甘い香りが我を包んだ。
「虎松、無事でいるのですよ」
最近、夫と二人の子を刑場で亡くしたばかりだというのに、昔の許嫁の子をこの方は大切にしてくれる。
「祐圓尼さまもお体に気を付けてください」
我を鳳来寺山に連れて行く任を負ったのは、父直親にも仕えていた今村藤四郎だった。父が幼い頃に命を狙われたとき、寒空の山道を共に越えて十年近く一緒に過ごしたと聞いている。しかし父が暗殺された場には居合わせなかったことをいつまでも後悔していた。そんな藤四郎だからこの度の任に相応しいと祐圓尼から白羽の矢が立った。
我と共に鳳来寺山に向かうもう一人の年上の少年は祐圓尼の夫の甥小野亥之助である。
「虎松様にしっかり仕えお守りするのです」と義理の伯母から念押しされ、強張った顔で頷いたのだった。


小野道好は、井伊家重臣であり今川氏との連絡役も務めていた。
小野篁の子孫で、都の教養を着けていた遠江の文化人であったとも、「英比」と呼ばれる井伊家に近い家系であったとも言われているが、古い井伊家が使っていた「道」の名を父道高から継いでいることからも井伊家との縁は古くからあったのかもしれない。
小野家は、祐圓尼や虎松の曽祖父直平が小野兵庫助を家臣に迎えてから井伊家に仕えたとされているが、兵庫助が道高自身であるかどうかもわかってはいないが、道高であろうと考えられる。
井伊家に仕えながら、駿府に拠点を置く今川氏にも仕え両家を繋いでいた道高は、井伊家との縁を深めるため直平隠居後に井伊家を継いでいた直盛の一人娘を道好の正室に迎えようとしたが、その前にこの娘と井伊直満の嫡男亀乃丞との婚礼が決まってしまった。
その後すぐに、直満が北条氏康に誘われて遠江国人をまとめ今川義元に対して東西から挟み撃ちにする密約をしていたことが発覚し、直満は義元に殺害されたが、道高と直盛の妻の兄新野左馬助が尽力して井伊家への咎を責めない代わりに亀乃丞差し出しを命じられた。
しかし、直平と直盛は亀乃丞を信濃に逃がしてしまうのである。小野家としては直満の家系を潰してでも井伊本家を守りたかったが直盛らにその想いが届かなかったことに失望した。であるが故に、直盛の一人娘が出家して次郎法師を名乗り婿を取れないことで井伊本家が残らないことを条件に義元に赦しを請い義元もそれを認めた。

まだ、虎松が生まれる前のことであるが、虎松の父が逃げたためにひとりの少女の運命に闇が訪れたのである。
九年後、今川氏から許されて亀乃丞が井伊谷に帰国したが次郎法師の婿になることや井伊家の後を継ぐことは許されず、亀乃丞は一族の奥山朝利の娘ひよを妻とし元服して直親を名乗った。
四年後、直親は在所の隠し女との間に女児をもうける。女児は「高瀬」と命名され直親が道好に相談し小野屋敷に預けられた。
高瀬姫誕生の翌年、井伊家だけではなく今川氏も天下すら揺るがす事件が起こる。
尾張の織田信長を討伐ために出兵した今川義元が逆に桶狭間で信長に討たれた。義元の側に陣を構えていた井伊軍も織田軍に囲まれ、主要な武将と共に当主直盛すら討死したのである。
孫の死の報せを受けた直平は、一時的に直親を当主とするが実権は与えなかった。井伊家は直平、小野道好、一族の中野直由、外戚の新野左馬助らの合議を直親が運営するようになる。

そんな混乱の翌年、永禄四年(1561)2月19日、ひよが男児を産み「虎松」と命名された。
直盛討死の直前にひよが懐妊したために、直盛の生まれ変わりと期待された子であり、直平は早々と虎松を井伊家の次期当主に定め、直親は虎松元服までの繋ぎとしたのである。
これが、直親の行動となる。
今川氏から独立した三河の松平元康に内通し今川色が強い井伊家を変えようとした。しかし高瀬に会いに来た直親の態度から事実を知った道好は直平に相談し、直平は虎松保護を条件に義元の後を継いだ氏真に報告。氏真は直親を招聘して掛川で討たせた。
直平は虎松を次期当主に決めながらも、幼すぎるために代理人として次郎法師を還俗させ「直虎」の男名を名乗らせた上で道好を婿として迎えた。井伊家の家紋である橘を象徴する「タジマモリノミコト」から但馬守を自称させ代わりに「道」の字は廃棄させる。道好は「井伊但馬守政次」と名乗った。
しかし、今川氏は甘い大名ではない。謀反人直親の息子を助命する代わりに井伊家に軍役を強要した。井伊直平、新野左馬助、中野直由は相次いで討死する。
直虎が表に立ち、政次が助ける形で井伊谷が治められていたが氏真は政次に井伊の名を捨てて小野に戻り当主となることを命じ、政次も従わざるを得なかった。
世は、政次の謀反とみなす。その直後に徳川家康(松平元康)が遠江を攻め井伊谷を占領した。
今川から徳川へ領主が替わった証明との理由で家康は政次処刑を求めたのだった。
政次は、井伊家を裏切った今川氏配下の小野家として処刑され、直虎の前に居た前妻との間の二人の息子も処刑された。
家康は、虎松に鳳来寺山での修行を命じた。遠江の名家井伊家を大切に育て、有能な若者に育てて厚遇すれば徳川家は他国の者でも働ける場所と示せるためである。厳し環境にも耐えられる男児であることを願い、直虎の意も得たのだった。


父直親とほぼ同じ人生を辿り、虎松は帰国し直虎らの演出によって徳川家康に仕え、万千代の名を与えられた。
今、芝原の地において初陣を飾った。
祖父直満、父直親、だけではなく新野左馬助ら重臣や小野政次と二人の息子などの命を糧にして井伊万千代が居る。政次の死後再び出家し祐圓尼と号した直虎の香りがふっと鼻をくすぐった。
「猛らねばならぬ。しかし冷静でも居なければならぬ」
敵は近くに居る。その奥には数多くの武将と大名が存在し今は味方である者もいつ敵になるかは分からない時代なのだ。
万千代は、終わりの見えない戦いの第一歩を咆哮と共に駆け出して行った。

古楽
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