走る治部、待つ刑部

 石田治部少輔三成。通称、佐吉。
 思えばこの数年、一揆の平定や検地で全国を慌ただしく行き来する毎日だった。
 有史以来、最も日の本をあちこちした人間は多分、この佐吉だろうと思うほどに忙しい。
 奥羽(東北地方)での騒ぎを鎮めた後、特にそれを実感して、ふと長浜城にいた頃が恋しくなった。
「なに、長浜城にいた頃は『戦場へのお供がかなわぬ。俺はここで埋もれたままか』と、めそめそしていたくせに今度は逆か」
 聚楽第の御文庫で、大谷刑部少輔吉継、通称紀ノ介、に何気なくそれを言ってみると、いきなり笑われるという憂き目に遭遇した。
 だが、紀ノ介は一通り笑ったあと、続けてこう言ったのだ。
「じゃあ、一緒に行くか。長浜」
 紀ノ介は数年前から目を病んでいて『霧に覆われているよう』な視界でも、その決断力と行動力たるや衰えという言葉を知らない。
 かくして、数日後には長浜に向けて旅立つこととなった。

***

 貴人が身をやつし、供の者も連れずに町を歩く。それは、よくあることなのだろう。
 石田治部が近江国(滋賀県)長浜をのんびりと歩いている。彼の隣には大谷刑部もいる。
 今は冬に近い秋。湖北特有のぴりっとした肌寒さが二人には懐かしかった。
 ただ、そういう空気も、賑やかな町並みの雰囲気も、昔と全く変わっていないのに、一つだけ治部の記憶と明らかに違っているものがある。
「長浜城は今、かろうじて形を保っているという状態なんだ。ほら、俺らが長浜から大坂に移ったあと起こった地震、あれの被害を受けたときのままになっている」
 刑部はそれを聞いて少し目を丸くした。
「そうか……あの立派な長浜城が」
 長浜城は琵琶湖に面し、二重の内堀と一重の外堀に囲まれている。その一番内側の内堀の幅は特に広いので、城というより、もはや琵琶湖に浮かぶ島のように感じられたのは、昔、長浜城で小姓をしていた者なら持っている思い出の一つだった。
 治部は崩れかかった長浜城が目に入ると、城でのそういった思い出まで崩れていってしまう感じがして胸がしくりと痛んだ。
「……長浜城が直せたらいいのにな」
 治部はぽつりと言った。
「うむ。そうだなあ」
「でも、城を直すのにはどうしても金がいる。その金は民の年貢だ。使わない城に金はかけられないだろ」
 治部の言葉に刑部は「おや」と片眉を上げた。
「あれあれ、佐吉。その考えは立派なものだが、いつの間にか政の話になっているぞ。今は暇を頂いているときなのになあ」
「あっ」
「『休む時は全力で休め、そのあと全力で仕事するのだ。どちらも中途半端にするな』といつも言っていなかったか?」
 刑部の指摘通り、それは治部がまさしくいつも部下に口酸っぱく言っていることで、「言行一致」を第一の信条としている治部には耳が痛いってもんじゃない。
「それは……部下に対してはそうだが、大将たる俺には関係のないことだ」
 治部は何とか言い返したが、逆に言えば言い返すのが精一杯だった。
「ほう。それじゃあ何で俺から視線をそらす。どうしてそんなに赤くなっている」
「さあ、気のせいじゃないか」
「はてさて、おかしいな。俺のこの目でさえも、ちゃあんと見えていることなのになあ」
 刑部は満足げに微笑をたたえた。佐吉はいつも手ごたえがあっておもしろい、と思っている。――治部をいじめて遊ぶ癖があるのだ。
 だが、彼は同時に紳士でもあり、引き際はちゃんとわきまえていた。
「まあ良い。さっきのは、佐吉が民を思う心根のやさしさが言葉になって出ただけだ。それを一体、誰が責められようか」
「……紀ノ介はいつも、俺に厳しいやら優しいやら、分からないな」
 治部は小さく首をかしげた。
「なあに、かわいい子は崖から落とせというだろう」
「何か色々と混ざっていないか」
 二人はたわむれあいながら魚屋町に足を踏み入れた。
 魚屋町はその名の通り、魚を扱う人々が住んでいる町で、魚を焼く何とも香ばしい良い匂いが漂っている。城下町であり、港もあり、北国街道も通っていて人の出入りが多いこの長浜には、既に飲食店が数軒存在しているのだ。
(あの人、あんなにたくさんの干物を買いこんでいる)
 ただ、治部の目にふと止まったのは珍しい飲食店の様子ではなく、干物屋の客の様子だった。
(一体、何人家族なんだろうな、あの男は)
 大家族の一家団欒を想像して治部の頬は自然にほころんだ。
「なにか楽しいものでも目にしたか」
 刑部は視力こそ弱いものの、そういう勘がめっぽう強くて、すぐ治部のわずかな様子の違いに気付いた。
「ああ。干物をたくさん買いこんでいる男がな……」
 だが、治部がそう説明し始めたときには、その男は干物屋の主人に殴りかかり、干物の詰まった袋を持ったまま一目散に駆けだしていた。
「え?」
 治部は自分の顔から、さあっと血の気が引いていくのが分かった。大量の干物は盗むこと前提の量だったのだ。
「どうした」
「き、紀ノ介、盗人だ」
「なに?それは今どこにいる」
 刑部が刀をりんと鳴らした。
「いや、走って逃げたから俺が追いかける。紀ノ介は待っていてくれ」
「こちらのことは、任せておけ」
 刑部には、治部の言葉が予想の範疇のものだったらしく、落ちついていた。
「すまぬ」
 病人である刑部を一人置き去りにするのは気が引けたが、ずっと目で追っていた男が盗人だと気付けなかった責任を感じてもいたから、このような決断を下すしかなかった。
 治部はその分、より懸命に走る。
 しかし、普段、息を切らして走り回るということをしない治部に比べ、流石に盗人は足が速くてとても追い付けそうになかった。
 そこで治部は懐に手を入れ、いつも数個ほど持っている小石の一つを手になじませた。小石は正しく投げれば人をあやめる威力にもなる。……もちろん、治部はいつも小石を懐に忍ばせているだけあって「正しく投げられる」人であった。
 その特殊な特技は幼いころに甲賀の者から教わって身に付けたものだ。
 本来、武士の家なら、忍は使うものであっても、そのように密接な関わり合いをもつものではない。しかし、石田家は京極家に仕えるれっきとした武士の家でありながら、そのような分け隔てを好まず、学ぶべきものは誰からでも学ぶといった柔軟な考え方の家なのだ。
 そんな環境に育ったから、身分がものを言う時代でも治部は、関白殿下……初めは木下藤吉郎と名乗っていた、自分の家より身分の低い家の出の彼でも心から尊敬できて、心から尽くすことができるのだろう。
 閑話休題、治部は盗人相手だから足止めをくらわせる程度でいいと思って、盗人の太ももに向かって正確に小石を打った。
「ぎゃっ」
 盗人は悲鳴を上げて干物の入った袋を落としたが、それはもはや拾わないまま足を引きずってなお逃げた。
(往生際の悪い。だが、これなら捕まえられる!)
 内心、にやりとした治部だったが次の瞬間、向かいから急いで走ってきた男と勢いよくぶつかってしまった。
「あぁ、何ということを!申し訳ございません……!」
「いい、気にするな。早く行け!」
 ぶつかった男は巨大な体躯の持ち主で、治部のか細い体は訳も無く跳ね飛ばされたのだが、とっさに受け身をとって何とか無事だった。
(見失ってしまったか?)
 盗人の姿を追おうとすぐに立ち上がると、かろうじて曲がり角を曲がるその姿が見えた。
「あの、お怪我の方は……」
「おぬし、まだいたのか。だから見れば分かるだろう、大丈夫だと!」
 治部は申し訳なさそうにおろおろする大男を半ば振りきるような形で再び走りだした。
(心配してくれる人を邪険に扱って悪いことをした……)
 治部は良心の呵責を感じながらも、盗人の逃げて行った曲がり角にさしかかった。
 ……さて、ここで問題となるのは、曲がり角を曲がって、探している人物がそこにいた例が今までにどれほどあるかということだ。
 やはり、と言うと治部には気の毒なことだが、やはり、そこに盗人の姿は、ない。
(どこに消えた?!)
 唯一、視界に見えたのは干物の盗人ではなく、ぼろの墨の衣をまとった乞食の僧だった。傍らに椀を置いて地面に座り、経を唱えている。
 治部は僧のもとへ走った。
「こちらにえんじ色の着物を着た、足をひきずる男は来なかったか?!」
「南無阿弥陀仏」
「あの、もし」
「ありがたい。布施ならここに入れて下さい」
 僧は傍らに置いていた椀を差し出したが、それを見た治部が怪訝そうな顔をすると、付け加えるように言った。
「私は、あなたの言っていることが分かりません。耳が、悪いのです」
「そうか……」
 治部はそれ以上何も言わず、差し出された椀に幾ばくかの銭を入れてやって一人で出来る探索を続けた。色々なものから見捨てられてしまったような、陰鬱で孤独な気分だった。
(こんなとき、紀ノ介がいてくれたら……)
 刑部を心配する気持ちとは矛盾するようだが、それが今の本心だった。
(紀ノ介は一体、今どうしているんだろう)


 そのとき、紀ノ介こと刑部は干物屋の前を囲んでいる人だかりの中心にいた。
 治部が走り去った後、干物屋の主人を介抱する指示を出したり、町の人に安心するよう言ったりして、すっかり町の人と打ちとけてしまったのだ。
 それに刑部は身をやつしているといっても、いつもの刀は腰に差していたし、何より、たち振る舞いは優美、背はそのへんの町人たちと比べて頭一つ分くらい高く、身体はがっしりしていて、顔は凛々しい。……もっと率直に言えば、色男であった。見るからに頼りがいがありそうな男なのだ。
「あとの者は皆、元に戻っていなさい。盗人を追いかけている連れは、俺が待つから」
「連れのお方はどのようなお方なのですか?」
 人だかりの一人がふと気になった感じで聞いた。刑部は、ふふ、と少し自慢気な笑みを浮かべた。
「そうだな、背は俺より低くて、華奢な体つきをしている。それから色白で、男と思われないような綺麗な顔立ちをしているから、いやでも目に立つようなやつだぞ」
 この美男が容姿を褒める美男とは一体どんな姿なのか、想像を掻き立てられ、周りの女子からはきゃぁ、と黄色い声が上がった。
「紀ノ介!」
 その男は絶妙な間合いで現れた。皆はその声の方へ一斉に振り向いて、それが今、話題の人だとすぐに分かった。息は乱れ、汗をかいていたが、それがまた風情ある姿だった。
「おお、佐吉、無事でよかった」
 刑部は治部に駆け寄り、持っていた手ぬぐいで汗を拭いてやった。刑部もまた、治部のことを心配していたのだ。
「ありがとう、紀ノ介。だが一体なんだ、この騒ぎは」
 治部は言外に(なんでこんなに目立つことになっているんだ)と言ったつもりだったが、刑部は(それはお互い様だろう)とでも言うように、干物の袋を指さした。
「良かった、干物は取り返せたのだな」
 周りから一斉に拍手と歓声が起こる。
「干物『は』な。すまない。盗人の方は途中で見失ってしまった」
 治部はことの顛末を要約して話したが、それでも、周りからは拍手が続いた。治部は少々ののしられることさえ覚悟していたから、目の奥にじいんとしたものを感じた。
「佐吉、泣くことはないぞ」
 刑部は治部の肩をぽんぽん、と優しく撫でた。
「な、泣いてなどいない!それに、俺はまだあきらめていない」
 泣いていないと言ったのは、少し強がりだったが、あきらめていないのは本当だった。
「俺は絶対に、他の手がかりを見つけ出して、さっきの盗人を捕まえてみせる」
 断固とした口調で治部がそう言ったとき、急に周りが波を打ったようにしん、とした。
 治部は悪いことを言ってしまったと思って慌てて言い直した。
「ああ、俺が取り逃がしたのが悪いのだ。よって、町の者にこれ以上迷惑はかけないように捕まえるから安心してくれ」
 だが、周りの様子はそういうことではないようだった。
「実は……」
 周りの人だかりの一人が声をあげようとしたが、もう一人がそれを遮るように言った。
「そんなこと、いくらこのお武家さま方がご親切でも、頼める義理はないよ!」
 そこから急に火がついたように人々が論争を始め出した。
「このように言って下さる方はもうニ度と現れないぞ!」
「今日のことと関係あることかもしれないよ」
「羽柴の殿さまに合わせる顔がなくなる」
「私たちの力は限られているでしょう!」
 人々の意見は混沌としていた。二人はそれをしばらく黙って聞いていたが結論が出ないように思われ、ついに治部が口を挟んだ。
「どうやら、長浜の町の人には何か、困っていることが他にもあるみたいだな。そして、それを余所者である俺たちに相談していいか、どうかということだな?」
 人々は各自あいまいにうなずいた。
「とりあえず俺たちに話してみてはどうだ。聞いたところで俺たちの手には負えないかもしれない。だが、その逆もあり得る」
 治部が、その吸い込まれそうな黒々とした瞳に力を込めて言うと、周りのざわめきがまた大きくなった。
 さらに刑部が続ける。
「皆、この佐吉のやる気は分かっているだろう。それと俺も持てる力は僅かながらに、皆のためなら何でもするつもりがある。どうぞ遠慮せずに言ってみなさい」
「……なぜ、見ず知らずの町の者に、そのように仰って下さるのですか?」
 人だかりのうちの一人が言った。他の人々も皆、期待半分、恐れ半分といった目で二人を見つめていた。
「何故、か。俺たちが、長浜を好きだから。……それでは理由にならないか?」
 治部は照れくさそうに、だが、屈託なく笑った。その横で、刑部も人を安心させる温和な笑みを浮かべて、うなずいている。
「……!」
 その人は言葉が出ず、代わりに深く頭を下げた。他の人々は同じように頭を下げている者あれば、歓声を上げる者、拍手する者、目をつむって今の言葉をかみしめている者、と様々な様子だったが、皆、覚悟を決めたのは同じようだった。
「手前は町年寄の一人で、本町の弥兵衛と申します。……是非、お聞かせしたい話がございます」
 弥兵衛と言ったその男はやっと、頭を上げて言った。
「分かった。聞こう」
 二人とも口にこそ出さないが、同じような思いを胸に抱いていた。
 長浜の人たちは、一見、にぎやかな町景を表にこしらえておきながら、こんな浪人侍の格好をしたのに頼らなければいけないほど裏では切羽詰まっていたのだ。一体、どれだけ心細かったのだろう、と。
 本来、長浜の人たちが町の異変に対し一番頼りにするなら、長浜城に勤める武士だ。
 しかし、長浜城が地震で城としての機能をほぼ失うと、そのとき城主をしていた山内氏の領地替えの後、城に武士はいなくなっていた。豊臣はそれ以上代わりの者を派遣していなかったのだ。
 と言っても、豊臣が長浜を見捨てたというわけでは決してない。
 この年の春には長浜を免租地にしていたし、長浜からは戦場に鮒ずしが届けられることが幾度もある。むしろ交流は盛んな方なのだ。
 だが、地震で町が壊滅したときでさえ豊臣に泣き言は一切言わず、自分たちの手で見事に復興した長浜の人々だ。豊臣に直接、助けを乞うという選択肢は無かった。そして豊臣もまさか、こんなに華やかな雰囲気の長浜に何か異変があるとは気付けなかった。
「この格好、この頃合いで長浜に来たのは何かの運命だな」
 治部が刑部に耳打ちした。刑部もやはり同じことを考えていたから、小さく笑ってそれにうなずいた。

江中佑翠
この作品の作者

江中佑翠

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