⒋乎弥神社

 
「おい、君、しっかりしろ!大丈夫か?」
 耳元で誰かの呼ぶ声がして、僕は再び意識を取り戻した。目を開けて見ると、そこには作務衣を着た中年男性が立っていた。
「ああ、良かった。目を開けてくれた。一体どうしたんだ?こんな所で倒れているなんて…」
その言葉を聞いた途端、僕の頭に昨夜の記憶が一気にフラッシュバックしてきた。
「そうだ菊石姫だ!菊石姫は?あの龍はどうなったんだ?」
 キョロキョロと辺りを見回して口走る僕に、その男性は怪訝な表情で尋ねて来た。
「君、本当に大丈夫か?夢でも見たのかい?」
 そこで僕は大きく首を振って答えた。
「いいえ、僕は正気です。夕べ僕はここで龍を…いえ、ちょっと信じられないような体験をしたんです」
 
 するとその人の表情が急にとても真剣なものに変わった。そして穏やかな口調でこう言った。
「そうか?なるほど。しかしその話はあとで聞いたほうが良さそうだな?私はこの近くの神社で神主をしている。君はまず、僕と一緒にそこへ行って一休みをして、身体を温めてからその話をしたほうが良いと思うがどうだろう?」
 それはとても有難い申し出だと思ったので、僕は黙ってうなずいた。そして彼に付き添われて歩き出した。

『乎弥(おみ)神社』
 しばらく湖畔の道を進んで行くと、そう書かれてある鳥居が目に入った。そこには立派な注連縄と房がかかっていた。
(そういえばここ、前に母さんとお参りに来たことがなかったっけ?)
 僕はそんな気がして、辺りを見回して見た。そこには杉や樫の大木が沢山あり、空気は清浄で独特のご神気が満ち溢れているのが感じ取れた。

「さあ、これを飲みなさい。温まるから」
 神社の奥の居室に通された僕は、彼から熱々の甘酒の入った器を手渡された。礼を言って受け取ると、それは酒粕の入った本式の、手作りの甘酒だった。ほんのりと香る酒の匂いを楽しみながら、僕は少しずつそれを味わった。飲み終わる頃にはすっかり、身体の隅々までが温まっていた。

「美味しかった、ごちそうさまでした」
 礼を言う僕の顔を見て、彼は言った。
「君、この辺では見かけない顔だが、どこから来たんだい?」
「はい、僕東京から来ました。ここには母方の祖父母が住んでいるんです」
「ほう、そうか.それで名前は?」
「橘音弥です。あ、でも母の旧姓は小森と言います」
「小森?そうか。それじゃあ君は、川並の小森さんのお孫さんだったのか?なるほどなるほど…」
彼は納得した様に頷くと、更に尋ねた。
「ところでそんな君が一体どうして今朝早く、あんな所で倒れていたのかな?僕が助け起こした時の君は、かなり動揺している様だったが…」
そう言うと彼は、好奇の目を僕に向けた。

 そこで僕は昨夜体験した夢の様な出来事を、話して良いものかどうか迷った。しかし彼の僕を見つめる瞳の中に、物事の真実を冷静に見る力が宿っているのを感じて、話してみることに決めた。
「わかりました。それではお話します。でも僕が体験したことはあまりに現実離れしているので、信じてもらえないかも知れませんが…」
 すると彼はすぐ首を横に振ってこう言った。
「大丈夫だ。これでも僕は神職についている身だよ。ちょっとやそっとの事では驚かないから、安心して話してみなさい」
そこで僕はようやく安心して、夕べ自分の身に起こった不思議な出来事を語り始めた。
 彼は初め驚きの表情を露わにしていたが段々と落ち着いて、時々アゴに生えた無精ひげを触りながら、終始真剣な表情で聞き入っていた。

 「これが僕が昨夜体験した事の全てです」
 話し終えた僕はそう締めくくると、大きく息を吐きだした。
「ふ-む、そうだったのか?それで君はさっきあんなに動揺していたと言うわけか。それにしても実に想像を絶する体験をしたものだな?幽体離脱をした上に、龍の背に乗って空を飛ぶとは…」
「僕は嘘は言ってません」
すると彼は慌てて首を横に振って訂正した。
「いや、悪かった。決して君を疑っている訳ではないよ。その様に不思議な体験をした人々の話は世の中には幾らもある。それよりむしろ私は驚いているんだ。別の意味でね?」
 そこで彼は煙草に火を点けると、一服してから説明を始めた。

「君の話を聞いていて、僕はある事を思い出していたんだ。実は私はもともとこの土地の人間ではなくてね?神職の傍ら、民俗学や歴史の研究もしているんだ。特にこの地方の伝承には興味があって、ここに来てからは貪るように保存資料を読み漁ったんだ。その中の古文書のひとつに、菊石姫に関する記録があったんだよ。その内容というのがだね・・」
 そうして彼は僕の知らない、新たな菊石姫の物語を語り始めた。

 昔々、近江の国に北國街道を通って一人の老婆が現れた。老婆は余呉に着くと湖のそばにある神社を訪れて、神主にこう話した。「私は北の国で祈祷師をしている。先だって枕元に観音菩薩が現れて告げられた。『近江の国の余呉の湖に、龍となった一人の娘の魂がさまよっている。早く行って湖畔の神社を訪ね、神主と共に祈祷をするがよい。』そう言い終えた途端、菩薩は姿を消して、あとには一体の小さな観音像が残されていた」と。
 そこで神主は驚いて、湖に伝わる菊石姫の物語を話して聞かせた。そして二人はお告げの通り湖に向かって祈りを捧げ、菊石姫の魂を弔った。その後観音像を小舟に乗せて流したところ、たちまち水が波立って渦を巻き、瞬く間に湖中に消えて行った。その後立ち込めていた霧が晴れ光が射して、暗く濁っていた水は、もとの鏡のような美しさを取り戻したと言う・・・

「とまあ、その古文書にはそう記されていた」
「そうですか?初めて知りました」
「ああ、まだ一般には知られていない事だからね?ところで私はこの古文書を読んだ時、すぐに違和感を覚えたんだよ。というのもこの乎弥神社はもともとこの湖に伝わるもう一つの伝説の、天女の羽衣伝説にちなんだ二人のご祭神、臣知人命(おみしるひとのみこと)と梨トミの命(なしとみのみこと)が祀られている神社だからね?」
「あ、そういえば僕も昔聞いた覚えがあります。母とお参りした時に・・」
「そうか?それなら知っているかもしれないが、ここの境内にある賽銭箱には、天女が水浴びに舞い降りた時の姿の、三羽の白鳥の紋が彫られてあるんだよ」
「ウーン、そこまでは気が付きませんでした」
「うむ、まあそれは気にしなくてもいいよ。とにかく私が言いたいのはね、それまで謎だった古文書の菊石姫の記録が、君が現れたことによって、どうやら真実味を帯びて来たらしい、という事なんだよ」

「あのう、それは一体どうぃう意味なんでしょうか?」
彼の言うことが今一つ理解出来なかった僕は、正直にそう尋ねた。すると彼は笑顔で答えた。
「君が昨夜体験した事は、普通の人には夢物語としか思えない非現実的な話だろう?それなのに、君を発見して最初にその話を聞いたのがこの私だなんて、これが偶然と思えるかい?」
「ああ、なるほどそうか?そうですよね?」
 そこで僕の頭の中に火がついた。
「つまり、菊石姫の伝説が真実である事を、僕を通じてあなたに、姫が伝えようとした。そういう事なのでしょうか?」
そこで彼は膝を打ってこう言った。
「その通りだよ!よく理解できたじゃないか?龍笛を吹く君が菊石姫の魂を呼び起こし、伝説を研究している私に導いた。
今回の私達の出会いは恐らく、偶然ではなく必然だったんだよ」

 そこで僕の視界がパアッと開けた気がした。
 それと同時に窓から明るい朝の陽射しが降り注ぎ、僕たち二人の顔を照らしたのだった。
「さあ、そうとわかったら、私は早速君から聞いた話を記録しておかないと。その上で過去の伝説とも比較検証を進めて行かなければ。とにかく君が体験した出来事は、後世にまで伝えるべき貴重な内容だと思うよ」
 彼はそう言うと、勢いよく立ち上がった。その途端、僕はすっかり忘れていた大事な事を思い出し、慌てて言った。

「あのう、すみませんがその前に、電話をお借り出来ますか?今頃家では心配していると思うので…」
 すると彼は苦笑して言った。
「おおそうだった。君の言う通りだな?電話は向こうにあるから、早くかけてくるといい」
 そこで僕は直ぐに、祖父母の家に連絡をした。案の定、二人は僕の不在をとても心配していたらしく、すぐにおじいちゃんが車で迎えに来てくれる事になった。

 別れ際、彼は今後も僕とぜひ連絡を取り合いたいと言って、名刺をくれた。そこには
   『 乎弥神社神主 歴史・民俗学研究者 轟宗次郎 」
と書かれていた。そこで僕は快諾して、東京の住所と携帯の番号を教えたのだった。
  







神倉万利子
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神倉万利子

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