寂滅のうた
ルキウスは王宮の書庫へとやって来ていた。古ぼけた本の匂いには未だ慣れない事に溜息を吐きながら、ルキウスは書庫の中を歩きまわる。目ぼしい資料を書庫の隅に設置された小さなテーブルの上に置き、椅子に座って資料をめくる。
「……国の文献に魔女は……これか」
蝋燭の小さな灯りで文字をたぐりながら文字の列に目線を這わせていく。
見つけた文献は、約100年ほど前に書かれたと思しき本だった。カストゥール王国の西暦でほぼ100年前。国に起きた大きな戦いについて纏められている。
「……赤い竜?」
文献の資料はこうだった。
大昔から恐怖の対象として君臨していた赤い竜。その体は真紅の鱗に包まれ、炎を吐き、巨大な体躯で全てを蹂躙したのだという。いくつかの村が壊滅に追い込まれ、滅ぼされた。
「100年前、魔女と赤い竜が死闘を繰り広げた……それが、ニヴァシュの山」
文献では唐突に魔女と赤い竜が死闘を繰り広げたと記載されていた。原因は不明である。どこを読んでも記載されていない。ニヴァシュ山にて赤い竜は倒れ、魔女は多くの血を流しながらも生きながらえたという。その血は山全体を紅く染めて尚垂れ流し続けられた。だが、魔女は虫の息ながらも生き続けていたという。
「……山を染める程の、血……」
ルキウスは蝋燭の灯りが心もとないと気づき、灯りを増やすために懐にしまっておいたエーテルを取り出して光を灯した。光を灯した瞬間、ハッとなってエーテルを凝視する。血の様に赤い結晶は光を放つのみだ。ルキウスが下した命令を忠実に再現している。ルキウスはゆっくりとエーテルを掌で包み込んだ。
「……100年の歳月を掛けて血が結晶化した……ということなんだろうか。でもそうでもなければ、こんな石が出来上がる事も、こんな所業が出来る事も説明が付かない」
これは、魔女の一部と言う事か。
ルキウスは包み込んだエーテルを胸に抱いてみる。温かみも特には感じない。ただ光を放ち続けるのみだ。
「………………」
「ルキウス殿下?」
不意に、ルキウスは背後から声を掛けられた。燭台とトレーを持った侍女のニーナが不思議そうな表情でルキウスを見ている。
「なんだ……ニーナか。びっくりした」
「スコーンと紅茶をお持ちいたしました。ご休憩をされるかと思いまして」
「ありがとう。置いておいてくれ。ありがたく食べさせてもらうよ」
柔らかく笑うと、ニーナは微笑みテーブルの上にスコーンとティーカップ、ティーポットを置いた。ティーカップに紅茶を注ぐとルキウスが胸に抱いているエーテルを見る。
「それ……どうかなさったんですか?」
「え? あ、あぁ……温度とかあるのかと思って。ただの石だったよ」
「そうですか……お寒いのでしたら、何か羽織る物でもお持ちいたしましょうか?」
「紅茶があれば大丈夫だよ」
笑うルキウスに安心したのか微笑むニーナ。その笑みを眩しそうに見つめるルキウス。お互いに微笑み合っている事に気が付いたのか、ニーナが頬を真っ赤に染めて慌てたように目を逸らした。
「え? ニーナ?」
「き、気にしないでくださいまし……」
手に持っていた銀色のトレーで顔を隠すニーナに不思議そうな表情のルキウス。ルキウスが興味本位で見つめていると、ニーナは恐る恐ると言った様子で時たまトレーをずらしてルキウスの様子を伺ってくる。その様子にルキウスは吹き出してしまった。
「ふっ……ニーナは可愛いなぁ」
ははは、と笑うルキウス。ニーナはルキウスの言葉にまたもや顔を赤くし、本格的にトレーの影に隠れてしまう。いたずら心が湧いたルキウスは立ち上がるとニーナのトレーを取り上げる。
「おや可愛い」
「で、ででで殿下ぁっ!」
顔が真っ赤になり目尻に涙すら浮かんでいる。ニーナは両手で赤くなった顔を隠すも掌と頬の間に割りこむようにルキウスの手がニーナの頬に触れた。
「ふぇ、」
「ははは、ニーナの頬はもちもちしてて気持ちがいいな」
軽快に笑うルキウス。ニーナはルキウスの両手によって両頬を捉えられている為動けないが、自然とまっすぐルキウスを見る羽目になる。耳まで真っ赤になるのだがルキウスは気にしない。
「で、殿下……お戯れは、」
「君、顔が赤くなりすぎじゃないかい? 熱でもあるんじゃ……」
流石に顔が真っ赤になっているニーナ。ルキウスは心配した様子で頬を掴んだまま額を合わせた。頬は熱いが額はそうでもない。ルキウスはひとまず安心したように胸を撫で下ろすかのように息を吐き、そして現在の状況に気がつくのだ。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………で、殿下?」
「うわぁぁぁっ!」
顔が近過ぎた。まるで恋人同士のようにじゃれあっていたことにようやく気が付いたルキウスは慌てた様子でニーナから手を放した。次はルキウスの顔が真っ赤になる番だった。
「いや、あの……す、すまない! その……変なつもりでやったわけじゃなくて……いやあのなんていうか」
あたふたと弁解するルキウス。ニーナは呆気に取られたようにルキウスを眺めているも、その焦り具合にくすりと笑った。
「あの……すいませんでした」
「ふふ、殿下ったら今凄く可愛いですよ」
「な、! あ……あー……それは、報復か何かかい?」
「そんなつもりはありませんけど……あ、でも殿下も可愛いと言われると恥ずかしいんですか?」
くすくす笑うニーナ。居心地が悪そうにルキウスは顔を赤くしている。
「幼少期散々言われたからぜ、全然恥ずかしくないよ」
「ふふふ、そんな事言って……顔が赤いですよ殿下」
「報復のつもりかいニーナ……」
「はい」
至極嬉しそうに、ニーナは笑う。ルキウスは罰が悪そうに視線を逸らす事しか出来なかった。
最果ての森には、魔女が住んでいる。
その伝承を信じている者はこの国に一体どの程度存在しているのだろうか。詐欺師と呼ばれた自称魔女を討伐するため兵が集められ小さな隊が出来ていた。グリフレット率いるその小隊にはアルの姿もある。
王国騎士団の甲冑に身を包み、魔女が住むとされる最果ての森へと小隊はやって来ていた。グリフレットに続き、森の中へと足を踏み入れる小隊。
生き物の声がしない静かな森だった。だが、今森の中は殺気が満ち溢れている。小隊で集められた面々は意味も分からない恐怖と戦いながら森を進んでいく。木の陰から誰かが見ているような。そんな錯覚に陥るような森だった。
「グリフレット殿下。本当にここに魔女なんて住んでいるのですか?」
「分からん。だが調べてみない事には何も分からんからな。進むぞ」
グリフレットが引き連れた小隊は森の中を進んでいく。木漏れ日すら木の間から届いていない。そんな森の中、グリフレット達はある小屋の前に辿り着いた。
「これは……」
「この森に人は住んでいないはずだ……これが魔女の巣か?」
「あら、お客様ですか?」
涼やかな甘さをたたえた声に、グリフレット小隊が驚いた様に一斉に声のした方を見た。黒い髪を柔らかく三つ編みにした女性が柔らかな笑みをたたえながら小屋の裏手から姿を表した。
「何か御用でしょうか?」
微笑みながら女性がグリフレットに問いかける。グリフレットは胸を張ると要件を口にするため唇を開いた。
「魔女を自称する女だな?」
「……そのような事を言われましても。事実魔女なのでどうとも……」
「我が国の国王を惑わせる詐欺師め! 陛下の命により、お前の首を打ち首とする」
「あらあらまぁまぁ」
少し驚いたように口を開く女性。だが、それ以上驚くような事は無く。困りましたねぇと呑気な反応を返すだけだった。
「大人しく王宮まで来るか、それとも今この場で斬られたいか」
「ルキウス殿下は、この事をご存知なので?」
「ルキウスだと? 奴が知る訳無いだろう」
「あらそれは残念。だって、貴方では私を殺す事等出来ないでしょう? 可哀想に。この国で私を殺す事等ルキウス殿下しか居ないというのに連れてこないだなんて。陛下も浅はかになりましたね」
ふふふ、と笑う女性。グリフレットは剣を振り上げる。
「ふざけたことを抜かすな! 私があんな奴に劣る訳が無い! 断じて無いのだ!!」
叫びながら、グリフレットの剣が振り下ろされる。女性は冷ややかな目でその剣を眺めているだけだ。
「……全く、人間というものは」
女性は剣が完全に振り下ろされる直前、掌を握りしめた。
アグロヴァル卿は血の雨が降り注ぐ場所で呆然としていた。何が起こったのか。アグロヴァル卿本人にでさえ分からない。ただ、彼以外の騎士が全員内側から爆発して血と内臓をばら撒いたという事実だけは逃れようも無くそこに横たわっていた。
「……え?」
「御機嫌よう。この前会いましたね」
にこやかに微笑む魔女。その体も血の雨によって赤く染まってしまっている。そして、その手にはグリフレット殿下の生首が抱えられていた。
「え……あ?」
「この人は劣等感でも抱いていたのかしら。赤い竜の騎士に叶うはずなど無いのに可哀想に。あ、そうだ貴方」
童女に笑いながら、魔女はアグロヴァル卿の元へと歩いて行く。アグロヴァル卿の体は動かない。
「手を出してもらえますか?」
「う、ぁ……」
「出してもらえますか?」
恐怖で体が竦む。震える右手がゆっくりと差し出されると、魔女はその右手を掴んだ。ビクリと体が痙攣する。何をされるのか。圧倒的過ぎる力を見せつけられ、アグロヴァル卿の頭は真っ白に染まっていた。魔女はアグロヴァル卿の右手に何かを包ませるとその手を両手で包みアグロヴァル卿に笑いかける。いつの間にか、グリフレットの生首は魔女の足元に転がっていた。
「これ、ルキウス殿下にお渡し下さい。大事なものです。あぁ、そうだ」
アグロヴァル卿の両頬を手で包み込み、瞳を覗きこむ魔女。
「駆けっこをしませんか? ゴールはカストゥール王国の王宮です。私は王様に会いに行きます。この人の首を持っていった方がいいですか? 貴方は先に到着して私の来訪を王様に伝えて下さい。私が先に着いたら、貴方の命は私が貰いますね」
歌うように。囀るように。笑った。その深遠なる黒瞳にアグロヴァル卿は吸い込まれそうになる。魔女はその目を閉じ、アグロヴァル卿の唇に自らのそれを重ねるとまた笑った。
「さぁ、スタートですよ。始めましょう」
ふふふ、と笑った。魔女が両頬から手を放すと、アグロヴァル卿は弾かれたように元きた道を逆走し始める。その背中が見えなくなるまで見送り、魔女は足元の生首を拾い上げるとその背中を追うように歩きはじめた。
王宮に叫び声が響き渡った。泣き叫ぶようなアグロヴァル卿の声。玉座の間まで強行すると、アグロヴァル卿は玉座の間の赤いカーペットの上に倒れ伏した。
「ま、まに……まにあ、」
「どうした!? グリフレットはどうした!?」
近くに居たパーシヴァルがアグロヴァル卿に駆け寄り問い詰める。国を横断するかのような距離を走りきったアグロヴァル卿の体は疲労困憊であり会話等出来る状態ではない。
「まじょ……まじょが、魔女が……!」
「あらあら約束通り私より先にゴールしましたね。偉いですよ」
アグロヴァル卿の背後の空間から、生首が玉座の間へと放り投げられてきた。それがグリフレットだと分かるやいなや、玉座の間に戦慄が走る。
一つも息を切らす事無く。魔女がアグロヴァル卿の後から玉座の間へと入ってきた。衛兵が魔女の足を止める為に殺到するも、魔女が拳を握る度に人が内側から爆発していく。モルド王への障害が無くなり、魔女は笑いながらゆっくりと玉座へと歩いて行った。
「待て!」
パーシヴァルが魔女と王の間に割り込んだ。その手には剣が握られているが、その剣先は明らかに震えていた。
「止めろ。何が目的だ」
「私は世界の摂理を捻じ曲げようとする人間を粛清しに来ただけです。邪魔をしなければ貴方は生きている事が出来ますが……引く気は無いようですね」
魔女は剣先を掴み、パーシヴァルに迫る。パーシヴァルの瞳は見開かれていた。
「……綺麗な青色ですね。弟さんとそっくりです」
ニコリと笑うと、魔女はパーシヴァルの横面を強かに叩いた。本来女性から平手を食らえば大の大人は精神的に傷を負う事はあるだろうが、そのまま体を浮かせられ壁に叩きつけられる等誰も考えなかっただろう。壁に叩きつけられたパーシヴァルはずるずると床に沈んでいく。魔女はゆっくりと歩いて行き、玉座に座るモルド王の頭を鷲掴みにした。
「待ってくれ!」
玉座の間に叫び声が響いた。魔女はチラリ、と視線だけ玉座の間の入り口へと向けた。入り口で倒れ伏したアグロヴァル卿を抱き、ルキウスが信じられないといった瞳で魔女を見つめている。
「あら、御機嫌よう騎士様」
「魔女殿……どうして、どうしてこんな事を」
「簡単な事です。世界の摂理として、魔法を会得していいのは私だけ。私以外のモノが魔法を使う事はこの世界のルールに違反します。だから、なんでしたっけ? その私の血が凝固したもの……エーテルでしたか? それを破棄していただきたいと最初に陛下に申し上げたのですが……受け入れられず。しかも私を殺そうと。詐欺師呼ばわりまでされました。最初からこの手段で出る事も可能でしたのよ? 陛下。私は一度チャンスを差し上げました。それを無為にしたのは他でも無い貴方達。私は一応、人間的、平和的解決を望んだのですが……陛下はそれでは足りないようでしたので」
頭を鷲掴みにしている魔女の手に力が入ったのか、モルド王が苦痛の声を上げる。
「や、止めろ……」
「あら、これを望んだのは貴方でしょう? 貴方は一国の主として知っていたはずです。どのような形であれ魔法を会得すれば私に殺されてしまうと」
「き、貴様……」
「最初に書簡を送ったでしょう? どうしてその時に条件を呑まなかったのですか? それとも女一人どうという事も無いと言う事でしたでしょうか。残念でしたね。私は魔女ですよ。貴方達と一緒にして貰っては困ります」
ふふ、と魔女が笑った。
「では、さようなら陛下」
「待ってくれ!!」
またもや待ったが掛かる。魔女はまたかといった表情でルキウスに振り向いた。
「赤い竜の騎士よ……今の貴方ではまだ私を殺せません」
「何を言って……」
「赤い竜の騎士ですよ。貴方はようやく生まれた赤い竜の騎士」
「赤い竜……そうだ! 貴方は100年前、赤い竜と死闘を繰り広げたそうですね。ニヴァシュの山で。貴方はなぜ……赤い竜と死闘等……」
魔女の頬がぴくりと動いた。
「その話は……陛下がお亡くなりになった後でもじっくりできますね」
「な、ま、魔女殿! 貴方は……えと、何者なんだ!」
どうにか話題を逸らし、国王の命という興味を逸らさなければならない。それ以降も必死にルキウスが問いかけるも魔女はのらりくらりと躱すだけだ。その手はしっかりとモルド王の頭を掴んだまま。
「……え、と……」
「話は終わりですか?」
「ま、待ってくれ!」
「騎士様」
魔女はルキウスを見る。その瞳には、悲しそうな光が宿っている事に気が付き、ルキウスは声を失くした。
「貴方は、本当に臆病者ですね」
パチン、と。乾いた音を立てて魔女の指が鳴った。その瞬間、床に崩れていたパーシヴァルの体がみるみる内に干からびていく。ルキウスが目を見開いてしぼんでいく兄の姿を凝視する。
「パーシヴァル……兄さん?」
小さくその名を口にする。そして、玉座の間に華麗な赤い華が散った。パーシヴァルから目線を玉座へと戻すルキウス。
玉座に座っていたはずの陛下の首が、無かった。その代わり、玉座を中心として華のように赤い花弁が待っている。魔女は真っ赤に染まった自らの手を数瞬眺め、くるりと体の向きを変えて玉座の間の出口へと歩いて行く。
呆然とするルキウスの横を通り過ぎていく魔女。ルキウスは力が抜けたようにただ見ることしか出来なかった。
「にいさ……ちちうえ?」
「……殿下」
ルキウスが抱いていたアグロヴァル卿が口を開く。アグロヴァル卿の右手が上がる。ルキウスはその右手を握りしめた。
「アル……? アル!?」
「殿下……殿下は、本当に……お優しい……方だ」
弱々しい声でアグロヴァル卿……アルは唇を震わせる。ルキウスは瞳から涙をこぼしていた。
「泣かないで、下さい。自分は……貴方に会えて……本当に、」
ぴきぴきぴき、と音がする。アルの体が足元から石になっていた。ルキウスが首を横に振る。だが、その願いは聞き入れられなかった。
「……よかっ……た、」
アルの体が全身石に変わったのはそんな瞬間だった。ルキウスが少し力を入れると、アルの体は見事に粉々に砕け散り、原型すらわからなくなってしまった。
「あ……あぁ、あ……」
アルの亡骸を前に、ルキウスの体は震えていた。アルの体が砕けてできた砂の中から小さな袋が出てきた。ルキウスはそれを無我夢中で掴む。
「あ……うわ……あ、」
喉が張り裂けんばかりに、ルキウスは絶叫した。どす黒い何かで、ルキウスの心が染まっていく。
最早何も考えるなと、心も叫んでいた。
気がつけば、ルキウスは腰の剣を抜き放ち魔女の後を追っていた。
ゆっくりと。王宮に住む人間の恐怖を刺激するように魔女は歩いていた。異様に大きく響く魔女の靴音に、物陰に隠れる者達がびくびくと面白いように反応するのをことさら楽しんでいるように見えた。宮殿から正門へと続く巨大な階段をゆっくりと一段一段踏みしめるように魔女は降りていく。ふと、背後が騒がしいことに気が付きその歩みを止めた。
「お止めください殿下!!」
「貴方様まで失ってしまったら我が国は……!!」
「どけ」
どす黒い怒りが背後で燃えているのが分かった。ゆっくりと振り向けば、そこには怒りに身を焦がす臆病者の騎士が一人。
「あら騎士様。臆病は治ったのですか?」
「……!!」
言葉など不要とばかりに、騎士は石段を蹴り大上段から剣を振り下ろす。だが、見えない障壁で魔女にまで剣は届かない。
「言ったでしょう? 今の貴方では私を殺すこと等出来ない、と」
魔女が手を振るえば、呆気無く騎士の体が石段に叩きつけられる。騎士はすぐさま立ち上がり、怒りに満ちた瞳で魔女を睨みつけた。
「今の貴方では私を殺せない。ですが……私に貴方を殺す理由も無い」
魔女はそう呟いた。他の侍女や騎士達に羽交い絞めにされ、身動きが取れない騎士は魔女に噛み付こうとしている。魔女の呟きを聞いた者は居ない。魔女の指先が騎士に向いた。騎士の動きを止めていた者達の喉から引き攣るような悲鳴が上がり騎士を拘束する手が緩められる。
「お、お止め下さい!!」
一人の侍女が、皆を守るように両手を拡げて魔女の前に立ちふさがった。魔女は少し驚いた様な表情で侍女を見る。
「あら……貴女は?」
「私は……ただの侍女です。ですが……この国に唯一残った宝を持ち去ることはどうか……どうか……お考え直し下さい……!」
身を焦がすような恐怖がその身を支配しているだろう。だが、侍女は勇気を振り絞って魔女の前に立ちふさがった。震える声で。震える足で。震える指先で。震える体で、小さな体を懸命に大きく見せながら目の前の化け物から騎士を守る為、彼女は魔女の前に立ちふさがる。魔女の指先、いや視線一つで消滅することすら可能であること等百も承知のはずだ。それでも、国の宝とも言われた騎士を守るため、彼女はそこに存在していた。
チラリ、と魔女は侍女の肩越しに騎士を見る。騎士の瞳は先程の怒りとは違い、焦りに似た色をしていた。
「止めろ……止めてくれニーナ!!」
「ダメです! ルキウス殿下はそれ以上前に出てはいけません! ここは……ここは私がお守り致します!」
魔女は、小さく笑った。
「貴女は……勇気ある人ですね」
おもむろに魔女の手が伸びる。ビクリと震える侍女の頬に触れ、魔女は微笑んだ。侍女の背後で騎士が叫んでいるが魔女は気にした様子も無い。
「何……を?」
「私は貴女が気に入りました」
魔女の唇が侍女のそれと重ねられた。その瞬間、侍女の体から力が抜けたように石段に体が沈んでいく。
「何をした……ニーナに何をした!!?」
「貴方には勿体無い程の勇気をお持ちですわ。騎士様、彼女貰いますね」
ニッコリと笑った魔女。騎士が自らを束縛する者たちをなぎ払い侍女の元へと駆け寄る。が、その前に魔女が腕を振るい、魔女と侍女の姿が一瞬に消え去ってしまった。騎士は手を伸ばすもそこには何も無い。虚空しか残らない場所に、騎士は崩れ落ちる。
臆病者の騎士は泣き崩れるしか無かった。握りしめたのは親友が持っていた小さな袋。それ以外の自ら人間である事の証明と言える全てを、騎士は失っていた。