慶長七年(1602)一月晦日。
小康状態で年を越し、1か月が過ぎた今、我が主井伊兵部少輔直政様はにわかに意識を失った。
古来より、満月と新月は人がよく死ぬと聞き及ぶが直政様がそのような当たり前の死を床で迎えようとしているとは、まだ信じられないでいる。私より五歳も若いながらも主の死を看取る予感はあった、しかしそれは戦場においての討死に違いないと確信していた。
直政様が寝むる場に呼ばれているのは、私と同役の鈴木石見守重好、庵原助右衛門朝昌、直政様の幼少期からの家臣である奥山六左右衛門朝忠、小野朝之、直政様の嫡男万千代様と庶子弁之助様共に十三歳の男子のみである。
奥方様は、奥で逐一報告を受けている。
少し前から息が変わる。
医師の言ではこの呼吸になると一昼夜以内に浄土へ行き、止めようがないらしい。
「いよいよ、覚悟を決めなければなりませんな」石見守が誰に言うでもなく口にしたが、それは私に対する最終確認であった。
荒い息の主君に皆が注目しているときでありながら石見守と一瞬目を合わせて二人は軽く頷く。
「土佐守殿、別室にて今後の準備を命じませぬとなりません」
石見守は、私を伴って主人の病床の間を離れた。
佐和山藩を動かす二人の家老、石見守と私こと木俣土佐守守勝が部屋を出たことで万千代様が我慢できず「父上」と叫び、助右衛門が制する声を遠くに聞くことになる。
その声は、まるで主に懐いた白猫の様だ、と直政様の膝で丸くなっていたが主人より先に旅立った「たま」を思い出した。
「明日には腹を切らねばなるまいな」
石見守は私の独り言に静かに頷いた。直政様は激しい性格であった為、家臣らは恐怖政治の中で命をかけて戦っていた。井伊谷以来の家臣である近藤や菅沼は井伊家から離れ、私も徳川家康公の直臣に戻りたいと何度も願った。
しかし、先々君龍潭院様(井伊直盛)の姪を妻に迎えていた私が直政様から離れることは井伊家崩壊を意味し、家臣団を統括できない者を重用したと家康公すら貶めることになるとも、妻の妹を娶る庵原助右衛門に諭された。
そんな主であるから誰も殉死などしないであろう。だからこそ、この土佐守と石見守が死なねばならない。二人の家老が殉死することは百人の殉死者以上の価値が出る、その評価が近江佐和山という要所に井伊家を残すことになる。
万千代様は、父の最期に叫ぶ男であるとすれば他国への評価も良くならないかもしれない。家老二人の死で家臣も他家も納得させると誓った。
雑用を他の者たちに指示した後、石見守と共に直政様の病床の間へ戻った。万千代様の目が赤く腫れていた。
朝を迎える。
如月朔日。この日から月が育つという日に、井伊家当主の呼吸が消えた。
美しい顔である。直政様を幼い頃から知る妻は、その愛嬌や青年期の美しさを褒め称えていたが、直政様が家康公に仕え始めた頃、私は明智日向守様の家臣であったため少年の頃を知らない。
本能寺事件の直前に徳川家に帰参し、家康公が安土城に挨拶に行く家臣として同行する中に私も元服前の直政様も含まれていたことが出会いであり、直後の宇治伊賀での逃避行でお互いに背を預けて土民と戦ったときもあった。
それだけの存在でしかなかった筈が、いつの間にか補佐をすることを命じられ、武田遺臣の赤備え隊と共に直政様に従い井伊家に繋がる妻を迎えた。
多くの戦に出て、傷は増えた。その傷が完璧な美しさを崩しながらも完成を超えた美を主に示した。
太閤殿下が亡くなった辺りから主も病を得て衰えてきた。しかし徳川家中において武勇もあり外交もこなす官僚は直政様しかおらず、直政様が外交に立てば先方は何も抵抗できないでいた。
直政様の仕事は増えるばかりであり、養生は叶わず、日に日に血の気を失い陶器のような顔色をするようになる。関ケ原での傷が病を悪化させていた。
真っ白になった直政様の顔を見る。美しい。
思わず頬に手を当てようとした時、悪臭が部屋に充満した。死が近付くと人は排泄が少なくなり死とともに体に溜まったものが一気に排出される。戦場でも何度も見た光景と臭いだが、元服前の二人のお子には衝撃であるだろう。しかし意外にもどちらのお子も冷静であった。
井伊家に入る前、盗賊を斬り殺したと噂される弁之助様ならまだしも、万千代様もしっかり父親の様子を見、「父上は体の中を綺麗にして旅立ったのだな」と言うと部屋の外に控える者に直政様を清めるように命じたのだった。
これから葬儀までの間、我らは身支度のため一度屋敷に戻る。その場で私と石見守は他の家臣らの殉死を禁じる代わりに腹を切るとの遺言をしたためて直政様を追う。これにより実際には誰も考えなかった殉死も家老が身を呈して止めたとの言い訳が立つ。
なかなか言葉を発しない万千代様に、家臣らが準備をするよう命じるよう促そうてしたとき、万千代様は自らの姿勢を正して我らを見渡した。
「これから、父上を送るために皆には一度この場から下がって貰う。しかし、殉死は固く禁じる」
父を亡くしたばかりであるというのに、柔らかい視線で家臣の顔を一人ひとり見つめ、石見守と私を特に長く見ながら万千代様は死を禁じた。
「しかし、それは…」
直政様と共に家康公にお仕えし、家康公の直臣であった身を自ら望んで井伊家に仕えた小野朝之が抵抗しようとする。小野但馬守政次の甥でありながら直政様に一番近かった男だっただけに密かに殉死を考えていたようだ、私の読みもまだ甘かったのかもしれない。
「小野はまた井伊家から離れるのか?」
万千代様は「未熟者の私を生きて助けて欲しい」と続けた。
「この要所を治めるために、一人の人材も欠かせない。死ぬ間があるなら、生きて死ぬほど働いてこそ忠義である。逃げることは許さない。私が泣いて家臣に懇願したと言えば世間も笑いながら許すであろう」
優しい口調で強い言葉だった。
朝之の隣で六左衛門が崩れて主の遺体の胸の上で男泣きしている。この忠臣も殉死を止められてしまったのだ。もし万千代様の言かまないままに私と石見守が自害していたら、小野家と奥山家からも死者を出さねばならないところであった。それはもう一人この場にいる助右衛門すらも死なねばならない事態になっいた。
石見守と朝之はそんな万千代様を新たな主として認めた。私も万千代様に対する考え方を改めた。
こうして、井伊家中では直政様のために殉死する者は一人も出なかったのである。
善利川の中洲に大きな炎が立ち上る。
周囲に肉の焼ける匂いが広がり、炎を見つめながらその匂いに咽せる者も居た。
赤鬼と呼ばれた直政様の肉体は、物語で聞く鬼の最期にも重なるような激しい火がよく似合った。
棺桶が崩れ、直政様の肉体も黒く煤けながら溶けて行き骨が残った。
万千代様と弁之助様が火箸で骨を拾おうとしたがほとんどが音もなく粉となり風に運ばれた。それほどまでに主の肉体は病んでいたのだと思うと胸が詰まった。
風により善利川に浮いた遺灰はそのまま琵琶湖へと流れるであろう。この地にいつまでも直政様は居続けるのであれば我が木俣家も残らねばならない、たとえ万千代様を裏切ることになっても…
この後、佐和山から彦根山に居城を移した井伊家であったが、彦根騒動により彦根城は築城主の井伊直継(万千代)と別れ、直孝(弁之助)の子孫に引き継がれて行く。その脇には常に木俣家が居た。
庵原朝昌は、大坂夏の陣で木村重成を討つ活躍をし、木俣守勝亡き後の彦根藩を支える。
奥山忠朝は、直孝の代から始まる彦根城築城第二期工事で彦根城下町を整備した、その子孫は井伊家からも養子を迎えている。
一方、鈴木家は直継と共に彦根を離れ、後に水戸藩の家老となる。水戸家二代光圀は殉死を廃した名君として知られているがここに鈴木家から直継の話を聞いたかどうかの逸話は残っていない。
小野朝之の一族は、直継から繋がる井伊家において常に家老であり続け、藩の存亡の危機を救って行くことになる。
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