能当を継ぐもの6
この傷が原因で藤内は床に臥せるようになり、三年後の寛政一〇(一七九九)年五月に亡くなった。
藤兵衛は自身を責めているようだった。葬式の後、二人になった時にふとこう漏らした。
「国友藤兵衛は〝能当〟、能(よ)く当たるという二字を将軍軍様より賜っている」
「そうだな。他家は重ねて当たる、〝重当〟なのだから、誇るべきことだ」
「だがな、当たるだけではだめなのだ。さらに威力を増し、扱いやすいものを作らねば」
「藤内様の……」
「もちろんそれもある。オオアマオオイのような部品ではなく、羆用のために技術の粋を尽くして新たな銃を作るべきだったと今でも思っている。少ない火薬で最大の威力を誇るようなものをと……。佐平治聞いてくれ、この状況を打破するために、越後の本間平八様のもとへ鉄砲製造の修行に行こうと思う。内々だが、手紙では了承いただいている」
「この作業場を閉じてか」
「正直、今の国友村の受注量だと、わし一人がいなくとも十分作り切れる量だ。一時はこの小さな村に七〇軒以上の鍛冶屋を構え五〇〇人以上の職人がいたのに、多くは廃業し農業に転じるなど、鉄砲鍛冶は減るばかりだ。このまま先細りになるくらいなら、新たな技術を習得して鉄砲の、いや国友で新たな何かを作れるようになりたい。鉄砲が廃れるのなら、今の技術を転用すれば必要とされる物は作れるはずだ」
「また、いつものように空飛ぶ船や一度の弾込めで何十発も打てる鉄砲、墨を刷らなくても書ける筆などと言い出すんじゃないだろうな」
「それらは、それぞれの理を極めれば決して夢物語ではないぞ。まあいい。能当を継ぐというのは、そういうことだ。狭い世界にとどまっていては、この村は滅びる。留守の間、弟の面倒をよろしく頼む」
しばらくたったある初夏の朝、藤兵衛の弟久三郎と私というささやかな見送りを背に、藤兵衛は北陸へと旅立った。