能当を継ぐもの5
大きな音で扉が叩かれたので、作業場の視線がそこに集まった。
藤内様が出発して数日。ちょうど日が落ちようとした頃のことだった。扉を開けるとニレが息を切らしてそこに立っていた。狩りに参加した藤内が、クマに襲われたという。なんとか撃退し、下の村まで運び、庄屋の屋敷の一室で寝かせてもらっているらしい。
予断を許さない状況だという。
私と藤兵衛は、急ぎ駕籠かきを手配して藤内が臥せる村へ向かった。道すがら、ニレが状況を説明する。それは、おおむねこういう話だった。
糠雨が煙るその朝、ヒバの読み通り、炭鉱に近い村へ続く道に羆は現れた。いつもと同じように子連れの母熊だ。少し離れた森でヒバ、ニレ、藤内の三人は、三匁の小筒(口径一二.五ミリ)を用意して待ちぶせた。雨除け用に簑と傘を身につけ、ゆっくりと風下へ回る。加えて火薬の匂いに敏感な熊対策のため、一回の発射にはそれほど多くの火薬を入れずに準備していた。手筈としては、先に藤内とヒバが撃ち、万一外した時やとどめを刺すための二の矢をニレが準備をしていた。緊迫した空気の中、藤内は「引き付けて撃て」と指示をした。
近づく熊へ向け、二発の銃声が響き、うち一発は確実に眉間に当たった。音を立てて母熊はその巨体を横たえた。ついてきていた子熊は、後ずさりながら、声を上げている。
「子熊を撃て」
二発目を準備しながらのヒバの指示で、ニレは数歩前へ出て小筒を構え、子熊に発砲した。霧雨のせいで、視界はあまりよくない。うまく当たらず、右耳を吹き飛ばすにとどまった。その瞬間、後ろから大きな咆哮が聞こえた。振り向くと、母熊と同じくらいの熊が立ち上がっていた。雄熊だ。ニレは発砲直後のため撃てない。二発目を準備していたヒバも間に合わず、その場に銃を捨て、担いでいた弓で顔を狙った。同時に、藤内の二射目の音がした。胴を貫いたかに思えたが、羆はそのまま前に進み、すれ違いざまに藤内へ向けて右手をふるった。蓑の藁が周囲に飛び散ると同時に二間(三.七メートル)ほど後ろへ飛ばされる。
倒れていた雌熊は、死んではいなかったようで、近くに来た雄熊が顔を舐めると意識を取り戻し、三頭はその場を離れた。
慌ててニレが藤内に駆け寄ると、右肩から左脇までの背中に大きな爪痕が付いており、水たまりに血がにじんでいた。その場に荷物を放り出し、急いで止血すると、二人で近くの村まで運んでいったという。
藤兵衛と私、ニレが村に着くと、庄屋の屋敷には漢方医がいた。たまたま伊吹山の方に生薬を探しに来ており、この村へ逗留していたのだという。幸い傷は内臓に果たしておらず、縫合も済んでいた。藤内の意識はなかったが、一時出ていた高熱も、なんとか峠を越えたと伝えられた。
結局駕籠を用意したものの、その日に動かすことは厳に戒められた。藤内の容態が落ち着き、この庄屋の家を出て国友村へ戻って来たのは半年以上もたった一〇月のことだった。幸いなことにあの日以来、近辺で羆を見ることはないと見舞いに来たヒバが教えてくれた。