彼女のことは、俺もほとんど知らなかった。

 引き渡された際に受けた言によれば、この少女は敵国のスパイなのだそうだ。同盟国からの輸送船に紛れ込んでいたらしく、逮捕の後に数々の尋問を繰り返したが一切口を割ることがなかったという。
 酷い話だと、軍属の身ながら哀れに思う。
 俺がこの少女の身柄を引き受けたとき、少女の眼は恐怖に揺れていた。尋問と称して散々酷な目に遭ったのだろう。ぼろきれのような服の間からは痣だらけの肌が覗いていたし、歩くときは片足を引き摺っていた。

 年端もいかぬ少女が顔を歪めながら必死で付いてくる姿は、戦時下と言えど胸の軋む想いだった。
 しかし立場上スパイの疑いがある者を手厚く扱うわけにもいかず、俺は少女を艦内の監房に閉じ込め、せめてもの情けにと、まともな食事を与えさせることしかできなかった。
 だがそれも、海戦の只中に在っては些末事だ。偵察艇の送ってきた敵艦発見の報せを受けてから後は、彼女の存在自体頭から完全に消え去っていた。

「皮肉なものだな……」もう半分ほど顔を出した朝日を見ながら、俺は呟いた。
 ライラック轟沈の際、この少女は監房に閉じ込められたままだったはずだ。常識的に考えればそのまま水に呑まれてしまうものだろう。だが現実には退艦した部下たちの生死は知れず、艦に残されていたこの少女は命を繋いでいる。
 いや、寧ろ鋼鉄の檻の中に居たからこそ、あの激しい砲火の中を生き延び九死に一生を得たのかもしれないな。

 あどけない表情で眠る少女。皇国の軍人から尋問と称した酷い仕打ちを受けたにも拘らず、同じ皇国海軍の男である俺のすぐ傍で眠る彼女は、あまりに無防備だった。

 それだけじゃない。
 この十日間、彼女は意外なほど俺に懐いていたのだ。
 それこそ、彼女が目を覚ましたその瞬間から。

 ‐‐‐

 俺がこの浜で彼女を見つけたとき、彼女もまた砂の上に横たわっていた。あまりに青白い顔だったから死んでいるのではと思ったが、幸いなことに弱いながらも脈はあり、口元からは微かに呼吸の音も聞こえていた。身体には至る所に暴行の痕があったが、命に関わるような傷は見当たらなかった。
 衰弱した少女の寝顔を見た俺は何を思ったのか、ほとんど裸も同然の少女に自分の上着をかけ、彼女が目覚めたときの為に水と食料を求めて森に入った。

 自分でも、何故そんな行動をとったのかはわからない。
 部下と艦を失い、呆然自失となっていた俺は、何かに躍起になることでどうにか正気を保とうとしたのかもしれない。或いはほんの半月、それも監房内にいた不遇な少女に、他の乗組員と同じような感覚を抱いたのかもしれないな。

 とにかく、冷静になった頃にはもう浜に火を焚いていた。森で拾った枝に猪肉を刺し、炙るよう火にかけていた。水を溜めた貝殻をすぐ脇に並べていた。

 そして、少女は目を覚ましていた。

 俺は彼女に何度も質問を投げかけた。
 故国や目的、そして名前――。だが、彼女から答えが返ってくることはなかった。

 彼女は、口を利けなくなっていたのだ。
 こちらの言うことは理解できているようだが、彼女が口を開いても、声が出ることは一切なかった。俺は、彼女が体感した恐怖の重さを推察した。

 輸送船の船長の判断が間違いだとは思わない。戦時下に於いて、輸送船に紛れ込むような者を簡単に見逃すことが出来ないというのは理解している。
 なにせ戦争だ。遊びではない。皇国の存亡、民の生死が懸かっているのだ。
 少しでもスパイの疑いがあるような者は、確実に処分しなければならない。例えそれが、貧困故に必死で潜り込んだ一般人だという可能性があったのだとしてもだ。

 質問への回答が得られないと理解した俺は、問いかけるのを止めた。不思議と少女の眼に恐怖の色はなく、寧ろ俺に興味を抱いているようだった。

 俺が焼けた猪肉を差し出してやると、彼女は恐る恐るそれを受け取り、皮の端をちょこんと啄んだ。ゆっくり咀嚼し、やがて嚥下した彼女は、それから貪るように噛り付いた。
 余程腹が減っていたのだろう。もしすればライラックが最期の砲戦に入る前、食事の配膳を忘れられていたのかもしれない。だとすれば半日以上何も口にしていなかったのだろうから、艦の指揮を与っていた者として少し心苦しくなる。

 彼女はしばらく肉を食べ、果物を食べ、水を飲むと、ようやく落ち着いたように大きなため息を吐いた。その姿がどうにも可笑しく、俺は口にしていた果実の種を吹き出してしまった。
 すると彼女も釣られたのか、くすくすと息を漏らして笑った。月明かりに照らされた少女の笑みは年齢相応の可憐なもので、俺は自然と頬が緩むのを感じた。

 食事を終えた俺は、ふと海に入りたくなった。
 立ち上がり着ていた服を脱いで上裸になって、俺は海へ向かって駆け出した。
 打ち寄せる波に足を踏み入れ、月の下を浅瀬の方へ歩いていく。ズボンも靴もずぶ濡れになるが、海兵としてこの程度は日常茶飯事だ。腰辺りまで水位が来たところで一度潜水し、俺は水中から水面を見上げた。

 ユラユラと、月が水面に揺れる姿を眺める。
 穏やかで、静かで、幻想的で。二十年以上近くで過ごしてきた海が、俺を包んでいた。

 この海に幾百人もの同胞たちが呑まれた。この海の何処かに、俺の仲間が眠っている。
 そんな事実もまた、水が粛々と教えてくれている気がした。

 長い潜水を終えた俺は、海底を蹴って水上に顔を出した。
 深く深呼吸をして、身体の隅々にまで酸素を行き渡らせる。そうしてから浜の方を見た俺の目は、オロオロと打ち寄せる波に身を引く少女の姿を捉えた。
 まるで水を怖れるかのように、引いた波を追っては、寄せる波から逃れる。前進しては後退し、後退しては前進しをくり返していた。
 多分、俺を追って海に近付いたのだろう。だが彼女はどうやら海が怖いようだ。

「ほら、こっちだ。安心しろ。そう怖いものじゃない」

 自然と、そんな言葉が口を衝いて出ていた。
 少しだけ浜の方に近付き、右手を少女の方に差し出す。

 彼女はしばらく不安げな表情で俺を見つめていたが、やがて意を決したように脚を踏み出した。少しずつ波打ち際に近付き、波が退いた瞬間を見計らって一気に三歩前へ出る。そして再び打ち寄せる波を、脚を震わせながらも後退することなく迎え入れた。
 少女の足下を、波が抜けていく。瞬間、彼女はあからさまに身体を震わせたが、それでも両脚は確りと水の中にあった。
 パッと表情を明るくする少女。
 俺はそんな彼女を見て、どういうわけか幼い頃見た進水式を思い出していた。

 船渠の防水壁が開き、狭い渠内から湾へ進み出る軍艦。
 人の建造した戦う船の雄姿に、童心ながら興奮したのを憶えている。

 ゆっくりと俺の側まで来て、胸元まで海水に浸かりながら、差し出した手を掴んだ少女。
 その瞬間の彼女の笑みは、これまでの人生で見たどんな女よりも美しく見えた。

 この日、俺は彼女を『リラ』と呼ぶことに決めた。

 ‐‐‐

 朝日が完全に姿を現した。白い光が視界を染め、俺は眩しさに顔を顰める。
 と、右腕に柔らかいものが取りつくのを感じた。ちらっと首を振ってみた後、俺は軽く息を吐いて苦笑いを浮かべた。

「目が覚めたか、リラ」

 寝惚け眼のリラは、それでも可憐な笑みを浮かべていた。
 俺は締まらない顔で欠伸を漏らすリラを見て、こう言った。

「なんだ。寝起きのくせに、もう腹が減ったのか?」
「……っ!」

 途端にリラの顔は真っ赤に染まり、睨むような眼差しを向けてきた。

「なに? そんなに食い意地は張ってないって? 俺と同じ量食べるくせに、よく言う」
「…………」
「馬鹿言え。俺だってまだ二十八だ。それほど年寄りってわけじゃないぞ」
「……?」
「ああ、年の割にとはよく言われるな。海軍学校首席卒業の英傑、なんて持て囃されたものだが、今じゃあこの通り、負け犬だ」
「……!」
「そうか? ありがとな。だが、俺は多くの優秀な水兵たちと、それから皇王陛下より任された艦を失ったのだ。そのくせ自分は生き残り、こうして健全な身体でいる。誰の目にも明らかな負け犬だよ」

 リラは俺の言葉が気に喰わなかったのか、頬を膨らませて抗議の視線を送ってきた。彼女が俺にどんな幻想を抱いているのかは知らないが、悪い気分ではない。

 この十日間で、俺はリラの表情から彼女の言いたいことが解るようになっていた。
 それは俺たちの過ごした十日間が極めて密度の濃い時間だった結果であり、互いに互いを求め合った結果だとも言える。

 なにせ、この島には何もないのだ。
 食料を集め、薪を集め、寝床を整え、水を汲む――。
 この狭い島の中、軍人として一線にいた俺にかかれば苦労にすらならない。時間を持て余すのは当然の帰結だろう。

 誰もいない無人島に、暇を持て余した若い男女。どうなるかは明白だ。
 しかも、リラはどういうわけか俺から片時も離れようとしなかった。只でさえ一年の大半を女気のない軍艦の上で過ごしていた俺は、拒まれないことをいいことに、ついリラへ手を出してしまったのだ。
 初めて彼女を抱いた夜、俺たちはまるで獣のように互いを求めた。空が暁に燃えるまで、俺とリラは貪るようにお互いを求め続けたのだ。

 その夜以来、俺はリラの表情を見るだけで、彼女の感情が察せられるようになった。
 理屈はわからない。ただなんとなく、リラの感情が覗き見えるような、そんな気がした。

「…………?」

 ふと、リラが覗き見ているのに気が付いた。俺が黙ったままなのを疑問に思ったらしい。

「なんでもない。俺にはもう、今この瞬間しかないのだからな」

 そう言って、彼女の頭に手を置く。
 リラの髪は潮ですっかり癖が付いていたが、彼女自身は気持ちよさそうに身を寄せてきた。右半身にリラの柔らかさを感じながら、俺は水平線に目を向けた。
 どこまでも続く水平線は今日も穏やかで、艦影一つ見えることはない。



 それからどれだけの時間、海を眺めていただろうか。顔を出した朝日が昇り、天頂を超え、西に向かって傾き出した頃だっただろうか。
 穏やかな波の音だけが聞こえる中、俺はふと、腕を引かれるのを感じた。ゆっくりと首だけで振り返ってみる。
 そこには、少し前にふらふらと歩いていったはずのリラがいた。彼女はいつの間にか戻ってきて、興奮気味に俺の腕を引いて立ち上がらせようとしていた。

「なんだ? 便所なら一人でも行けるだろう?」
「……!」
「ああ、はいはい。わかったから、引っ張るな」

 面白いように顔を赤らめた彼女を見て悪戯心を満たし、それから立ち上がった。

 リラは俺の右腕を引いて、森の中へ足を踏み入れた。
 森といっても陽の光が差す明るい林のようなもので、別段危険があるわけでもない。一時間も歩けば島の反対側に出るような狭い森だ。未踏の場所など既にないと思っていた。

 だがリラが俺を導いたのは、俺がまだ見たことのない入り江だった。
 半月型の白い砂浜に、陽の光を反射して輝く海面。水は青緑に透き通り、波は穏やか且つ静かで、この島の中でも飛び抜けて美しい浜に思えた。
 にも拘らず、俺が目を奪われたのはその美しさではなかった。

「リラ、お前……」

 誇らしげに笑みを浮かべる彼女の向こう、砂浜のとある一カ所に、小さな舟が打ち上げられていたのだ。
 俺は唖然としながらもリラの頭を撫で、それから小舟に向かって駆け出した。

 近くで見ると、舟は思っていたよりもずっと確りした造りなのがわかった。修繕が必要な個所もなく、今すぐ海に漕ぎ出していけるくらいに上等な代物だ。多分、どこかの軍艦に積まれていた避難船が流されてきたのだろう。

「…………?」

 リラが窺うような眼差しで見てくる。見つけたはいいものの、近くでは確認していなかったのかもしれない。俺は彼女を安心させるためにも、振り向いて頷いてみせた。

「上等だ。よく見つけてくれたな」
「……!」

 リラは嬉しそうに顔を輝かせ、くるくると回った。純粋な笑顔が、彼女の心を何よりも如実に表しているようだ。
 自然と笑みが浮かんでくる。リラの笑顔は俺に安らぎをくれるようだった。近づいてみるとリラは俺に抱きついてきて、俺も彼女の華奢な身体を腕に抱いた。
 俺たちは互いの熱を感じながら、揃って砂の上に倒れ込んだ。

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