襲撃

 夜はいよいよ深く、挿絵班の作業も大詰めを迎えていた。春と言えども、夜は冷える。だが、部屋の中は皆の気がぶつかり合って、むしろ暑いほどだった。
 武助も吉次郎も、自分の担当する最後の一枚の挿絵がもうすぐ完成するというところまで来ていた。そして、吉次郎に「こんな構図の挿絵は見たことがない」と言わしめた曙山の大作が今、完成した。
「ふう……」
 心血を注いだこの挿絵は曙山にとっても満足のゆく出来栄えとなった。しかし、ただでさえあまり強くない身体なので、体力の消耗は著しい。完成した高揚感だけでなんとか気を保っている。
(武助と、吉次郎は……あともう少しだな)
 自分の絵を描き終えて初めて、二人の様子を気にかけた曙山は、時間があっという間に過ぎているのを感じて不思議に思った。二人の周りには、それぞれ見事な挿絵が何枚も出来ている。
(私が我儘を言ったばかりにすまない)
 二人とも、絵を描き始めたときと違って、自分の挿絵を描くことに没頭して夢中になっており、曙山が挿絵を描き終えたことに未だ気付かない。
「私の絵、驚いてくれるだろうか」
 ふふ……と独りごちた曙山だが、気のせいだろうか、玄関の扉が開いたような音がした。
「おや、こんな夜中に……」
 考えられるのは源内が何かの用事でやって来ることだったが、こちらへ向かってくる足音がどう考えても源内だけのものではなく、複数人であることを示していた。
「誰だ⁉」
 瞬間、曙山たちのいる部屋の扉が乱暴に開け放たれた。大きな音がしたので、ここで武助と吉次郎も集中力が一瞬途切れ、扉の方を見た。
 そこには明らかに招かざる者たちが十人ほどいる。見た目に分かりやすい、無法者たちであった。その中の親玉とみえる中年の男が、後ろに控える若い男たちへ呼びかける。
「おぉ、おぉ、ここで間違いないようだな。てめェら、絵をぐちゃぐちゃにして、絵師もこれ以上絵を描けないように指でも折ってやれ!」
「応っ!」
「え、何⁉ この人たち誰⁉」
 武助は完全に混乱していた。無我夢中で絵を描いていたのに、気が付いたら怖い男たちがいて、自分たちと、絵に危害を加えようとしている。
「動くな!」
 そこへ雷が轟くような、曙山の声が響き渡った。とんでもない声圧に、侵入者たちも一瞬たじろぐ。曙山はその場からすっくと立ち上がった。
「殿? あ、危ないですよ……」
「いいから」
 曙山は武助と吉次郎を守るように、少し前へ出る。
「二人はそのまま、絵を続けろ。私が何とかする」
「殿サン、そんな……」
「こんなことくらいで私たちの絵への志を折らせるつもりか?」
 一瞬、振り向いて吉次郎の方を見据えた曙山の目は怒りに燃えていた。強がりでなく、心底でこの無法者たちの侵入を「こんなこと」だと思っており、まだ描くべき絵が残っているにも関わらず、それに振り回されようとしている吉次郎に怒っているのだ。
(なんて、おっかねえ殿様なんだ……)
 曙山の芸術への狂気を垣間見て、吉次郎も目の前の無法者たちが相対的に恐ろしくないような心地がしてくる。
「分かったよ、殿サン。やろう、武助」
「言われなくても」
 曙山の目と言葉は吉次郎に向けられたものだったが、武助にも届いた。二人は侵入者たちがやってくる前の状態に戻ろうと、再び視線を紙に落とし、手に筆をとった。
「……お前たちは誰かに雇われてきているはずだな?」
 曙山は次に、親玉へ話しかけた。雷を彷彿させた声は一転、腹から声の出ていない、ひ弱な囁き声のようになっている。
 親玉はその振れ幅に驚いたが、よくよく相手を観察すると、目の前にただ一人立ちはだかっているのは薄い体躯をもち、青白い顔をした若い男である。むしろ、先程の声が火事場の馬鹿力のようなもので、今のこの状態が正しいのだと、先程は一瞬呆気に取られてしまった自分を恥じた。
「あ、ああ。当然だ。俺たち自身は、ちっぽけひょろひょろお絵描き野郎になんて興味ねえよ。運が悪かったな!」
 少しでも威厳を取り返そうと親玉はなるべく尊大に見せる。
「そうか。では、雇い主はどうして私たちの邪魔をしたいのか知っているか?」
「そんなこと知ってどうなる?」
「〝運が悪く〟邪魔される身にもなれ。せめて理由くらい知りたいと思うのは、それほどおかしいことか?」
「いいや、そんなことはないが……」
 別に話す義理はないだろう、と親玉は思ったが、同時になぜだか話してもいいかという気分になった。
「俺たちも詳しくは聞いてねえが、新しく出る小説の出版を邪魔したいから、それに必要な挿絵を描くお前たちの邪魔をしてほしいということだ」
「小説の出版を邪魔したいのはなぜ? 競合相手なのか?」
「いや、自分が書こうとした内容で、先に出版されるのが嫌なんだとさ」
「依頼主は作家なのか?」
「ううん、そんなはずはないが、でも、本人はそのつもりのようだ」
 依頼主の個人情報に近い部分まで、ついつい話してしまうのはどうしてなのか、親玉自身もよく分からなかった。
 だが、これは曙山の作戦のうちだった。少しでも時間を稼ぐために、話を長く続けたい。
 話を長く続けるためには、まず、自分たちが無害で、少々話をして時間を潰したとしても、すぐに倒せるので大丈夫だと思わせること。そして、質問を沢山すること。
 人は自分が答えられる質問なら、その質問の答えを言いたいと思う欲が少なからずある。まして、どうせ話したところで倒してしまえば同じだという気の緩みも作ってある。
 曙山はそうして冷静に、計算高くやっていた。
 ——しかし、依頼主が少なくとも作家のつもりであるというところを知り、曙山の中の芸術家としての魂が、積み立てた計算なぞ全く眼中に入れずに言葉を放っていた。
「……それならば、依頼主にこう伝えよ。芸術を愛する者(作家)と名乗るならば、するべきことは他者の足を引っ張ることではない。己を磨くことだと! とっとと去ね!」
 今まで、猫を被っていた曙山の、生来の気の荒さが剥き出しとなり、肌がびりびりするような気迫があった。
「っ、はあ? なにを~⁉ 大人しく話を聞いてやりゃ、とっとと去ね? なめやがって!」
 曙山がいよいよと思い、刀に手をかけたとき、親玉は初めて曙山が刀を二本、帯刀していることと、その刀の立派さから、やんごとなき身分の武士であると気付いた。
 今まで、なぜそのようなことにすら気付かなかったのだろうか……親玉は今までにない経験で、狸に化かされたとか狐につままれたとか、そういう類の感覚を味わった。
 だが、これも曙山の計算のうちで、なるべく自分を弱く見せようと親玉の視線を誘導し、刀に気付かれないようにしていただけだ。
 これは結果的に、曙山が考えていた以上の効果をもたらしていた。
 このならず者たちが受けた指令は、あくまで絵の邪魔をすることであり、絵師を殺すような——刃物で攻撃するような襲撃の仕方は考えていなかった。
 それが、曙山は武士で、刀を持っているのが分かれば話が変わってくる。相手が刀を持っているのに、どうして丸腰で対応しようか。
 親玉と曙山が同時に刀を抜き、同時に斬りかかった。きんっ!と刃のぶつかる音が響く。曙山はしっかりと、攻撃を受け切った。
「こいつ⁉」
「私はちっぽけひょろひょろお絵描き野郎、なんだろう?」
 そう言ってにっこり笑う曙山の顔は、美しく、腹立たしく、親玉の頭にかっと血がのぼった。
「コケにしやがって! お前らも行け! やれ!」
「来い」
 そう言って、曙山は自然と部屋の扉をすうっと閉め、部屋の外へ出た。これで部屋に入りかけていた侵入者たちも同時に、部屋の外へ誘導される。狭い廊下に侵入者たちを集めて、数の利を打ち消す曙山の作戦の一つだ。
 初太刀を受けとめて驚かせた曙山だが、実際のところ、曙山自身どれほどやれるのか分からなかった。何しろ、実戦なんて初めてであるし、元来身体が弱いせいでいつも鍛えているというわけではない。
 しかも、もう既に曙山は体調が悪くなるときにいつもかく、じっとりした汗を全身に感じていた。絵に集中しきった後で、そもそもがもう限界に近い身体なのだ。
(しかし、やるしかない。私がここで倒されれば、絵(たましい)が散らされてしまう)
 覚悟を決めた曙山は強かった。
 初めに目の前にいた、若いならず者とは斬り合いにすらならなかった。
 曙山は肘を突き出した状態で、体ごと相手に勢いよく体当たりし、その肘は相手のみぞおちにしっかりと入った。相手は気を失い、さらにすぐ後ろに控えていた次のならず者の方へ将棋倒しのように被害が生まれた。
 後ろのならず者は体勢を崩され、なおかつ倒れてきた仲間のせいで曙山が見えない。
 その姿を目にとらえたときには、それはもう、曙山は鬼気迫った顔で、勢いづけて刀を振り上げていたところだった。
「うわあっ……!」
 曙山の刀を受けとめたならず者の刀は吹っ飛び、その直後に曙山は峰打ちで足を折った。
「てめェら、もうちょっとちゃんとしろよ!」
 倒された仲間の心配どころか、罵る言葉を口にする、次に待ち構えていたこの男は身体がとても大きい。
(これとまともに斬り合ってはこちらがもたないな)
 曙山はこの敵に対しては逃げに徹することに決めた。
「ちょこまかと! うざったい!」
 曙山はまるで牛若丸が橋の上でやっていたように、ひらひらと逃げる。
「どうした? 当たらないなぁ?」
「こんやろう……!」
 かっとなった男は、勢いづけて刀を大きく振った。が、その刀は廊下の壁に深く引かかり、男は刀を動かせない。
「あっ」
 ほんの数秒のことだったが、相手の虚をつくのには十分な時間だった。
 曙山は瞬間、防御から攻撃に転じ、やはり峰打ちで、首の辺りを強打した。それで相手はふらふらと倒れた。
「はぁ、はぁ……」
 曙山は肩で息をして、人形のように精巧な顔からは、ぽたぽたと、汗が流れ落ちていた。全力で攻撃して、もう力が残っていない。だが、敵は待ってはくれない。
 息が整わないうちに、すぐ次のならず者が待ち受けている。
「はっ」
 曙山が相手の初めの一太刀を避けると、その刀は勢いよく部屋と廊下を隔てる扉の障子を突き破った。
「ひいっ!」
「集中しろ! 武助!」
「おっかねぇだ~」
 武助が半泣きになっているのを見ても、しかし、吉次郎は笑うことは出来なかった。
(なぁにが、『集中しろ』だ……そんなこと人に言ってる時点で俺だって、集中できてねえ。それに比べて、殿サンは……)
 廊下の扉の向こうでは、どんな戦いが繰り広げられているのだろうか。
(絵が好きな殿様って言っても、やっぱり武士は武士なんだなぁ……)
 吉次郎は尊敬の気持ちが湧いてくるのと同時に、横目で武助を見る。一応、武助は絵に戻ってはいるが震えていた。そういえば武助も、武士であるが。
(前言撤回だ。武士だとか武士じゃないからとかじゃねぇ。殿サンだからか)
 吉次郎は何とか集中しようと、もう一度絵と向き合った。
 吉次郎が描いているのは最後に挿入される絵だった。主人公、重数の親友である則道が敵の白河を討ち取った場面である。
 吉次郎は不意に、曙山が則道のことをこう、評していたのを思い出した。
『私は好きだな、現実に敵わなかった友のかたきを討って、自身も最期は潔く散る。まさに、桜のようだ』
 吉次郎の中を、ぞわぞわしたものが駆け抜けた。もしかしなくとも、曙山はそのつもりなのではないか。
「殿サン……!」
 はっとした吉次郎が反射的に立ち上がろうとしたそのとき、扉が勢いよく開いた。
「うわぁ!」
驚いて再び座り込んだ吉次郎が見たのは、ならず者が一人。
「や、やめろ……」
 次に入ってこようとしたならず者は、曙山がなんとか防いでいたが、体力の限界を迎えようとしていた。肺に空気が入ってこない。足が動かない。
(絵に手を出すな、やめてくれ……!)
 曙山には自分の背中の方がどうなっているのか全く分からなかった。しかし、このとき部屋に侵入してしまったならず者の振り下ろした刀を受けとめたのは、なんと武助だった。
「何ィ⁉」
「武助……!」
 いざ、本物の刀を目の前にして、吉次郎は全く身体が動かなかった。しかし武助は絵から目を離さないまま、鉄の文鎮で相手の刀を受けとめていたのだ。
「ちょうど俺は描き終わった。吉次郎、後のことは俺に任せろ」
「いや、任せろって言ったって……」
「集中して、な」
 嫌味ではない、真剣な響きの言葉に吉次郎は口をつぐんで黙って頷くしかなかった。
 武助は心の中で叫ぶ。
(俺は、親父にはちっともかなわなくて、槍使いとしての才能は皆無だし、家の誇りを継ぐことも出来なかったし……でも……俺だって武士の端くれなんだ! 守りたいものを守れずに何が武士だ!)
 武助は力いっぱい、手元の墨を敵の顔にぶちまけ、思いきり体当たりをして敵を突き飛ばした。
「うげ!」
 敵の突き飛ばされた先は、曙山の足元である。曙山は刀を敵の首の方へ突き付けた。
「あまり私を怒らせるな? 私は癇癪もちで知られていてな。気分次第で貴様の命なぞ保証できなくなるぞ」
 墨をかけられて視界はあまり良くないものの、ぞくりとするほど恐ろしく、美しい顔で笑っている曙山の顔が見えて、敵はもうすっかり戦う意欲を失った。
「今すぐに帰ります! ですのでどうかご容赦を!」
「気の変わらないうちに行け」
「は、はいぃ……!」
 廊下へ出て、伸びている仲間を叩き起こし、敵は自ら去って行く。
 そのとき部屋の中から、ひときわ大きな声で「できた!」と吉次郎が叫んだ。
「はぁっ……良かった……」
 一気に気が緩み、先ほどまでの気迫が嘘のように、曙山はその場にへたへたと座り込んだ。
「殿! 本当に、無茶されて!」
「なんの。武助、吉次郎、よく頑張ったな」
「殿サァン……」
 武助も吉次郎も曙山の元へ駆け寄り、全員の無事と絵の完成を喜ぶ。
「全く、私が来ていなかったらどうなっていたことか」
 廊下から出てきた大きな影に、武助と吉次郎は共に驚いた。
「平沢様⁉」
「兄貴!」
 平沢は江戸留守居をしている久保田藩の藩士で、剣術の達人、また戯作者でも狂歌師でもあり、芸術への造詣が深い。
 実は、曙山が部屋の中へ敵の侵入を許してしまった直後が、ちょうど平沢の駆けつけたときだった。
「何となく胸騒ぎがして来てみたら、まさかこんなことに……参上が遅くなり、誠に申し訳ありません」
「いやいや、十分すぎるほどだ。廊下にいたのは、結局ほとんどお前が倒してくれたじゃないか」
 へへぇ、と気の抜けた顔で笑う曙山に、平沢はほっとするやら、もしものことがあったならと考えればぞっとするやら、感情が忙しい。
 そのとき、また玄関の方で扉が勢いよく開く音がした。
「大丈夫か⁉」
「あ、父っつぁんの声! おーい! こっちは大丈夫だ!」
 吉次郎は部屋の外から出て、自ら源内を迎えに行く。玄関にはさらに、蔦屋重三郎とその丁稚もいる。
「無事でよかった。ここから出て行く良からぬ影の姿が見えて、本当に生きた心地がせんかった。手遅れやったんとちゃうかと思って」
「殿サンがすげえ強くて! 武助も頑張ったし、兄貴も駆けつけてくれたんだ! だから大丈夫だった」
「こんな危険に巻き込んでしまって、本当に申し訳ねェ」
 重三郎が頭を下げると、吉次郎は「顔を上げてくれよ!」と重三郎の肩を叩く。
「いや、まあ、俺様こそ何もできなかったわけだし? 偉そうなことは言えないけど、結局何とかなったからさ! それに絵がちょうど全部完成したところだ!」
「おぉ!」
「早く見てくれよ!」
 慌ただしく三人を引き連れて、吉次郎が部屋へ戻ると既に、絵の鑑賞会が始まっていた。
「なあ、見て! 殿の描いた絵! 俺、感動で震えが止まらないよ」
 曙山の絵は、構図を決める段階から独特な雰囲気を放っていたが、完成した絵はいよいよ唯一無二の素晴らしいものとなっていた。
 真っ先に食いついたのは重三郎だ。
「こんなの、見たことねェ。なんだ、絵なのに奥行きがある⁉」
 多くの本を出版してきた重三郎も蘭画のような挿絵は初めてのようだ。
「殿様は、桜の木がお好きなのですね」
 丁稚がこそりと言った言葉に、曙山は微笑んで頷いた。
「分かってくれるか?」
「はい。このように桜の木を表現出来る方なら……なんて瑞々しくて、神秘的で、美しい桜の木なんでしょう」
 曙山は自分のこだわりが絵師の仲間以外にも伝わって嬉しい。いくら自分がこだわって描いても、それを受け取れる人がいなければ、そのこだわりはこの世に存在しないも同然なのだ。
「でも、武助と吉次郎がそれぞれ、私の描く分を引き受けてくれて、私はこの一枚に集中出来た。この絵は武助と吉次郎のおかげなんだ」
「いえ、そんなの、とんでも、ないですよ……」
「ちょ、武助、泣いてる⁉」
「大丈夫か?」
 曙山も焦って武助の肩を優しく撫でる。
「だってぇ、こんなの、ズルいですよ」
 武助は初めて桜の舞い散る中で曙山を見たときのことを思い出していた。そのときの桜の美しさは、自分の思い出の中でどんどん美化されていたが、その美しい桜がまさしく、絵の中に表現されていた。
 さらに、桜の木の下に佇む主人公、重数の霊はほんのり淡い光を放って、穏やかな笑みをたたえ、その描写の美しさもまた、出会った当時の曙山を思い出させた。
「この絵は、武助と初めて出会ったときのことを思い出しながら描いたよ」
「光栄ですぅ……!」
 あのときのことを覚えていたのは自分だけじゃなかった、まして、曙山の中でこのように美しい絵の下敷きとなるような思い出だったと分かり、武助はさらに感極まった。
 だが、曙山と武助が唯一違うのは、武助が重数に曙山を思い浮かべたのに対し、曙山はあの出会いのとき、一心不乱に絵を描いていた武助を思い浮かべて描いたことだけだ。
「全く、武助は殿サン一筋だなぁ」
 吉次郎が呆れたように言うと、武助は吉次郎を涙目ながらきっと睨みつけた。
「当たり前だろ! こんなにお美しくて、お優しくて、絵が上手くて、民のことを深く考えていらっしゃる殿さまがどこにいるっていうんだ!」
「はいはい、わかったわかった。でも、それは俺も同感だよ、殿サン♡」
 実際、絵で食っている吉次郎からしても曙山の描いた絵は衝撃的で、吉次郎はしばらく言葉を失っていたほどだ。
「ふふ、そんな風に言ってくれてありがとう。照れるな。ほら、私の絵はもういいから、武助のも吉次郎のも見せてくれ」
「そりゃもちろんさ!」
 武助と吉次郎の絵もまた、この短時間で描いたとは思えない見事さで、大いに重三郎を喜ばせた。
「こりゃあ、刷るのが楽しみだぜ。本っ当にありがとう。今日描いてもらった絵は、俺が命を懸けて絶対に守り抜く。そして絶対に刷って、本にして、売ってみせる!」
「よっ、蔦屋! 日本一!」
 源内が明るく掛け声をかけて、その場は温かい笑いに包まれた。

江中佑翠
この作品の作者

江中佑翠

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