答えをください。今日のバイト代として」
「へえ」烏賊は興味深げに琴美の瞳を覗き込んだ。「いいとも。お安いご用さ。今日琴美ちゃんが俺と別れるまでに、答えを俺なりに出してあげよう」
「本当ですか」事も無げに了承されたことに驚く。
「俺も伊達に何でも屋をやっているわけじゃない。それくらいの依頼簡単にこなせるさ。それに俺は理屈じゃ成り立たないことを成し遂げる力があるからな」
そう言って烏賊はしかめ面のようなウインクを飛ばした。