長崎に別れ、名護屋へ
その日の夕方にはなんとかひと段落つき、治部と刑部はようやく助七たちの宿へ戻った。
石田治部と大谷刑部が長崎に来ていることはすっかり噂になっていて、助七たちも自分たちの宿に泊まっている人の正体を察してはいた。
しかしこの助七と麻は二人が元々中央から来た武士だと聞かされていたからか特に驚くそぶりを見せず、昨日と変わらない態度で二人に接した。
同様に治部と刑部も態度を変えることなく二人に接した。ただ、助七たちは梶屋のことが気になるだろうと思って、簡単にだけ梶屋のことは説明した。
梶屋に事情を聴取したところによると、梶屋はどうやら見えないところで経営に困っていたらしい。
梶屋は町でも一、二を争う立派な宿屋としての自尊心を傷つけたくなく、町の人に相談することもできなかった。そこを南蛮の者につけこまれたのだそうだ。
「梶屋さんはこのことが明るみに出なかったとしても、はたしてそれで幸せになれると思っていたのでしょうか」
と、つぶやいた助七の言葉が治部には印象的だった。
一日ぶりとなる睡眠をとって、治部と刑部は翌朝には長崎から発とうとしていた。格好はもちろん目立たないようにここへ初めて来たときと同じものになっている。
「もう少しゆっくりして頂けると思っていましたよ」
「本当に行ってしまわれるのですか?」
出迎えに来てくれた助七と麻が口々に言う。
「いやいや十分ゆっくりしてしまった。助七どのとお麻どののおかげだ。ありがとう」
これは刑部のお世辞でもなんでもなく、助七と麻がうちに治部様と刑部様が泊まっていると触れ回らなかったからこその快適な睡眠だったと思っている。
「おぬしたちこそ本当に大変なところだったのに、世話になったな」
治部が麻に何げなくぽんと手渡したのは宿泊料だった。
「え! こんなもの、いただけません!」
「大丈夫だ。これは決して賄賂ではないから」
きりりとした顔で言う治部に「いや、そういう問題ではなくて!」と返す間もなく治部と刑部はそのままひらひらと行ってしまった。
「どうしよう」
明らかに普通より多く紐に通された貨幣を麻はそっとつまみ上げた。
「治部さまと刑部さまがうちに泊まって下さった証拠だ。家宝にするしかない」
助七は麻からそれを預かって家の一番大事なものをしまう箪笥(たんす)の中に仕舞いに行った。
治部と刑部が長崎に来たという話はあまりにも現実感がない上に、それ以上の情報がなかったため町民たちの中ではそのうち都市伝説と化してしまった。
それでも助七と麻は“証拠”を頼りに治部と刑部のことをずっと疑わず覚えていた。そして生まれてきた子にまずは教え、その子はまた自分の子に教え……そうして助七と麻の子孫たちには治部と刑部の勇姿が今も語り継がれている。
名護屋への帰路についた二人だったが刑部がふと、あることを思い出した。
「そういえばせっかく長崎へ来たのにかすてらを食べ損ねてしまったな」
それを聞いて治部は「ああ、そうか」と意味深な言葉を返した。
「何が『そう』なんだ」
「俺は食べた。南蛮船の中で」
けろっと言う治部に刑部は聞き捨てならない。
「なに? いつ? そんなこと聞いていないぞ」
「船長室の中でな、船長が出してくれたんで食べた」
刑部はやれやれとばかりに頭を抱えた。
「人が本気で心配して必死にやっていたときに佐吉はかすてらを、しかも敵の親方が出したのをのんきに食っていただなんて、俺はとんだ道化じゃないか」
「のんきとは失礼だな。仕方ないだろ。遠慮する空気じゃなかったんだから。結果的にかすてらは美味しかったけれども」
「ほらほら、味わう余裕がある!」
「だって、せっかくだったんだし……」
治部はわざとらしく眉を八の字にし、少し上目遣いで刑部を見つめる。今日の天気は日差しが眩しいほどの快晴で、刑部にも治部の表情の意図がちゃんと読み取れた。
「かわい子ぶっても駄目だ。そもそも佐吉にはいつも危機がなさすぎる」
頭はすごくいいはずなのに自分が人からどう思われているか、見られているか、そこのところがまるで分かっていない。世間は恐ろしいということにも理解が足りていない。
もしそこの理解が十分であれば食事の意味もすぐに察せただろうし、それなら船長が行動に移す前に退治できていただろう。
刑部からすると治部は危なっかしすぎるように感じる。
だが同時に、治部の自身に対する認識の甘さも、世間を信用できてしまう素直さも刑部は好きなのである。それにそこから生じる不都合は自分が解消してやればいいと思っているからこれはこれで考えものだった。
「……まあまあ、俺は良しとするにしても、まずは嶋殿が良くない顔をするだろうなあ」
刑部はにやりと笑うと、すたすたと歩く速度を上げていく。治部が「えっ?」と返したときには刑部はもう治部の数歩先を歩いていた。
「紀ノ介! 左近に言うのはなしだろ? 今回もつつがなく事件は無事解決できたって、それだけでいい!」
治部は刑部の後を急いで追って行く。名護屋へはあっという間にたどり着いた。
(終)