「どこで変わってしまったのだろう?」
築城からもうすぐ10年になろうかとする彦根城から、東へと向かう輿に揺られながら私はひとり呟いた。
夫は13年前に没したが、後を継いだ息子は立派な青年へと育った。親の引き目を度外視しても藩主としては厳しさがないこと以外に欠点は見つからない。彦根城築城時も人柱になるはずであった若い女子の命を密かに助ける人徳も示している。
申し分のない主ではないか。
しかし、大御所様は我が子井伊直継から彦根藩を奪い、六分の一の石高と直勝という名への改名を命じた。
「勝ってなどおらん!」
思わず怒声が出て輿が止まった。外から「何かこざいましたか?」と、落ち着いた声がする。
「少し夢を見ただけだ、心配ない」と応えると外の声は了承しながらも動き出した輿の脇を歩く素振りを見せた。
「菊、心配しなくても良いのです。貴女も殿の大事な方なのだから自分の輿に乗りなさい」
「私は歩く方が好きです。それに殿からも唐梅院様のお近くに居て良いとの赦しをいただいておりますので、ご心配にはおよびません」
菊は、人柱になる筈の娘だったが、直継が助けた後はこの唐梅院の側に仕えるようになり、直継の側にも呼ばれるようになっていた。

ふと、直継が菊を見る目は、出会った頃の夫直政が私を見る目と似ていると気付いた。
徳川家中で何度も話題になり、年頃の娘たちが興味本位で見に行っては美青年ぶりを褒めていた井伊万千代様、対して私は可もなく不可もない、他者から噂になることもないただの娘であった。
しかし、万千代様はなぜか私に想いを寄せて下さるようになった。その僥倖に驚きながらも度々会いに来て下さる万千代様に恋をした。そんな万千代様が私の名前である「花殿」と囁きながら見つめる目が懐かしい。
万千代様は私への想いを父松平康親に伝えたらしい、父は驚きながら「我が娘は、どう見ても平凡な女子であり井伊殿に声がかかる者たちの方が美しい方もいらっしゃいましょうに」と余計なことを言った。
万千代様は笑いながら答えて下さった。
「確かに美しい女子はたくさんいるが、あの者たちは桜です。一瞬の盛りの後に散ってしまえば他の木々と同じにしかならず、下手に美しい時があっただけに無情すら感じる。しかし花殿は梅のような方だ。寒い雪の中で咲き、場合によっては誰にも見てもらえない、もしかしすると雪と同じ色の中に消えてしまうこともある。
しかし、確かにそこに存在すると、優しい甘い香りを漂わせる。それに気付いた者を倖わせにする。
また、実を残して、花が散ったあとも世の人々の役に立っている。
井伊家の紋は橘であり、冬にこそ実を成します。花殿ならば、たとえ我が家に冬が来ても梅の花と橘の実を付けてくれるのではないか?と信じています」と。
父からこの話を聞きどんなことがあったとしても井伊家の梅になると決意した。
万千代様元服と共に嫁ぐことが決まった私は井伊家の家格を上げるために無理な願いを父に言う。
殿(徳川家康)の養女として万千代様に輿入れすること。これで井伊家は徳川家の外戚となり万千代様の地位も上がると考えた。殿も賛同され私は徳川家の娘となった。
天正12年1月11日、元服し直政と名乗られた万千代様に嫁いだが、直政様は以前のように「花殿」とは呼んで下さらず「花様」と呼ぶようになった。義父が殿であるが故に夫婦に身分が出来てしまったのだ。

菊を見る直継の目は、私がまだ花殿と呼ばれていた時に直政様が向けてくれていた目に似ていた。
私が間違えたのはここだったのかもしれない。愛しい人の後ろ盾になればと思い自らに付けた肩書によって、図らずも夫婦に身分が生まれ私は桜や梅で例えられない者になってしまった。
直政様が望んだモノは後ろ盾ではなく安寧な家庭だったのではないだろうか? 表では徳川家の為に命を削っていた直政様に奥にまで徳川を持ち込んだ私に安心できなくなっていた。
それでも娘二人が誕生した。

小田原の陣の直前、関東を監視するために同じ場所に長く留まった直政様が私以外の女性に安寧を求めたことも仕方なかったと今ならばわかる。
表でも奥でも消えない徳川色から逃げた直政様が印具の娘阿古に安らぎを求めた。
しかし、徳川家臣の責もあるために私にも会いに来ていた。こうして私と阿古は同じ時期に妊娠し、直政様は阿古を他所に移した。

天正18年2月11日、阿古が男児を産んだ。少し遅れて私も男児を産む。
本当ならば阿古の子弁之介が長男で、万千代と名付けられた私の子は次男でありながら嫡男との位置付けになる。
直政様は弁之介の存在をあえて無視して万千代を長男とた。
阿古も弁之介も許し難い存在だった。徳川の娘になった私への当て付けとも感じた。その上、形式上では我が子を長男としながらも実質的に井伊直政様の長男を産んだのが阿古だったのも納得できない。
弁之介が誕生した記録は野史に残り消せないだろうから、万千代の誕生の日を井伊家の記録から消させてしまった。弁之介の周りには常に人を送り成長を報告させたが、直政様が好むような子であり、ますます苛立った。

対して万千代は、不思議な静かさを持っている。赤子の頃から手のかからない若様であると乳母らが言っていたが、それは童子になっても変わらず、時々何かを悟ったような顔を見せた。
唯一、弟(弁之介)の存在を知った時だけ、「会いたい」「城に迎えたい」と何度も主張した。我が子が阿古の子に興味を持つことでますます意固地になっていると、直政様は「母が居ない子なら迎えても良いであろう!」と宣言し、ひと月も経たない頃に阿古が刺客に殺されたとの報告が来た。
私は、我儘の末に弁之介の母を殺させた女となってしまう。徳川の名を背に井伊家で好き放題していると噂された。
弁之介を井伊家に迎えた夜、直政様は私の部屋を訪ねて深々と頭を下げた。そして「花殿」と呼び掛けて詫びた。頭を上げて私を見つめるのは私がまだ松平康親の娘でしかなかった頃の目だった。このときから私は井伊家の為の悪女で居続ける決心が付いた。
万千代は相変わらず静けさを持ち、反対に弁之介は鞘を抜いたままの刀のように殺気立っていた。万千代は弁之介を避けはしないがその殺気をなだめようともしなかった。

関ケ原の前辺りから直政様は病がちになり、佐和山転封後直ぐにこの世を去った。
私は、直政様が梅に例えて下さった思い出を胸に髪を下ろして「唐梅院」を号した。

木俣守勝の働きで佐和山から彦根山に城を移しその指揮を直継と名乗って元服した万千代が担った。井伊家の通り名「直」を継いで行く者であると示した。同い年であることから弁之介も同時に元服し直孝と名乗る。

直継の正室は鳥居忠政の娘であり、関ケ原の前に伏見城で壮絶な討死を遂げた鳥居元忠の孫となる。三河武士の娘で今や大御所様となられた家康様に近い存在であり、私と似た立場になる。
翻って、今、私の側にいる菊は家臣の娘であり阿古と似た境遇なのだ。
そして私は菊を好ましく思っている。阿古もこのように直政様の心を和ませてくれていたのだろう。だからこそ直孝殿が産まれたのだと理解した。

直継は、このことをいつ理解したのであろうか?幼い頃から知っていたかのような振る舞いがあるが、確信したのは菊と想いが通じた頃なのだろう。
彦根城築城後から、直継は家臣を篩にかけていた。彦根藩を割りそうな家臣のみを味方に誘い鈴木重好にまとめさせた。
自ら彦根の要所を守れない者であると宣言し直孝殿への藩主交代を容易にした。重好は責任を負い彦根藩を離れ大御所様の元に行くこととなり、彦根藩は守勝の後を継いだ木俣守安を筆頭に新しい体制を作るのだろう。


東へ進む一行は関ケ原を越えて大垣に着いた。
もう彦根に戻ることはない。
「どこで変わってしまったのだろう?」再び自らに問う。
答えは知っている、私が徳川の娘になり「花様」と夫に呼ばれた時からだ。
「母上」
輿の御簾を直勝自ら上げていた、その脇には菊もいる。
手を差し出した菊を直勝があの目で見つめている。
変わってなどいない、寧ろ元通りになっただけなのだ、私が直政様に嫁した頃の井伊家の石高に近く、井伊家を継ぐのではなく、荒波の中で自らのやり方で勝つことを宣言し直勝と改名した我が子が若い頃の直政様の覚悟に重なる。
これから向かう安中も碓氷峠を警護する交通の要所であり、彦根と何も変わらない。
この子は、真っ直ぐよりも難しい回り道を自ら選び戦おうとしている。今こそ直政様が望んだ井伊家の橘と梅になろうと誓った。

古楽
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