⒈帰郷

 
 その日、僕は西に向かう新幹線に乗っていた。窓の外はどんよりとした曇り空。今にも泣きだしそうな灰色の空は、その時の僕の心そのものだった。
 僕は、橘音弥、19才。曾祖父の代から続く、雅楽奏者の家系に生まれた。
雅楽とは、古代中国から伝わる祭祀用楽舞で、日本では奈良平安時代から宮中で演奏されてきた、雅やかな音楽の事を指す。
その特徴は何と言っても使用される楽器にあり、合奏の中心となるのは一般的に三管、三弦、二鼓の8種類と言われている。
僕が担当しているのはその三管のひとつ、吹きものと呼ばれている横笛で、その名を龍笛(りゅうてき)と言う。
 
 三日前、僕は師匠でもある父、文弥に稽古場で雷を落とされた。その日は数ヶ月後に迫った宮中演奏会の最初の通し稽古の日で、それは事実上、僕の初舞台でもあった。

「いかんいかん、それでは駄目だ!音弥、私はこれまで何度も言つてきただろう? お前の担当する龍笛は、三管の中でも特に重要な役割を担っている。私の吹く篳篥(ひちりき)の主旋律の狭い音域をカバーするのがお前の役目だ。龍笛は音域が広く、それは「天と地の間を縦横無尽に駆け巡る龍」に例えられる。だがそれをお前はまだ殆ど表現できていない。この半年もの間、お前は一体何をしてきたのだ?」
 耳にまだ生々しく残っているおやじの言葉を思い出しながら、僕はため息をついた。
確かに龍笛が大切なのはわかっている。篳篥が地、龍笛が空、そして笙(しょう)が天の音と称される三つの楽器が揃って奏でられる事により、「宇宙を創造する事が出来る」とまで古来より考えられてきたのだから・・・

(それにしても龍なんて架空の生き物じゃないか? それを表現して見せろだなんて、所詮無理な注文だろ!)
 心の中で悪態をつきながら、僕は窓の外を見やった。するといつの間にか空は灰色から墨色に変化して、大粒の雨が落ちてきた。窓を叩きつけるその雨の様子をぼんやりと見ていると、車内アナウンスが流れてきた。
 
「まいばら-、次は米原駅に到着致します。お降りの方はお手荷物を忘れないよう、ご準備下さい」
「お、ヤバ、もう米原か?」
 考え事をしているうちに、いつの間にか下車する駅に着いてしまった。僕は慌てて荷物をまとめると、電車を降りた。

 米原駅を降りた僕は、そこでJR北陸本線に乗り換えた。そこから約30分で目的地の余呉(よご)駅に到着する。

 滋賀県長浜市。そこは琵琶湖の北東部にあり、戦国時代、豊臣秀吉が最初に築いた長浜城の城下町として発展した。その最北端に位置しているのが、余呉の町だ。そこは僕の母の故郷である。母、菊子は二年前に病気で他界した。一人娘であったので、今その実家には祖父と祖母が二人きりで暮らしている。家は町の南端にある、余呉湖という静かな湖のほとりに建っている。僕はようやく許された遅い夏休みをここで過ごすことに決め、練習漬けの日々で疲れ果てた心と身体を癒す為にやって来たのだ。最も親父の厳しい指導の目から、少しでも離れていたい…というのが本音なのだが。

(最後に余呉に来たのは一体いつだったろう?)
次第に明るくなってきた外の景色を見ながら、僕は考えた。記憶を辿ると、それは中二の夏休みであったことを思い出す。
その頃親父は音楽教育で有名な、都内の私立高校に行く事を勧めた。その秋に編入試験がある事が分かり、受験勉強をするなら都会にいるよりもむしろ、静かな環境にいるほうがはかどるであろうとの考えから、僕に余呉行きを提案したのだ。
 幸い山に囲まれてひっそりと佇む湖の雰囲気が僕は気に入り勉強にも集中出来たので、その結果見事難関を突破する事が出来たのだった。

(あれからもう五年も経つのか…)
そう思いながら当時面倒を見てくれた、優しい祖父母の顔を思い出す。そう言えば最後に二人に会ったのは母さんの葬式以来だから、もう二年以上も会っていないんだ。ちょっと会うのは照れ臭い気もするな…そんな思いを浮かべつつ改札口に向かうと、何とそこには笑顔で手を振る祖父の姿があった。

「おじいちゃん!!」
 思わず大声を出して駆け寄ると、おじいちゃんはすっかり白くなった髪に手を当てながらこう言った。
「おお、音弥、お前ずい分と背が伸びたなあ。それにすっかり男前になりおって!」
「嫌だなあ、おじいちゃんたら。僕ももう十九だから大人だよ。それよりわざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「いやあ、それはちっとも構わんさ。ついでにばあさんから買い物を頼まれてな、用事も出来たからちょうど良かったんだよ」
「本当?それならいいけど」
「ばあさんはな、お前が来ると聞いて張り切ってな?今夜は久しぶりに腕を振るうと言っとったぞ」
おじいちゃんは五年前と同じ古い車のドアを開けると、笑いながらそう言った。 

 車は駅を出発するとすぐ湖に沿った通りに出た。しばらく走り続けた後脇道に入ると細い道があり、その先に見覚えのある懐かしい二階建ての木造の家があった。クラクションを鳴らすと間もなく、白い割ぽう着姿のおばあちゃんが出てきた。
「音弥、まあまあようこそ、よく来てくれたねえ」
「おばあちゃん、久しぶり。相変わらず元気そうだね?ちっとも変わらない」
するとおばあちゃんはふくよかな身体を揺すって嬉しそうにこう言った。
「おやホントかい?嬉しいねえ。だけどこの頃は膝のあたりが傷んでね、やっぱり年には勝てないみたいだよ。それはそうと早く中に入って昔お前が使っていた二階の部屋を見てごらん?きれいにしておいたよ」
「ホント?サンキューおばあちゃん!」
 僕は嬉しくなって玄関に飛び込むと、すぐに階段を駆け上がった。部屋は二階の奥にあり、障子を開けると向かいの窓には
美しい余呉湖の景色が広がっていた。

「うわあキレイだ!やっぱりここからの眺めは最高だな!」
僕は窓から身を乗り出して、久しぶりに見る見事な風景にしばし見とれた。雨上がりの薄い雲の切れ目から差し込む光の筋が、真っ直ぐに湖に向かって伸びている。キラキラ輝く湖面を見て僕はつぶやいた。
「やっぱり来て良かった…」

「どっこいしよ。ほれ音弥、お前の荷物運んできてやったぞ!」
その時背後からおじいちゃんの声がして、僕は慌てて振り向いた。
「あ、おじいちゃんゴメン。荷物置きっぱなしたままだった…」
「ハッハッハ、いいんだよ。これ位の荷物ならまだまだ楽勝で運べるさ。それよりどうだ?久しぶりに見る余呉の湖は?」
「うん、最高だよ!ここからの眺めはまさに絶景だね?しばらく見ていなかったから、僕感動しちゃった!」
「そうじゃろう?お隣の琵琶湖に比べればちと小さいが、この湖には独特の魅力があるんじゃよ。
まあとにかく、しばらくの間はここでゆっくりするといい。そうだ、もしよければ明日の朝散歩に行ってごらん?早朝の眺めはまた格別じゃよ」
「いいね?それじゃあ明日は早起きしなくっちゃ」
「ほう?寝坊助のお前に出来るかな?ハッハッハ…」
おじいちゃんはそう言って、痩せた身体をのけぞらせて笑った。その時階下から、おばあちゃんの呼ぶ声がした。

「音弥-、そろそろ降りといで-晩ごはんの支度が出来たよ-!」
「え?もう晩ごはん?早っ!」
 手元の腕時計を見た僕は、まだ夕方の五時を回ったばかりなので驚いて声を上げてしまった。そんな僕を見ておじいちゃんは言った。
「都会と違ってこっちは暮れるのが早いからな?まあ今夜はばあさんが張り切って色々とこしらえとったから、ちと早いかも知れないが良かったら食べてやってくれ」
そういえばさっきからいい匂いがしてくると思った。そう気が付いた途端、単純な僕の腹の虫はグウグウと鳴り出した。
「わかったよーおばあちゃん、すぐに降りて行くよ-」
僕は荷物を手早く片付けると、急いで下に降りて行った。

「おばあちゃん、お代わり!」
 それから約十分後、僕は子供の頃からの大好物だった 焼鯖そうめんのお代わりを注文していた。
それはこの地方の郷土料理で、焼いた鯖を甘辛く炊き込み、その煮汁でそうめんを炊き合わせたものだ。
「ああウマいなあ。この香ばしいサバの風味と甘辛の汁が絶妙だね?」

「音弥は昔からそれを好いとったものねえ。そうしていると子供のころの顔とそっくりだわ。ねえおじいさん?」
「ああ、それに死んだ菊子にもよう似とる。」
「ほんにねえ。あの娘も鯖そうめんは大好物でしたから…」
 そこで僕は箸を置き、母さんの事を質問してみた。

「ところで母さんと言えばさ、父さんとはいつ知り合ったの?大学で?」
すると意外にもおばあちゃんは首を横に振って言った。
「いやあ、それは違うね、二人が出逢ったのは高校の時だよ。県の音楽コンクールに出場した時に知り合ったんだよ」
それは初耳だった。そういえば昔、母さんは合奏部に入ってたって話してくれた事はあったけど、そこまでは知らなかった。
「それで全国大会にまで勝ち進んだんだけど、上位に選ばれた四校が決勝戦の前に顔合わせをしたんだよ。菊子はそこで文弥さんに出逢ったと言うわけさ」
「ふうん、そうだったのかあ?」
そこで僕は二人の馴れ初めについて興味が湧き、更に踏み込んだ質問をしてみた。
「ねえねえ、それで二人のうちどっちが先に好きになったわけ?」
 
 ゴホンッ!!
そこでおじいちゃんが突然大きく咳払いをしたので見ると、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔になっている。
えっ?それじゃあまさか!? 驚いている僕を見たおばあちゃんはそこで顔を近付けると、小声でこう言った。
「そうなんだよ。実は出逢って直ぐに夢中になったのは菊子のほうでね?文弥さんは当時の優勝候補のメンバーの一人で、中でも飛び切りの美男子で特に目立っていたんだよ」
(ヒエー、あの父さんが美男子だって!?)
僕は今じゃメタボな中年と化した親父の姿を思い浮かべ、吹き出しそうになるのを何とかこらえつつ言った。
「な、なるほどー。それじゃつまり、母さんのほうが父さんに一目ぼれしたって言うことなんだね?」
「そうなんだよ。ちょっと信じられないかもしれないけれど…」

 そこでずっと渋面をしていたおじいちゃんが口を開いた。
「菊子は一見おとなしそうに見えるけど、こうと決めたらまっしぐらの一本気な所があったからな?
それから文弥君と同じ東京の大学に進むのも、結婚する事も全部一人で決めてしまったんじゃよ。わしらがどんなに反対してもな?」
「え?それじゃあおじいちゃんもおばあちゃんも二人の結婚には反対だったんだ?」
意外な事実を知らされて再び驚いている僕に、おばあちゃんが説明してくれた。

「音弥はまだ若いから考えも及ばないと思うけど結婚というのはね、二人が良ければそれでいいと言うわけにはいかない事もあるんだよ。菊子の場合、先様の家は由緒ある雅楽奏者の家系だろう?うちとはとても不釣り合いだし、嫁になるとあれば気苦労が耐えない事は目に見えていたからね?だから親としてはたまらなくて反対するしかなかったんだよ」
 しみじみと語るおばあちゃんの話に、僕も納得がいった。
 確かに頑固で融通が利かない芸術家タイプの親父に仕えるのは大変そうだったし、親戚たちが集まる冠婚葬祭の席などでは、いつも隅のほうで控えめにしていたっけ?体調が悪いことも僕や父さんにはずっと黙っていた母さん・・・
 
 夕食後、僕は仏壇の前で手を合わせて言った。
「母さん、僕が気付かない所でもきっと沢山苦労があったんだろうね?生きている間にもっと助けてあげられれば良かった。ゴメンね」
そして線香をあげた後、持ってきた龍笛を取り出して好きだった曲を吹いてみた。
『音弥の吹く音色は優しくてちょっと切なくて、母さん大好きよ』
そう言って褒めてくれたことを思い出しながら・・・

 






 

神倉万利子
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神倉万利子

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