眠れぬ街

 長崎に近づくにつれ鼻をくすぐっていた異国的な香の匂いは、とうとうしっかりと二人の鼻腔を刺激していた。二人はほぼ三日かけて長崎に到着したのだった。
 すっかり夜になっていたが長崎の街はこうこうと明るく眠る気配がない。
「すごいな……」
 治部が思わず言うと、刑部も「ああ」と返した。
 旅の疲れに、ちかちかする景色、濃厚な芳気。まるで酔ったときのように頭がくらくらした。
「紀ノ介、早いところ休める所を探そう。この街の様子なら、すぐ宿は見つけられるだろう」
「そうだな。それがいい」
 刑部はただでさえ目が悪いのにそれが今は夜。街だけが発光しているのですぐ隣にいる治部の顔も街の明かりを受けて白く輝くばかりで、もはや表情も読みとれないほどだった。
 早く身を落ちつけたい。二人がそう思っていた矢先である。
 がんがらがしゃん
と街の喧騒の中でもひときわ大きな音が響いた。それは明らかに街で面倒事が引き起こされる前に発生する音だった。
「紀ノ介!」
「ああ!」
 治部にも正直、疲れた、別に無理して自分たちが首を突っ込まなくてもいいだろ、という気持ちがなかったわけでもない。でも、もし自分たちが駆け付けなかったことで後になって後悔するような結果となってしまったら……そこまで考えるとあとは身体が動いてしまう。
 刑部には治部が引き受ける問題は出来得る限り協力してやりたいと思う気持ちがある。いや、どんなに面倒なことでも治部と解決するならそれを疎ましく思う気持ちが全く湧いてこないので自然、一緒に解決することになるといった方が正しいだろうか。
 とにかく二人は疲れのにじむ身体に鞭を入れ、音のした方へ走った。


 思っていたよりもすぐ近くでその騒ぎは起きていた。
 二階建ての、一階は入口が大きく開かれている宿屋。中に座敷があるのが治部にははっきり見えた。
 その座敷から下りてすぐ近くのところで二人の男が暴れている。まあ、よくある酔っぱらい同士の喧嘩だ。
 だが治部が見るに喧嘩を繰り広げているのは明らかに異国の……南蛮の者同士だった。そのほか十人ほどの南蛮の者は座敷部分に座ってその様子をやんややんやで見物している。喧嘩を止めるどころかむしろ煽っている有様だ。
「これ!よさないか!」
「あっ、佐吉」
 治部は刑部が止める間もなく宿屋の中へ駆け込み、取っ組み合っている二人の間に問答無用で割って入った。
 急に現れた、自分より一回りも二回りも小さい色白の男に一瞬のうち取っ組み合いを封じられて二人はあっけにとられた。盛り上がっていた座敷からの拍手もぴたりとやむ。
 初めは座敷の上で喧嘩が始まったようで、座敷の方を見ると食べかけた焼魚や汁物が床や壁に飛び散り凄惨だった。「がんがらがしゃん」の音もそのときの音だったのだろう。
 そして座敷の奥ではこの宿屋のおかみであろう女性が身体を小さく丸めて縮こまっていた。
「こんなところでこんなことをして一体何になるっていうんだ……!」
 治部は思わず言葉にしたが日本語が通じるはずがない。すると喧嘩を余興として見ていたうちの一人が――これも酔っぱらいなのだが――座敷の方から下りてきて治部に詰め寄り何か喚き散らし始めた。治部の前に立つとまた治部をゆうに見下ろせるほどの背丈だった。
 言っている意味はもちろん分からないが「良いところを邪魔しやがって」というような不満だろう。口汚く罵られているのだけは感じた。
 治部としてもかなり頭に来たが、ここで手を出せば同じ穴のむじなだと思い身ぶり手ぶりでなんとか「外へ出ろ」と説明しようとする。
 しかし文句を言いに来た南蛮の者の方を相手しているうち、今度は取っ組み合いをしていたうちの一人が急に治部めがけて殴りかかってきた。
 治部はそれを反射的に避けた。するとその大きく振りかぶった拳はさっきまでの喧嘩の相手の顔に見事的中してしまった。
「あっ……」
 流れ弾を受けてしまった南蛮の者の鼻からは、つうと赤いものが滴り落ちた。
 殴りかかった南蛮の者も予想外のところへ拳が入ったものだから体の平衡を崩し、酒の力も働いてよろめき倒れ込んだ――治部に文句を言いに来た南蛮の者の方へ。
 彼も急なことだったので支えきれるわけがなく、彼が下敷きになる形で二人はもつれながら勢いよく地面に倒れ込んだ。
 殴られた南蛮の者は片膝をつき、鼻を両手で押さえ怒りに肩を震わせながら治部の方を睨みつけている。そして二人分の体重で地面に激しく体を打ちつけた南蛮の者はともかく、初めに殴りかかった南蛮の者までも怒気の籠もった目で治部を睨みつけた。治部だけきょとんとした顔をしていた。
「……え、俺が悪いっていうのか?」
 事態に介入した結果、より一層事態が悪化している……治部は頭を抱えたくなった。そして今の状況に激しく既視感をおぼえていた。惣無事令についてだ。
 私的な争いを禁じた惣無事令だが、どれだけ豊臣が争いを起こすなと言っても実際には争いが起こってしまっていた。そのあと豊臣で出来たことといえば、争いを始めた者を武力で罰したり滅ぼしたりしたことだった。
(だが今の俺が喧嘩を止めるために手を出したなら、そこから巻き起こる喧嘩で結局店の者に迷惑がかかってしまうじゃないか……!)
 そのとき治部の背後で、きいんっと空気の斬れる音がした。
 振り向くと刑部が刀を抜いている。南蛮の者たちはそれを見て皆が一様に大きく目を見開いた。
 彼らの頭の中に武士に逆らってはいけないという知識はむしろ過剰なほどにあり、特に刀は恐怖の対象だった。抜かれた刀を見て彼らの酔いが醒めていくのが目に見えて分かった。
 刑部は腰を低くして、入口付近から無言でじりじりと南蛮の者たちに近づいていく。治部は(俺も初めからそうすれば良かったんだ)と、またもや頭を抱えたくなった。
 刑部の対応は功を奏し、南蛮の者の一人が耐えられないといった様子で刑部の脇をすり抜けて店外へ駆けだした。それに続いて次から次へ南蛮の者たちは店から出て行く。
 それはまるでつむじ風のようであっという間に店の中は静かになった。残ったのは治部と刑部、そしておかみだと思われる女性だけになった。
「もう大丈夫だ」
 刑部が刀をしまって言った。
「あ、ありがとうございました」
 女性はすぐに立ち上がろうとしたのだが治部はそれを制し、自ら彼女の傍へ駆け寄った。
「無理はするな。怪我は……」
 そのとき彼女の手が腹をかばっていることに気付いた。見た目にはまだ分からないけれどもしや。
「お腹に、子がいるのか」
「はい……よくお気づきに」
「それなら尚更怖かっただろう。よくあの中で子を守ったな」
 彼女の周りにも飛び散っている食器の破片を見て治部はしんみりと穏やかな声で言った。だが女性は首を横に振った。
「私、お腹の子に何かあったらと思うと何も出来なかったのが悔しいのです」
「そんな、そなたは十分頑張ったじゃないか」
「いえ、もし反撃されてもいいわが身だけなら包丁両手に何人でもさばく覚悟はあったのに」
 予想外の言葉に治部は一瞬ぽかんとしてしまったがすぐにふふっと笑いだした。
「じゃあ子のおかげで南蛮の者たちは命拾いしたんだな!」
 そのとき裏口の方から勢いよく男が駆けこんできた。
「お麻(あさ)!」
「あ、助七さんだわ」
 助七と呼ばれた男はすぐに座敷の奥にいる自分の妻を見つけた。このお麻さんは気丈な言葉にぴったりな小麦色の肌の、はつらつとした風情の女性なのだが、一方助七は背がひょろりと高い優男だった。
「ごめん、ごめんよ」
 座敷に散らばる様々なものにつまずきそうになりながらも、助七は麻の元へ辿り着き彼女をぎゅと抱きしめた。
「遅くなって本当にごめん」
「大丈夫。お武家様が助けて下さったの」
 麻の言葉で助七はがばっと彼女から体を離して治部と刑部にそれぞれ土下座した。
「妻を助けて頂き、ありがとうございました」
「それはいい。だがどうしてかれを一人にしておいたんだ」
 治部にも恐らく、何か事情があったのだろうとは察せられたのだがどうしても詰問口調になってしまう。
「は、はい、実は南蛮人が酒が足りないと言いだしまして、妻は身重でございますし手前が酒屋まで行っておりました」
「その間に南蛮の者たちが喧嘩を始めたんだな」
 ずっと座敷でのやりとりを遠巻きに眺めていた刑部だが、会話に参加したくなってきてそろそろと座敷の方へ歩きながら言った。だがそれはすぐ治部に制止された。
「あっ紀ノ介、そのままじっとしておいた方がいい。こちらは危ないから」
「おやおや?そうか」
 そう言われて刑部はその場で立ち止まる。
 麻も助七も不思議そうな顔をしたので治部は付け加えた。
「紀ノ介は目があまり良くなくてな、多分こちらに来たら食器の破片なんかを踏んづけてしまう」
 そう聞いて麻が刑部の方へ顔を向けると、刑部は麻の方を見てにこりと微笑んだように見えた。本当にこのお方は御眼が良くないのだろうか、と麻は少し不思議な気持ちになった。
 そして冷静になってみると二人のいでたちは奇妙に思われた。その目の悪いらしい武士はそのへんから来たというような軽装をしているのに、もう一人の武士は連雀商人顔負けの大きな荷物を背中にしょっていて遠いところからやって来たと思える見た目だった。
 また二人してこざっぱりした着物を着ているのだがそれがむしろ浮いて見えるような綺麗な容貌の持ち主なのもどこか、ちぐはぐな印象を受ける。
(きっと、ただのお武家さまではないのだわ)
 麻はそう察したが、だからと言って出来ることは限られていた。
「あの、こんな状態ですが、もし宿がお決まりでなかったらうちにお泊りになられませんか?二階はちゃんと準備あるもの、ね、助七さん」
 助七は慌てて勢いよくうなずいた。
「そ、そうです、是非お泊りになって下さい!」
 これは治部と刑部にはまたとない申し出だった。


 客室に案内してくれたのは助七で、案内されたのは広くはないものの清潔な部屋だった。
「わぁ、綺麗だ」
 治部が驚いたのは部屋の窓から見える長崎の景色だった。ぽつぽつと暗闇の中に淡い点を宿している。そして黒い海に浮かぶ南蛮の船もまた小さく輝いて見えた。
「こんな時間まで店を開けているのはやはり南蛮の者のためなのか」
 外の景色を見つめながら治部が助七に尋ねた。
「はい。夜、飲みに来る場所が欲しいと要望がございまして。でもこれは商機ですよ。今日はあんな目に遭ってしまいましたし、色々苦労することも多いですがそれでも生活のためにはこちらも工夫が大事ですから」
 あくまで前向きな助七に治部は心の中で(えらいぞ)とつぶやいた。
「では、失礼いたします。何かございましたらご遠慮なくお申し付け下さい」
「うむ。ありがとう」
 助七が出て行ったあと、二人は思わず顔を見合わせた。
「良かった」
「宿だ」
 今まで一種の緊張状態にあったから疲れのことなど忘れていたが、二人は名護屋から歩いてきてへとへとなのだった。
「布団……」
 ごろんと横になってものの数秒もしないうちに深い谷の底に落ちて行くような眠りに二人は誘われた。

江中佑翠
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江中佑翠

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