帰郷
野川絢子が小学生の頃、曳山祭りを一緒に見に行くような友達が出来なかった。同級生らが連れ添って町を行き交うのを自分の部屋の窓から見送ると、カーテンを閉め、ベッドへと寝転がる。
「ジュン、今日曳山やで。いかへんの?」
母親が尋ねてきた。
曳山祭りとは、子供が演じる歌舞伎舞台を持つ巨大な山車が有名な長浜の行事である。
「今年はせっかく伯父さんが曳山を塗り替えたんやから、見に行ってあげてよ」
「分かったもぉ、うるさいな」
絢子はマンガから目を離さず、
「どうでもいいよ、曳山なんて」
母親はため息をついて出ていく。
時は過ぎ、絢子が二十三歳の秋口、独り暮らししていた都会のアパートを引き払った。すでに家具を処分し、がらんとした室内。ノートパソコンを専用の肩掛け鞄に収め、キャリーケースを携え、最後にスマホを掲げ、部屋の写真を撮る。
「戻って、来るから……」
と呟き、後にする。
絢子が電車に乗っている。茫然と眺める先に伊吹山がある。時折目に入る、向かいの車窓から差し込む琵琶湖の水面の煌めきが目にしみる。
「終点、長浜。長浜」とアナウンスが聞こえてくる。電車は長浜の街中へと吸い込まれていく。
「帰って、きちゃった……」
駅前の光景を眺めながら呟く。ポケットからマスクを取り出し、顔にかける。
直度、スマホが震える。母からのメッセージだ。
辺りを見渡すと、ロータリー内駐車場に停まる白いミニバンへと駆け寄る。
絢子を乗せた車は駅前通りを走る。
絢子は気だるそうに外を眺めている。
「あんた半年で仕事辞めてもうて……やっと手がかからんようになってくれたと思ったら」
絢子、眉をひそめる。
「あんたのお友達のチカちゃんね、伯父さんの仏壇屋で一生懸命よ。漆(うるし)塗りの修業」
「え……チカ、まだ続いていたんだ?」
と絢子は母の方を向く。
「そうやて。ちょっと危なっかしいところあるけど、あの一本気なとこ見習ってほしいわ」
嫌味を言われつつも絢子は微笑み、
「そうなんや。頑張ってるんや」
としみじみと呟く。
「そういえば今日、お仏壇を引き取りに来て貰ってるんよ。ちょうど会えると思うで」
「引き取りって……捨てるの?」
「お洗濯よ、バカ。塗・り・替・え。お出迎えせなあかんのに、あんたが事前に帰る日を相談してくれてたら……」
車は住宅街へと入っていく。
絢子の家は昔からの在所にあり、古めかしいが立派な和風の二階建てである。
絢子を乗せた車が広い更地の前庭につけた。玄関の前にトラックが停まっている。荷台の三方の囲いが開かれ、床面に毛布が敷かれてある。
「もう、始まっているみたいやね」
と母が呟く。
その時、玄関から絢子の伯父・玄野が仏壇を担いで出てくる。長浜仏壇は幅120センチ・高さ180センチ程もあり、持ち上げるとなると腕がもげるほど重いはずだ。玄野は口元を食いしばった真っ赤な顔を震わせ、寝かせた仏壇の底部を担いでいる。
「チカちゃん、幅、大丈夫か?」
「はい!」
仏壇が完全に戸口を抜け出すと、仏壇の上部を担ぐチカの姿があった。細腕ながらもしっかりと仏壇を支えている。というよりもチカのいる側は絢子の父も手伝っているので表情に余裕が見える。
絢子はマスクを取ると、
「チカ!」
と手を振る。気づいたチカは目を輝かし、
「ジュンちゃん!」
と手を振り返す。
途端、チカの掴んでいた部分は急に力が緩んだせいか、いきなり本体から外れた。
「あぁ!」
と一同叫ぶ。
古くなりすぎて各所脆くなった部材が、外れた箇所から段々と崩れ落ちていく。
一同、沈黙。
チカの笑顔は凍り付いていた。