源内と蔦重
源内と「蔦重」重三郎は吉原にいて、花魁・菊之丞の元に集っていた。
菊之丞は長い睫毛を二、三度しばたたかせる。
「そう、蔦屋さまも店の中に〝敵〟がいるというお考えだったのね。お仲間のことなのに、大変な決断ね」
「ああ。悲しいことにそう考えざるを得ないんだよなァ。だって、絵を仕舞っておく棚に手をかけられるってのは店の中のモンしかいやしねェんだからさ……」
重三郎は本当に悲しそうな顔で煙管の煙を吐いた。
「でも、その棚には他の物語のための絵もあるわけやろ? それやのにわざわざ『桜下覚鏡』の挿絵だけが墨を塗られたっておかしいやないか。やけん、店の者は『桜下覚鏡』に個人的な恨みがあってやったんと思うんや」
重三郎自身が店の誰かに恨まれているわけではないからそんなに落ち込むな、と暗に言う源内のさりげない優しさに気付いて、重三郎は次は穏やかに煙を吐くことができた。
「そう、だなァ。しかも、墨を塗ってご丁寧に目に見えるように放置してんだから、根深いねェ。出版の話を台無しにしたいだけなら、絵を盗むだけでいい。その場で見つかる危険を負ってまでそこで墨塗ってんだもんなァ。宣戦布告よ」
「うーん……そんなに深い恨みをどうして『桜下覚鏡』が負わんとあかんのかワシには分からん」
それっきり源内も重三郎も黙ってしまったので、菊之丞が代わりに口を開いた。
「理由はとりあえず後からでもいいんじゃないかしら? 犯人が分かれば、嫌でも分かるのだから。店の、誰というところまでの心当たりはなくて?」
「……痛いとこつくねェ。それもあるんだな。ただ証拠はねェ」
重三郎は渋々話し出す。
「最近雇った男だ。みんなからロクって呼ばれてる。人当たりはいいし、気も利くしで悪いヤツじゃねェんだが、博打が趣味で、いっつも金に困ってる。勿論、俺にも無心してきてツケが溜まってる。そんなヤツが最近、俺に金を全部ポンと返しやがった。博打に勝ったからとかなんとか言ってたが、博打狂いの男なんて山程見てきた俺からすりゃぁ、ありゃ嘘だ。博打に勝った日には、そりゃぁ幸せそうな顔してんのよ。それなのにあいつ、全く浮かねェ顔してんのさ。俺ァ、それで嫌な予感がしたんだ。何か良くねェことに手ェ出したんじゃねェかって」
「じゃあ、そのロクという男が金のために誰かに雇われて、墨を塗ったって考えてんのやな?」
源内が確認のため口を挟むと重三郎はうなずく。
「まァ、そういうこと。自分の店のモン可愛がりみたいで悪ィが、ロクが自発的にやったとは考えにくいね」
重三郎はそう言いながら、少し申し訳なさそうな顔になる。
「いいや、その線は悪ないと思うけどな。何しろ、店の者をよう見てる蔦重がそう言うてるんや。ワシは信じるぞ」
「源内先生……ありがとう」
源内と重三郎の関係は重三郎が蔦屋として出発するときから始まっており、互いへの信頼は深かった。
「やけん、ロクについて調べたら何か分かるかもしれん。直接聞くのがてっとり早いかもしれんがまだ犯人と決まったわけともちゃう。それなら証拠を固めてからの方がええやろ」
「ああ。俺ンとこから人を出す。あいつが良くねェヤツとつるむきっかけがあるとすンならやっぱ賭場だろう」
「分かった。ワシや蔦重が直接動くと目立つけんな」
重三郎はなんでもいいから賭場に行って情報を集めて来いと、丁稚に金を握らせた。