3.満月の夜
その夜、おばあちゃんが作ってくれた心尽くしの手料理もあまり喉を通らずに、僕は早々に部屋に引き上げた。
気晴らしにネットをいじってみても気分は乗らず、仕方なく風呂に入り寝床に着いた。
僕は目を閉じて早く眠りについてしまおうと試みたが案の定、安らかな眠りは訪れず、その後何十回か寝がえりを繰り返した後、僕は遂に眠るのをあきらめて布団を跳ね除けてガバッと起き上がった。目を開けてふと窓のほうを見ると、カ-テンのすき間から光がこぼれている。
そこで僕は立ち上がり、カ-テンを思い切り開け放った。
そこには大きな満月が出ていた。
見上げると月は、こうこうとした光をこちらに向けた。僕は何だか心の奥底まで見透かされた様な気がして恥ずかしくなり、視線を下に向けた。するとそこには神秘的に輝く余呉湖があった。どこまでも深く、青々とした湖面は鏡のように月の姿を映し出していた。
「何て美しいんだろう!」
感嘆の声を上げた僕はその時、どうしようもなく湖に行きたいという衝動に駆られた。そこで大急ぎで服に着替えると龍笛をひっつかみ、外に飛び出して行った。
真っ暗な夜道を、僕はひたすら歩き続けた。幸い月光が足元を照らしてくれたので、僕は難なく湖畔にたどり着く事が出来た。
足を止めたその場所は、あの目玉石のある場所だった。そこに立ってあらためて湖を見ると、その景色は全くこの世のものとは思えない美しさであった。そこで僕は感動に打ち震えながら、龍笛を取り出した。そして惜別の想いを込めて、一気に演奏を始めた。目を閉じた僕のまぶたには、ここで祈りを捧げて身を投げた菊石姫の姿が浮かんでいた。
その後、時の経つのも忘れて姫のために無心で龍笛を吹き続けた。すると不思議なことが起こった。
いつの間にか僕の意識が身体を抜け出して、宙に浮いたのだ。そして吸い寄せられるように湖の中心に移動して行ったのだった。間もなく湖面がザワザワと波立ち始め、驚いて下を見ると足元で渦が巻き始めた。それは段々と深く、大きく広がって行った。
と突然
バッシヤーン!!
大きな音と共に、水中から太い水の柱が出現した。その水柱は湖面に浮いている僕の目線の高さにまで上昇すると、次にグルグルとらせん状に回転をし始めた。やがてその動きが頂点に達したかと思われた時、
パ-ン!!
鋭い閃光が、その場に走った。その眩しさに思わず目をつむってしまった僕が再び目を開けた時、何とそこには一柱の龍の姿があった。
(信じられない、これは何だ⁇)
僕は恐怖のあまり声も出ず、その場に凍りついてしまった。すると頭の中に、厳かな声が鳴り響いて来た。それはテレパシーのようだった。
『恐れることはありません。私はこの湖を守る者。昔、この姿になる前は、菊石姫と呼ばれていました』
「き、菊石姫だって?まさか、あの伝説の?」
僕が激しく動揺していると、龍は長い首を下げてうなずいて見せた。そこで僕は恐怖心を抑えながらその姿をよく観察してみた。するとその龍の目は両目とも無く、その部分は深く落ち窪んでいた。
(あの目玉石の伝説は、やはり本当だったのか!?)
驚愕している僕に、再び声が聞こえてきた。
『そう、伝説の物語は、ほぼ真実です。私は乳母に両目を与えてからずっと、湖の底で眠っていました。でもあなたの奏でる龍笛の音色が再び私を呼び覚ましたのです』
(何だって、まさか!?)
さらに驚くべき事実を聞かされて、僕の心臓は早鐘を打ち始めた。
『私は毎日のようにここから聞こえて来る笛の音に、じっと耳を傾けていました。そのうちあなたの心の中までわかるようになったのです。そこで私はこうして地上に姿を現しました。でも長く留まる事は出来ません。さあ、早く私の背中に乗りなさい』
そう言うと彼女は長い身体をくねらせて、僕の前に低く首を垂らして見せた。
(きっとこれは夢に違いない。でも夢ならば何だって出来るんじゃないか?そうだろう、音弥!)
僕は自分にそう言い聞かせると勇気を振り絞って丸太のように太い、龍の背にまたがった。その時昔ビデオで見た「日本昔ばなし」の冒頭のシ-ンを思い出し、僕は笑ってしまった。何故なら僕は子供の頃、あの龍に乗る子供に憧れていたからである。
『それではしっかりつかまっているのですよ』
言い終えると直ぐに、彼女は長い尻尾を湖面に打ち付けて、大空に向けて舞い上がった。
その後ほぼ垂直に近い体勢になり一気に上昇して行った。そのもの凄いスピードに圧倒されながらも、
僕は横目で次第に遠ざかっていく余呉の町を眺めていた。
『このように私たち龍は、天に向かって真っ直ぐに昇ってゆくのです。この姿を人は、昇り龍と表現しています』
姫の言葉に僕は、なるほどこれがよく神社の絵画や彫刻などで目にする、昇り龍の姿なんだな?と納得していた。そしてその時僕はようやく気付いたのだった。姫が僕のために龍の動きを体験させてくれているのだという事を・・・
やがて彼女は振り返るとこう言った。
『次はあなたにぜひ見てほしいものがあります。よく下をご覧なさい』
そこで僕は身体を起こし、眼下に注目してみた。その途端、驚きの声を上げてしまった。
「こ、これは日本列島?」
そこにくっきりと見えた物は、今まで地図か映像の類でしか見たことがなかった、日本列島の全景であった。
『そうです。これこそが今、あなた方が住む日本列島の姿です。美しいでしょう?それでは次にその形をよく見てみてご覧なさい。どうです?龍の形に似ていませんか?』
(何だって?龍に似ているだって?)
僕は興奮して身を乗り出して見てすぐに納得が行った。
(そうか、あの右上にある北海道が頭の部分、そして東北から九州までが長い身体の部分ってことか?
言われてみると本当に、日本列島は龍の姿そのものだ。島全体が少し曲線を描いている所なんかもリアルに似ている…)
すっかり感心している僕の様子に、姫は満足そうに説明した。
『日本は神の使いである龍によって守られているのです。龍は貴方がたとは異なる次元に住んでいるので、普段目にすることは出来ません。しかし沢山の龍たちが日本の各地に住んでいて、この特別な国を守っているのです。このことをよく心に留めておいて下さい」
菊石姫はそう語ると、その見えない眼を僕のほうに向けた。その時僕には一瞬、その姿がもとの一人の美しい娘として映ったのだった。
『それではそろそろ下界に降りて行かなくては。そうでなければあなたの意識は肉体に戻れなくなってしまいます』
そうして直ぐに、姫は身体を反転させた。そこで僕はしっかりとつかまって身構えた。
『いいですか?次は下り龍です。この動きをしっかりと身体で感じてみて下さい』
そう言うと姫は、らせんを描くように回転しながら下降を始めた。その動きは一定ではなく、上に下に、右に左にと微妙に変化があり、しかもリズミカルだった。この時僕はこれまでずっと悩み続けて来た龍の動きを、その体感からハッキリとつかみ取ることが出来たのだった。
とその時、菊石姫が声を上げた。
『ほら、ほかの龍たちも、舞を披露しに集まって来ましたよ!』
顔を上げて周囲を見た僕は、仰天した。
夜空をバックに青、赤、黒、白、そして金や銀色のおびただしい数の龍達がダイナミックな舞を見せていたのだから・・・
龍たちの華麗な舞は多彩であり、時にはペアとなって八の字を描くような独特な動きをして見せた。
(これが龍の舞なのか!?)
僕の目は釘付けとなって、しばらくの間目を離すことは出来なかった。
『間もなく地上に到着です』
見事なまでの龍たちの、色鮮やかな天空のシヨーに魅せられて完全に我を忘れていた僕は、その言葉でようやく正気に戻ることが出来た。
眼下には再び、紺青にきらめく余呉湖が広がっていた。
姫はゆっくりと下降してゆき、静かに湖面に着氷した。
『さあ、早くあなたの身体にお戻りなさい!』
湖岸を見ると抜け殻となった僕の身体が横たわっていた。それを見た瞬間、僕の意識は磁石で引き寄せられる様に一瞬でもとの身体に納まった。起き上がろうとするとどうにも重たくて、僕は苦労した。そんな僕の耳に再び、姫の優しい声が響いてきた。
『音弥、それではこれでお別れです。今夜経験したことは、今後きっとあなたの役に立つことでしょう。龍笛奏者はあなたの天職です。あなたがその笛を奏でる時、人々の心は引きつけられて、魂の故郷である天界のことを思い出すでしょう。それによってその心は安定し、この国が新しい、真の平和を築いて行く助けとなってゆくことでしょう』
姫がこう言い終えたとき、再び強い風が吹いてきて、湖面に波が立ち始めた。そこで僕は慌てで大声でこう叫んだ。
「菊石姫、僕はまた貴女に逢うことは出来るでしょうか?」
すると湧き立つ渦の中に身を沈めて行きながら、姫の返事が返ってきた。
『それは難しいでしょう。でもあなたが龍笛を奏でる時、私の心はいつもそこに…ありますから・・・』
最後のほうの言葉は小さく途切れがちだったが、僕の胸の奥底に、その言葉はしっかりと刻まれた。
その後姫の身体はゆっくりと沈んでい行き、渦の中に完全に姿を消してしまった。それと同時に、僕の意識も遠ざかって行ったのだった。