section2:Visitor---EOLH

『ボウ・ベルズ亭』
今回拠点に選ばれたこの店は、"ボウ教会の鐘の音"という意味を持つ。ボウ教会(正式にはセント・メアリー・ル・ボウ教会)があるチープ通りから少し離れてはいるが、「ボウ・ベルズの聞こえる範囲」に住む人々、いわゆる生粋ロンドンっ子たちの憩いの酒場だ。あまり柄の良くない客もたまにいるようなので、カウンターで安酒を立ち飲みする労働者階級者の客とはあまり顔を合さずに済むよう外付け階段からも拠点(二階及び三階)に上がれる構造になっている。

Oranges and lemons,
Say the bells of St. Clement's.
(オレンジとレモン、と
セント・クレメントの鐘が鳴るよ)

You owe me five farthings,
Say the bells of St. Martin's.
(お前にゃ5ファージングの貸しがある、と
セント・マーチンの鐘が鳴るよ)

When will you pay me?
Say the bells of Old Bailey.
(いつ返してくれんだよ、と
オールド・ベイリーの鐘が鳴るよ)

When I grow rich,
Say the bells of Shoreditch.
(お金持ちになったらね、と
ショアディッチの鐘が鳴るよ)

When will that be?
Say the bells of Stepney.
(それはいつなのさ、と
ステプニィの鐘が鳴るよ)

I'm sure I don't know,
Says the great bell at Bow.
(さあ知らねえよ、と
ボウのおっきな鐘が鳴るよ)

Here comes a candle to light you to bed,
Here comes a chopper to chop off your head.
(お前をベッドに案内するローソクが来たぞ
お前の首をチョン切りに首切り役人が来たぞ)

「よく考えたら、その歌は最後がおっかないよなぁ」
拠点へ向かう道すがら妻が口ずさむマザーグースの童謡(nursery rhyme)を聞いて、ケインが思わず言った。リーファスがこの歌を思い出したのは、「bell at Bow」が、セント・メアリー・ル・ボウ教会の鐘だからだ。
「あら一番最後はもっと凄いじゃない。『Chip chop chip chop The last man's dead』って皆で声揃えて一斉に叫ぶんだから」
ケインはローマのコロシアムさながらの「殺せ」コールが響く中で「斬られて飛んだ首」を想像して、思わず「わあ」と頭を抱えた。
「物騒過ぎる。いたいけな子供がこんな内容を歌うのは良くないよ」
「ただの遊びじゃない。あなただって子供の時は遊んでたでしょう?」
リーファスの言う通り。この歌は二人の子供が向かい合わせて手をつないでアーチを作り、その下を他の子供たちが潜っていく無邪気な遊びだ。(作者注釈※いわゆる「ロンドン橋落ちた」のような遊び)メロディも明るく、まさか最後に首を斬るなんて歌詞が出るとは想像出来ないような歌だった。
「俺はそんな野蛮な歌では遊ばなかった」
どちらかと言えば、内向的で屋内での遊びを好む子供だったケインである。もし幼少期の彼が同年代の少女たちがこんな恐ろしげな歌を声を揃えて口ずさんでいる事を知ったら、「女性への夢」は一切見なくなったかも知れない。

「この歌が生まれた当時はね、今のハイドパークの近くにあったタイバーン刑場で斬首刑が執行されていた時代なのよ。昔の人達には娯楽もあまりなかったから、処刑も娯楽の一環として見ていたの。観覧席が出来るくらいの大人気だったんだって」
ケインは「何故に俺の妻はこういう事にやたら詳しいのだろう」と思ったが、単に「そうなんだ」としか声には出さなかった。だが表情から夫の考えている事を察したのか、リーファスはこう付け加えた。
「たまにマーブルアーチの辺りでうろうろしているのよ。処刑された人が」
当然だが「18世紀に廃された処刑場周辺で、それ以前に死んだ死刑囚がうろついている」など、現実としては有り得ない。霊媒師の彼女は「幽霊がいるのを見た」と暗に言っているのである。
「俺、ハイドパーク付近で『霊魂君』(幽体感知器)を起動させるのは極力やめる事にするよ」
自分の発明品で首無しの幽体を迂闊にモニターしたくないケインは心の底からそう言った。

早めに拠点に到着したゲーリーは、自分に与えられた三階の一室に荷物を置いた。先程集合場所に指定されている一号室を覗いたが誰も来ている様子は無かった。先に世話役及び連絡要員のジェーン・コッカーに挨拶でもしようと彼は考え、世話役控室兼一同の食堂にもなっている二号室の扉をノックする。

「はぁい」とやや間延びしたジェーンの声が聞こえて数秒。ゲーリーの目の前にある扉が開いた瞬間、彼は思わず変に裏返った大声が出そうになった。叫ばなかったのは、一重にあまりの驚きで声が出ずひゅっと息が漏れただけに終わったせいだ。
「何故おまえがここに?」
息を整えて問いかけたゲーリーに相手は答えた。
「今日からこちらで世話になっております。どうぞよしなに」
紙に書かれたような挨拶の言葉を述べて、相手はゲーリーを部屋の中へと招き入れた。入るのに少しばかり躊躇したものの、奥にいる部屋の主がこちらを見てニコニコしているので、警戒の必要はなさそうだ。
「これは"ジャッカル"の趣向ですか?」
ゲーリーの言葉にジェーン・コッカーは答えた。
「ええ、今回は拠点がここですからね。リーファスさんやリリスちゃんが変な男に絡まれても困るから、強そうな人が用心棒にいるのは良いだろう、ですって。それで今回がこの人の初仕事なんですよ。力仕事も手伝って貰えるって言うから、もう大助かりよ!お掃除もお洗濯もお買い物もとっても楽になるわ」
満面の笑みでそう言ったジェーンに、ゲーリーはどう答えるべきか迷ったが「That's good to hear. (それは結構)」とだけ言った。

その時。廊下の向こうからパタパタと走る足音が近づいてきたかと思うと、ノックもなく扉が開いた。
「こんにちはー!ジェーンおばさん!」
まだ扉の前に立っていたゲーリーが「あ」という声を発したのと、戸口でドアノブを握ったままコメットが凍りついたのは全く同時だった。

次の瞬間、コメットはホルスターから父親の形見である45口径銃を引き抜き、真正面にいる人物に向けていた。
「あらあらコメットちゃんったら。駄目でしょう、銃口を人間に向けちゃ」
目にも留まらぬ早業で、コメットの脇に移動したジェーンが銃を構える両手を無理矢理天井の方へと向けた。
「おばさん、放して!!」
コメットは正面にいる相手……黒人の大男を睨んだまま言う。
「おばちゃんは離しませんよー。コメットちゃんが撃つのやめてくれるまではね?」
ニコニコしながらコメットの手を抑えこむ手際の良さ。ゲーリーは「ジェーン・コッカーは昔、名うてのエージェントだった」というゴーストハンター間のちょっとした伝説を思い出していた。コメットはジェーンから逃れようと足掻いているが、がっちりと抑えこまれているため成功しそうにない。
「だって、こいつアーサーを殺したんだよ!?って言うか、何でここにいるのさ!!」
「"ジャッカル"の采配だそうだ」
成り行きを傍観していたゲーリーが答える。コメットは驚いたのか、銃を握っていた手からわずかに力が抜けた。その瞬間を見逃さず、ジェーン・コッカーは彼の手から愛銃を取り上げてしまった。
「あー、僕の銃!!」
沈痛な表情で叫ぶコメットにジェーンは少し困ったような笑顔で繰り返す。
「だから駄目って言ってるでしょう」
「……わかった。撃たないから返して。あと『ちゃん』付けはやめて」
すっかり諦めたコメットの様子に、ジェーンは彼の手に銃を戻してやる。
「彼はベンスンさん。これから私の下で世話役の見習いをする事になっているの。だからコメットちゃ……さんも仲良くしてくれないと、おばちゃんが困るのよね」
「仲良くって……」
「無理だ」と続けたいのだが、ジェーンが「困る」という部分を強調したのでコメットは口ごもってしまった。壁際に置かれた椅子に座り、葉巻きを咥えたゲーリーもどこか諦めたような表情だ。彼はジェーンの説明に「I got it.」とだけ呟き、コメットに向けて苦笑いした。
当のベンスンはというと、何事もなかったように先程までジェーンが洗っていたらしい皿を黙々と拭いては棚に戻す作業に専念している。

「さあて。そろそろお買い物に行かなくちゃ、お夕飯に間に合わなくなるわ。ベンスンさん、コメットさん、手伝って下さらないかしら?」
皿を吹き終えたベンスンは布巾を置き「はい」と返事をしたが、コメットは「えー?」と答える。
調査員専門であるコメットが世話役の手伝いをするいわれは全くない。だが、ジェーンはコメットに満面の笑顔を向けている。
「調査が忙しくて駄目だというなら仕方ないけれど」
「い……そがしくはないよ?でも何で僕なのさ」
「コメットさんは優しいからね。お礼に好きな物作るから、ね?シェパーズパイなんかどう?」
『好きな物』と言われて、彼の気持ちが少しぐらついたのは、元々この部屋に来た理由が「小腹が空いたので何か食べさせて貰おう」という事だったせいだろう。コメットにも、ベンスンを一緒に行動させる事で距離を縮めようというジェーンの思惑は見えているのだが。
「ランカシャー・ホットポットも欲しい」
散々悩んだ後、コメットは呟くようにそう言った。
「はいはい、じゃあ腕によりをかけますからね」
ジェーンは満足そうな笑顔を浮かべながらエプロンを外し、買い物用の手かごを取った。

数分後。ジェーンの後からベンスン、続いてコメットが外付け階段を降りると、同じタイミングで拠点に着いたばかりのケインとリーファスに出食わした。当然彼らもこの状況に目を丸くする。
「一体何があったんだ?」
「どうしてこの人がここにいるの?」
矢継ぎ早に質問を浴びせかけたくなるのも無理はない。憮然としたままコメットが答える。
「"ジャッカル"がとち狂った」
「コメットちゃん駄目よ、ボスの事をそんな風に言っちゃ」
いつのまにか「ちゃん」付けが戻ってきているが、コメットはそれを指摘する気力も出ない。

ジェーンが二人に掻い摘んだ事情を説明している間に、手持ち無沙汰のコメットとベンスンの目が合った。
「別に許した訳じゃないんだからね」
コメットが少し口を尖らせて小声で言う。
「分かっています」
ベンスンは特に感慨のない表情のまま、小声で答えた。

薄暗くなる頃、リリスが『ボウ・ベルズ亭』に姿を現した。彼女は直接階上の部屋へは向かわずに、酒場の扉を潜った。金髪の見目の良い女性が一人で入ってきた事に数人の店の客が色めきだつが、本人は気にも留めずカウンター奥にいた女将に話しかけた。
「こんばんは」
「おや、リリスじゃないか。ちょいと久しぶりかねぇ。最近寒くなってきたけれど、傷はもう痛まないかい?」
世話好きらしい店の女将は嬉しそうに、それでいてやや心配そうに言う。
「ええ、お陰様で。もう大丈夫みたい」
リリスは以前、イーストエンド付近での仕事で大怪我を負った事がある。瀕死状態になった彼女を仲間が拠点であるこの建物に連れ戻り、霊媒師たちが心霊治療の処置を行った。深手のため数日間は全く動くことも出来ずここに留まった時に、彼女の世話を焼いてくれたのがこの女主人だ。以来リリスは近くに用事があると必ず挨拶に立ち寄っていた。
「それは良かった。そうそう、あの成りの良い旦那は元気にしてるかい?」
女将の言葉にリリスはわずかに目線を少し下げたが、すぐににっこり笑って答えた。
「アーサーは、遠い所に行ってしまったの。ロンドンにはもう戻れないと思うわ」
嘘では無いが、真実でも無い。その時にリリスの治療を行った霊媒師の一人、アーサー・ランドンは一ヶ月以上前に他界している。
「おや、それは残念。親切で優しい人だったよねぇ。でも、あの人はあんたの"いい人"じゃないのかい?」
リリスは笑顔のまま答えた。
「まさか。あの人は、私の"先生"なのよ」
女将は「ふうん」と少し首を傾げて言った。

拠点となる建物の持ち主は、心霊調査機関の実体は詳しく知らされてはいない。契約主と建物を利用するメンバーは「無名の団体」で、研究や調査目的で「定期的に集まる」とだけ説明されている。そのため、調査活動中は極力干渉を行わない事になっていた。この女将もその一人で、リリスたちが何かの団体の一員だという事しか知らない。リリスが大怪我で動けなかった割には早く回復していた事など明らかに不審な点はあったはずだが、この女性は契約内容を守って必要以上に口を挟むことはなかった。
「今回は二階(うえ)の用事かい?」
「ええ」
「それじゃ、"ちょっと一杯"というわけにもいかないか。怪我のないように頑張りなよ」
「有難う、それじゃあ」
リリスは屋内から二階へ上がる階段へと向かった。背後から「誰だい、今の女?」「なあ俺に回してくれよ」「どっかのイロか?」など少々品のない言葉が聞こえたが、女将は適当にあしらってくれているようだった。

階上でリリスは、買い物から帰ってきたジェーン、ベンスン、コメットの三人と鉢合わせた。一旦足を止めた彼女は少しぼんやりした眼差しだったが、一度瞬きをした後ににっこりと笑った。
「こんばんは、ジェーンさん、コメット。それからミスター?」
最後の言葉は黒人男性に向けられていた。
「ベンスンです」
「ミスター・ベンスン、こんばんは」
コメットが腑に落ちない表情でリリスを見る。彼の隣に立つジェーンもまた満面の笑顔でリリスに話しかける。
「こんばんは、リリスちゃん。ベンスンさんはね、今日から私のお仕事を手伝ってくれるのよ」
「あら、そうなんですか」
にこやかに会話している女性たちにコメットは軽い目眩を覚えた。
「じゃあ荷物を置いて来ますわ」
そう言って三階へと向かうリリスの後ろ姿にベンスンが呟いた。
「肝の座った姐(ねえ)さんだ」
ジェーンは二号室に入り「さあ始めるわよ!」と腕まくりをしている。
コメットは何も言えず手にしていた買い物の荷物を二号室の隅に置き、一号室へと避難する事に決めた。

やがて少し遅れて一号室にリリスが現れ、『いつもの顔ぶれ』のゴーストハンターたちが揃う事となった。

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