桜の下で
今はもう、美しく咲き誇っていた桜がほとんど散って、緑のさわさわした葉桜が見られる季節になっていた。
しかし江戸で唯一、まだ桜の咲いている場所がある——吉原だ。
吉原の外れにある一本の桜の木は、咲き始めるのも散り始めるのも遅く、今が盛りと言わんばかりに狂おしく花を咲かせていた。
曙山たちが挿絵を頼まれたあの日、本来の目的である桜の写生は出来なかったので、曙山と武助は今日、その代わりとして、ここ吉原へやって来て写生をしている。
写生をする日がこれほど伸びてしまったのは、あの日の無理がたたって曙山が激しく体調を崩していたからだ。今日の写生は曙山にとって、久々のお出かけだった。
「今日は天気がいいし、暑すぎず寒すぎず、おまけに見に来る人も今のところいなくて貸し切りしたみたいです! のんびりできていいですね」
「ああ、そうだな。でも、そういうことは口に出さない方が良い気がするぞ?」
曙山には、はしゃいでいる武助が可愛い。くすくすと笑っている。
「え、何でですか?」
「何でって……ほら、やっぱり、見てみろ」
曙山が後ろを振り向いて指差すと、桜に向かって歩いてくる大勢の人だかりがある。
「うげっ! せっかくの貸し切り状態が〜! なんで人が来るって分かったんですか⁉」
「今が幸せだと思っても、自分の努力に拠らなくてなったことは口に出さない方がいい気がするのだ。夢のようなものなのだから」
「夢? ですか?」
武助は曙山がこれから何を言い出すのかとわくわくする。
「そう。これは夢だと分かったとしても、知らないふりをしていれば、神様はそのままずっと夢を見せてくれるのだ。さかしくも口に出してしまうと、神様は今ある幸せに気付けたのだからもういいだろうと、夢を取り上げてしまう」
「ん~……なるほど~……?」
つまり、桜の木を独占している状況が良いと口に出したせいで、その幸せに気付けたことで良しとされてしまい、桜の木が独占出来なくなったというわけだ。病弱な身体で生まれてきた曙山のやや悲観論者(ペシミスト)らしい思想である。
「それでも、やっぱり俺は、今が幸せだと口に出して、俺の隣にいる人に気持ちを共有できる方が嬉しいです!」
武助がにこぉと笑うと、曙山ははっとした顔になった。
「そうか、そこに幸せがあるから、もう良かったのか」
続いて曙山も、にこぉと破顔する。
「え、ちょ、どういう意味ですか? 今のは?」
「いい。こっちの話だ。ありがとうな」
武助にはまだ分からないことばかりだったが、曙山がとてもご機嫌なのでそれで良しとする。
武助はそのまま黙って桜の写生に戻ったが、背中の方から桜に向かって歩いてくる集団のわいわいした声が聞こえてくる。すると、武助は、ぽんと誰かに肩をたたかれた。
「ん? 何か? って、え⁉ 吉次郎⁉ 先生までいるし!」
吉次郎はいたずらっぽい顔でにやりとしている。武助に先生と呼ばれる源内は曙山の方へまず挨拶をしている。曙山も驚きを隠せない様子だ。
相変わらず余裕綽々のいい顔をしている吉次郎だけが、がっはっはと笑っているが、武助にはさっぱり様子が分からない。
「一体この人たちは誰なんだ?」
「聞いて驚くなよ、『桜下覚鏡』の作者の弟さんと、そのご一行だよ!」
「えぇ⁉」
ほぼ同じ内容を源内から聞かされたであろう曙山も武助とほぼ同時に似たような声を上げた。急に紹介を受けた〝ご一行〟の人々は、皆それぞれに照れながら笑う。その中の一番若く見える男が声を出した。
「初めまして。私は喜三と申します。ちょうどお伊勢参りを終えて、江戸まで戻ってきたところです。話は全て聞きました。兄のために、そして私のために、ありがとうございます」
『桜下覚鏡』の作者の弟は、武助が思っていたよりも随分と若かった。元服も間もないほどだ。しかし、兄の遺稿を伊勢講のていで、江戸へやって来て出版することを考える大胆さは、確かに若い者の特権かもしれず、妙に納得するところもある。
そして、その計画に、伊勢講のため同じく旅をする村人たちが協力しているところを見ると、兄弟そろって人徳者なのだろうと分かる。
「あぁ、初めまして……いえ、その……」
あまりに急なことに言葉が全く出ない武助だったが、曙山が口を開いた。
「もう本は手にとったのか?」
その言葉に喜三はぱあっと顔を輝かせた。
「はい! 蔦屋さんが一冊、私どもにも下さいました。また、多くの人が本を求めて、貸本屋へ来られるのも見ました。そして貸本屋の前にある茶屋では本を読んだ人たちが感想を言い合っていて……兄の生きた証を本当に残せたんだ! と実感出来ました」
そう話す喜三の目は笑いながらも、うっすら涙が浮かんでいる。
「それは良かった……」
自分が絵を描いたおかげで誰かを幸せに出来たことを目の当たりにして、曙山もとても嬉しく幸せな気持ちになった。
「素晴らしい挿絵も宝物です。書いた話に、唯一無二の挿絵が載せられ、あらゆる人に読んでもらえるようになるなんて兄は思ってもいなかったでしょう。挿絵は、かなり無理な日程で描かれたと聞きました。改めて本当にありがとうございます。今描かれているものも、不思議な本当に凄い絵で……すみません、兄と違って芸術に疎いせいで言葉が上手く出てこないのですが……」
今、曙山が描いている桜の木を覗き込んで見た喜三にふと、曙山は絵をもらってほしいと感じた。
「もう少ししたら出来上がる。ここで偶然出会えたのも何かの縁だ、良かったら持って帰るといい」
「え⁉ そんな、いいのですか? ただでさえ、とてもお世話になったばかりなのに」
恐縮する喜三に曙山は薄く微笑む。
「私の生きた証も、持っていてほしい」
「あっ……」
桜のはらはらと舞い散る中、穏やかに微笑んでいる曙山に、『桜下覚鏡』の主人公・重数の姿が重なり、喜三の心臓はばくばくした。そして分かってしまった。
このお殿様が『桜下覚鏡』の出版を手伝ってくれたのは、「兄の生きた証を残したい」という、ある意味切羽詰まった悲痛な思いに心から共感出来たからだと。
(この命、桜より儚い……)
喜三の頭の中に、ふと浮かんできた言葉だった。
『桜下覚鏡』にまつわる一連の騒動は、どこからともなく噂となってしまった。しかし関係者は皆、はっきりしたことを話さなかったために「お上がその面白さを独り占めするため出版を邪魔しようとした」と、間違った形で広まっていった。
そして、それは結果的に派手な『桜下覚鏡』の宣伝となり、流行に拍車をかけ、予約が半年待ちとなる貸本屋もあるほどになっていた。
挿絵が出来るのを邪魔しようとした黒幕である芹戸屋の若坊は、人が変わったようにぱったり大人しくなった。曙山の言葉がよっぽど堪えたのであろうか、あるいは、一大ブームとなった『桜下覚鏡』の現実を見て諦めがついたのか。
若坊の手先となっていた、蔦屋のロクは自分の罪を正直に認め、重三郎に全てを話した。
ロクは蔦屋を出て行こうとしたが、出て行ったところでどうせ碌なことにならないだろう、と重三郎はそれを引き留め、全てを許した。
そして『桜下覚鏡』がどれほど有名になろうとも、『桜下覚鏡』の個性豊かな挿絵を描いた絵師たちの正体はいよいよ謎のままだった。
(完)