闇の中に月が浮かぶ。
満月ではない、かと言って三日月のような魅力もない。十一夜を何と呼ぶかは知らないが、万民が憧れる夜である筈はない。
「まるで俺のように中途半端だ…」
一人で苦笑しまた空を見上げる。

城主の弟であるという立場から、命じさえすれば余計な者はここには入って来ない。
彦根城月見櫓の二階は、如月には寒いがそれがわが身にはよく似合っていた。昼過ぎから降り出した雪は夜までに深さを増して、櫓全体どころか城全体、いや彦根という町全体も凍てつかせていることも自分に似合っている。
「母上が亡くなられたのもこのような寒い夜でした」
何も答えず、白銀の世界を照らす中途半端な月に杯をかざし、ぐっと呑む。喉に通る痛みにも似た刺激が幼い頃の記憶に重なった。


「母上!」と叫び、槍を構える暴漢と母の間に両手を広げて立ったのはまだ十歳にも満たない童のときであった。暴漢は戸惑った目をして俺の頭越しに母を見た。背中を振り向く余裕はなかったが母が軽く頷いた気もする。
「弁之介」と俺の名を語りかけられた直後に背後から両肩を掴まれ左側へと体勢を崩された、このときになって驚いて振り向くと母は微笑みながら両手を俺の肩に乗せていて、直後に暴漢が母の喉を槍で突く。
もう一度「母上!」と叫ぶと、母の血が口の中に飛び込み熱い刺激となって胃の中まで進む。暴漢を睨み付けると、すでにその場で腹と首を斬って果てていた。
暴漢の遺体から槍を奪い、その体に何度も突き刺していると、大人たちがやってきて俺を制し「母上様もご承知のことでございます」と言う。井伊直政の庶子である俺を引き取るために父が母を殺したのだ。と。母も俺が井伊家に入り父の役に立つならと覚悟を決めたらしい。
「そのようなことは知らん!」
俺の叫びも虚しく、ひと月後には井伊直政の居城高崎城に連れていかれ、父との面会になったが、父は一瞥しただけで詫びることもなく座を去って行った。
城内本丸に建つ屋敷内の一室に通されると、そこに同い年くらいの男児が居て「お主が弁之介か」と優しい口調で語りかけてきた。
「そなたの兄で、井伊家嫡男万千代と申す。母が違うと言えども弟が居ると知り嬉しく思い会いにきた、よろしく頼む」
決して偉そうではなく、同等の者として接しようとしてくる兄となる男に反発したくなった。場合によっては将来主君となる男であるが覇気は見えない。六歳のときに盗賊を斬り殺した経験がある俺とは違うのだと見下した。
(母上は、俺がこんな男に仕えるために殺されたのか)
悔しさから拳に力が入る。
(ならば、この兄と名乗る者も形ばかりの父も追い出して井伊家当主となってやる!)
覚悟である。
「弁之介?」
黙ったまま怒気を示した俺の肩に兄は手を置いて瞳を探ってきた。
笑みが消えて感情のない声で「この城が欲しいか?」と言った刹那に目尻が下がった。
世の人々は、この俺を優秀だと言い、父もその評判から俺を井伊家に迎えた、その反面万千代は凡能であると…
まだ童の二人の才能などわかるものではなく大人の色目でしかない、そして俺自身、自らが凡庸であることを知っていたから非凡であると演じ続けた。
六歳のときの盗賊もたまたま出会った金に困った貧弱者に屋敷の場所と抜け道を教えて誘っただけである。来る日も場所も知っていたから簡単に突き刺せただけだ。これも凡庸が故の行動だった。
この報告を聞いて、父直政が一度俺を見に来たらしいが陰から見て声も掛けずに去って行ったと聞く。
母上がそのあとから俺を井伊家に戻すように行動し始めた。息子に夢を見たのであろうが、俺には重荷だった。
そんな俺に比べれば、今の一瞬でも兄が有能であることがわかる。兄は俺とは反対に凡庸であると演じ続けているのだ。
「なぜ?」と問いかけたがそれには答えず兄は部屋を出て行った。
「その器を演じるならばそれもいい。いずれは井伊家を奪い取ってやる」
その評判は、兄弟が一緒にすごすことでますます鮮明に広がって行く。
関ケ原の戦いの後、近江佐和山に転封となり父が亡くなり彦根城築城後も井伊家当主に相応しいのは俺の方だと言われ続けてきた。
二人の元服も同時であり、兄が直継、俺が直孝と名乗る。
家臣たちは鈴木家を中心とした兄と、西郷家や椋原家を中心とした俺の派閥に分かれて跡目問題まで起こすようになっていた。


長い思い出を母に語っている。
(凡庸な俺に井伊家を背負わせた母上は罪人だ…)
彦根騒動とも言われる家臣らのいざこざは収まらない。藩を割ることを母はのぞんだのだろうか?
下の階から階段を登る音がする。
誰も来てはならぬと命じた筈だったが…
風に乗って味噌の焼ける匂いも近づき腹が鳴った。
足音が止まる。そこには直継が立っていた。
「殿がお越しとは…知らぬままに怒鳴るところでしたぞ」
笑みを絶やさない兄は「二人のときに殿は止めろ」と笑い隣に座った。手にはコハダの味噌漬けを焼いた物が乗った皿を持っていた。
「これが欲しいだろうと思ってな」
いたずらをしたときのように俺の顔を覗き込んで笑う。小さな魚は一尾しか置かれていない。
「兄上が食されるべきでしょう」
「これは、お主への土産だ」
互いに遠慮していては冷めると促され口に運び一気に飲み込むと兄は嬉しそうだった。
「この城を飲み込んだか」
コノシロはコハダの別称だとハッと思い出した。
「お主はコノシロを好むのであろう?」と言い大笑いした兄は「ならば食い尽くせ、それがお主の母の願いでもあっただろう」と俺を見据えた。
「井伊の名は重いぞ、逃れる術もない。お主に負わせるのは心苦しい、だが任せる」
すまぬ。と頭を伏せたのちに兄は出て行った。しばらくして温かい酒と肴が多く運ばれてきた。

冬になり江戸より大坂への出陣が命じられたが、兄は病を理由に大将を俺に譲り碓氷峠警護の任に就いた。
翌年も同じく俺が出陣し、その後に兄は安中藩へと転封になり俺が彦根藩を継いだ。
去り際に兄は「お前は自分が思うほどに凡庸ではない。本当に凡庸な者は自分を演出もできないはずだ。父上も陰から見てそれを悟っておられた。お前はただ臆病で弱いから鎧を纏い、強く見せたがるのだ、ならばその鎧を着続けて決して脱ぐな。それが井伊家を継いだ者の宿命である」と俺だけに言った。
そして「幕府は、お前が庶子だから政治を任せ易いと思っている。失敗したり途中で投げたら井伊家は彦根から転封になりこの直継が藩主に返り咲くことになると覚悟せよ」と初めて会ったとき以来見なかった感情のない声を発した。

母上が命を投げてまで俺に与えたかったのは、この休まらない座であったのだろうか?
今はもう進むしかないのだ。

古楽
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