終わりと始まり
「一件落着だ!」
「ああ、良かった良かった」
治部と刑部はそろって、う~んと伸びをした。二人は人身売買に関わっていたあの南蛮船をどう罰するかが無事決まって殿下の御前から下ってきたところだ。
城から出ると黄昏時であり、西の方角から金紅色の光線が薄く伸びている。二人の横顔は半分、夕日の色に染められ、もう半分は影が出来た。
「今、少しくらい羽を伸ばしていいだろう。ゆっくり帰ろう」
「そうだな!」
名護屋へ到着した後も、治部と刑部は大忙しだった。
まずは長崎へ行っている間に溜まっていた書状を返す。また、様々な報告も待ち受けていたのでそれを逐一聞いていく。
さらに長崎で起こったことを詳しく殿下に報告して、例の南蛮船の処分について殿下の裁可を仰ぐ必要があった。
それもただ裁可を仰ぐだけとはいかない。二人からも様々な処分の方法を考え、提案した。
結果、あの南蛮船には今後一切、日本への来航を禁止し、今回の来日で得た利益や商品は全て没収することとした。
船長は今回の来日を最後にすると言っていたようだが、形式的には来航禁止を命じるのが無難だった。口だけで言っていて、また日本に来るつもりである可能性も潰すことも出来る。
また全ての利益と商品の没収は大変な痛手になると予想された。普通、南蛮船は貿易で得られる利益を当てにして日本へ来ているからだ。それが手ぶらで帰らなければいけないとなると、死んだ方がましと思われるほどの膨大な額の借金だけがただただ残ることになる。
唐入りが始まる以上、南蛮を刺激はしたくないが南蛮船にはしっかり罰を下したい。ぎりぎりのところを探ったつもりだ。
「ほんとはもっとゆっくり出来るとよかったんだけどな……」
名残惜しむように治部がまだ腕を前に伸ばしたり上に伸ばしたりしながらぼそりと言ったのを刑部はとらえた。
「“破壊事件”のことか」
羽を伸ばそうと宣言したあとなのに、二人の顔はもう、ぴりりと引き締まってしまう。
治部と刑部が長崎に行ったあと、名護屋城の敷地内で築地や石垣が派手に破壊されるという事件が起こっていた。これが単純に「破壊事件」と呼ばれている。
二人が帰って来てからも新たに一回発生し、今までに二回。未だに犯人は捕まっていない。
「俺は引っかかるんだ。なんせ、破壊には火薬が使われているだろ? それも警固役に気付かれないために爆発音がほとんどしないようになっている火薬だ。そんな特殊な火薬を使うんだったら、ほぼ間違いなく忍びの者の仕業なのに、築地を壊して回っているのはただの嫌がらせだという結論はおかしいと思わないか?」
ここまでほとんど一息に言った治部は、刑部が口を挟めないほどに自分が喋りすぎていると思った。
「ごめん、俺ばっかり」
謝りながら刑部の横顔を見たとき、治部はぎょっとした。刑部の顔は夕日の色をもってなお、青く見えたからだ。
「ちょっと、紀ノ介、大丈夫か?」
黄昏時には人の顔は判別しにくくなる。「誰そ彼」と聞かなければ誰だか分からないほどになるので、この日没前の時間を黄昏(たそがれ)と呼ぶようになった説があるほどだ。
そしてこの黄昏の時間だからこそ、刑部の表情を治部は見落としてしまった。刑部は目の焦点定かでなく、この季節には不自然な量の汗をかいていた。
「やや、大丈夫じゃないかも……」
刑部の歩調がとと、と乱れた。
「えっ?」
治部は慌てて刑部の体を支えた。空いている手で刑部の額を触ると、驚くほど熱かった。
「ひどい熱じゃないか!! いつから!?」
「さあ……」
答えを濁したところを見ると、今、急に症状が現れたのではないのだろう。ずっと無理をしていたのだ。それに今まで気付けなかった己の不甲斐なさで治部は頭の方から身体がぼうっと熱くなった。
「とりあえず、早く誰かに診てもらおう!」
それには刑部の屋敷へ行くのが一番確実だった。刑部の屋敷は治部の屋敷よりここから近く、医師が常駐しているからだ。
しかしこのまま治部が肩を組んで刑部を引きずって行くのは二人共に負担が大きく、何より時間がかかる。
(どうしようか)
治部は己がどうするべきか本当はもう分かっていた。だがその選択をするためにほんの少し、腹をくくる時間が必要だった。
「……馬を貸せ! それに乗っていく」
登城するときに乗り、帰りは部下に後ろで引かせていた馬を使うことを治部は決断した。
「えっ、ですが……」
部下が馬を出し渋るのも無理はない。なぜ帰りは馬に乗っていかなかったのか。
黄昏時には、馬も人も目が見えづらくなり乗馬には危険が伴うからだ。当然、治部が馬を貸せと言っても殿の安全を第一に考える部下はそれを嫌がるに決まっている。
だが治部は刑部の体を一旦別の部下に預けると、半ば強引に手綱を奪ってひょいと身軽に馬へ飛び乗ってしまった。こうなってしまってからでは、主君である治部に馬から降りろとはとてもじゃないが言えない。
「……どうかお気を付けくださいませ」
あきらめがちに、でも心を込めて部下は言った。部下も分かっている。親友を見捨てられない治部が好きだ。
「ああ。ちゃんと気をつける」
治部はもう同じ轍は踏むまいと、部下に向かって力強く頷いてみせると、次は刑部の方を向いた。
「紀ノ介、頼む。馬に乗れるか?」
「乗ろう」
馬に乗る動作は体が自然と覚えているものなのだ。刑部は一人では立っていられないほどふらふらしていたが、治部の助けもあり、あぶみに足をかけてしまうところまでいけば、すっと馬に乗ることが出来た。
「乗り心地は良くないと思うが、早く屋敷に着くことが出来る。それまでの辛抱だ」
「ありがとう」
刑部は身体をほぼ治部に預ける形でぐったりしていた。首に直接かかる息が熱くて、治部も汗をかきそうだった。
「行くぞ!」
治部は右手で手綱を握り、左手で胴に回された刑部の両手をがちりと握ると、馬を走らせた。夕闇はもう迫っている。
屋敷群があるところでは人通りも多いため馬を全力疾走させることは憚(はばか)られる。治部はまだ城に近い今、ここぞとばかりに馬を走らせた。
馬のひづめの音や風を切る音があり、話すには適さない状況だったがそうでなくとも、二人はだんまりしていた。
(紀ノ介は俺に無茶するなと言うくせに、一番無茶をしがちだ。しかも辛くなってもそれを隠そうとする。俺は紀ノ介のそういうところを知っているのに……)
手綱を握る治部の手はいつも以上に力が入っている。
刑部は治部がいらぬ責任を感じているだろうことに気づいていたが、その原因が自分なのにどの口が慰められよう。何も言葉をかけられなかった。
気まずさはなくとも、それぞれ悶々とした時間だ。二人にとって馬に乗っていた時間はとても長く感じられた。
しかし、実際にはごくわずかな時間だった。治部は素晴らしく上手に馬を操り、日が沈みきる前に刑部の屋敷に到着したのだ!
「殿ぉ!」
出迎えにきていた刑部の部下たちは、自分たちの主君の元気がないのに気付き、慌てて駆け寄ってきた。刑部は手際よく馬から降ろされる。
治部はほっとしたのと同時に、これ以上ここにいても親友のために出来ることはもう何もないと感じた。
「破壊事件のことは俺に任せて。紀ノ介は早く元気になって」
治部はせめて、刑部に安心してほしくて刑部の背中に声をかけた。刑部は苦しそうに小さく頷く。
治部は屋敷に入っていく刑部を最後まで見送らずに馬を引いて自分の館へ帰った。
治部にも刑部にも色んなことが一度に押し寄せてきた一日だった。