section9:Causality---PEORTH
Of glowing flame a cross was there,
Which threw a light around his form,
Whilst his lank and raven hair,
Floated wild upon the storm.
The warrior upwards turned his eyes,
Gazed upon the cross of fire,
There sat horror and surprise,
There sat God’s eternal ire.
A shivering through the Warrior flew,
Colder than the nightly blast,
Colder than the evening dew,
When the hour of twilight ’s past.
Thunder shakes th’ expansive sky,
Shakes the bosom of the heath,
'Mortal! Mortal! thou must die'─
The warrior sank convulsed in death
炎で輝く十字架が
戦士の姿を明るく照らし出す
伸び放題の真っ黒な髪が
嵐の中 激しく舞っていた
戦士は目を上げて
その炎の十字架をじっと見つめた
そこには恐怖と驚愕が坐していた
神の永遠なる怒りが坐していた
戦慄が戦士の身体を襲った
それは夜の突風よりも
黄昏過ぎる頃に降りる
露よりも冷たかった
雷が広い空を揺るがし
ヒースの茂る大地をも揺さぶった
「死を免れぬ者よ!お前は死なねばならぬ」
戦士は悶えながら死の淵へと沈んでいった
Percy Bysshe Shelley
"Ghasta, or, the Avenging Demon!!!"
(伊藤真紀訳 「復讐の悪魔ガースタ!!!」)
11th December,192x
翌朝。
リリスは「ベーコンなんて安易に書くんじゃなかった」と少々後悔しながら朝を迎えていた。
まさかコメットが律儀にジェーンに頼む事とは思わなかったが、何より今日の朝になってもまだ食欲が戻らないのが想定外だった。
「アーサーが生きていれば、ね……」
リリスは深く息をつき、そう呟いた。アーサー・ランドンは新米調査員の頃の彼女の良き相談相手だった。だがリリスはけして彼に依存していた覚えはない。それなのに今更「自分を助けたアーサーが死んだ」という事に納得が出来なくなっているのだ。そんな風に考えてしまう時点で、彼女の心傷は大きくなっているのかも知れない。
ともあれ「今日の朝食は抜くな」とコメットには、きっちり念を押されてしまっている。
シャワーを浴びて彼女は早めに二号室へ向かった。そしてキッチンにいるジェーンに「軽めで」と頼んで、食事を取る事にした。
当のコメットは上機嫌でジェーンの用意してくれた上質の身代金(代わりのベーコン)をお代わりしていた。
「実は自分が食べたかったから、ジェーンに頼んだのではないか?」と全員が思ったのは、ここだけの話だ。
この日のリリス以外のメンバーの行動予定は、昨夜のうちに決まっていたようだ。
ケインはハワード伯爵家の元の領地、及び一族の墓地に関しての位置情報を探す。リーファスは引き続きダイザード伯爵に関する伝承を集める。コメットはロジャース・ハワードの近年の行動範囲を当たる事になっていた。
朝食の後、リリスは昨夜持ち帰ったロジャースの日記のうちの二冊を、ゲーリーから手渡された。
「今日の君の調査予定は、俺と一緒にこの日記の解析な」
リリスは怪訝そうにゲーリーと日記帳を見比べた。
「これを調べるだけに、二人も人員を割く必要はないんじゃないかしら?」
「まあな。だが今日の君は出来れば大人しくした方が良い。そして一人で拠点に残しておくと、またどこぞへ逃亡でも企てかねないからな」
「それはどうも。お気遣いに感謝しますわ、ミスター・クローン」
「じゃあ仲良くやろうな」
仏頂面になっているリリスに、ゲーリーはニヤニヤしている。
お目付け役はお人好しで簡単に騙されそうなケイン、そして昨日懐柔されているリーファスは最初に外したのだろう。
そして本人同士はどうであれ、他から見ると喧嘩ばかりしている印象のコメットを周囲が外した。……もしくは退屈な解析作業をコメット本人が避けたのかも知れない。
尤もこの日記の解析役としては魔術知識のあるゲーリーと、雑誌記者で文の扱いに慣れたリリスが一番適任なので人選には間違いない。
今朝のリリスは相手が誰でも脱走するだけの気力は全く無いようにも見える。しかしフル回転で思考が回り始めた時の彼女の行動というのは、当の本人にすら全く予想が出来ないのだから「見張り必須」は全員一致の見解なのだろう。
一号室の窓際の椅子に座り、リリスは一番新しい日記を開いた。効率良くページを繰り始めた彼女の様子を見ながら、ゲーリーも別の日記帳を開いた。
「ええと。この辺り、かな?」
ケインは図書館でエセックス州の地図を開いていた。
今日で3日連続の図書館通い。受付の女性に顔を覚えられたようで、「こんにちは」と声を掛けられてしまった。今日は別の図書館を利用してもよかったのだが、普段使わない施設がロンドンの何処にあるかなど分かる訳もない。更に少々無精な彼は調べるのも億劫だったので、結局は同じ館に来ているのである。
それはさて置き。ハワード伯爵の元の領地はロンドンからは比較的近いエセックス州ブレントウッドにあると登記には書かれていた。シティ・オブ・ロンドン内から電車で移動しても1時間余りの距離だ。
不動産関連に顔の利く情報屋いわく、ハワード家は大昔はかなりの資産があり広い土地を所有していたらしい。しかし時代の流れと共に徐々に領地を切り売りし、最後に残った墓地や屋敷を手放したのは20年程前の話だという。
(気の毒だなぁ。先代さんもきっとご先祖の墓で眠りたかっただろうにさ)
大まかな位置をメモに取りながら、ケインは考える。
(ここからどうするかな?今から行ってみても良いんだけれど)
ケインは独断での行動には自信がなかった。
だが今回はリリスとゲーリーが拠点に残っているので、電話を使えばすぐに連絡が取れる事を思い出す。最近ロンドンのあちこちで見られるようになった公衆電話は使い慣れていないし小銭も持ち合わせていない。ケインは先の受付嬢に頼んで「電話を借りられないか」と聞いて見る事にした。
リリスがロジャース・ハワードの日記を読み始め15分程経過した頃。
「これ、ちょっと気になるわね」
「ん、どれどれ?」
ゲーリーが立ち上がり彼女の背中越しに日記の開いたページを覗きこんだ。普段のリリスであればここまで接近すると、相手が誰であってもさり気なく距離を取ろうとする。しかし今は余程文面が気になるのか特にお咎め無しだ。
彼女が開いているのは昨日コメットが見ていたラテン語のメモだった。
「ああ、コメットが昨日気にしていた部分か。『黄衣のキング』から写したラテン語だろう。試したい儀式複数に必要になる物を羅列しただけだ」
「Mementoか。ラテン語にはmemento mori(メメント・モリ。「死を記憶せよ」の意味)という言葉があったわよね。これを材料として解釈すると、どういう物になるかしら?」
「たぶん"遺品"だろうな」
「遺品?」
リリスは口元に手を当てて考え込む。
「それが、何だ?」
ゲーリーが尋ねると、頬杖をついて文面を見詰めながらリリスは答えた。
「元の魔術書を見なければ、はっきりと言えない事だけれど。……これがミッシングリングの一つかも知れない」
相変わらず曖昧な表現の彼女に、ゲーリーは苦笑する。
「悪いが、もう少し素人にも分かるように説明して貰えるかな?」
「あなたは素人ではないでしょう」
リリスは上目遣いにゲーリーを見て答える。
「とにかく、この調査は分からない点が多すぎるの」
リリスは一旦言葉を切って息を整えるように深く呼吸した。そして再び考えをまとめながら、極ゆっくりと言葉を紡いだ。
「招霊術のような儀式をハワード伯が行ったと仮定する。そこでの問題点は彼が赤の他人であるダイザードを呼び出した理由は何故なのか。……リーファスの調査結果では、ダイザードの妻は彼の死後にハワード家に嫁いでいる。じゃあ、もしその時にダイザード家から持ち込んでいた品物が彼女の遺品、もしくは新たな夫であるハワード家先祖の遺品として扱われているとしたら?」
「はあ?」
思わずゲーリーの声が裏返る。
「つまりロジャースは先祖を呼び出すつもりだったのに、使う遺品を間違えてダイザードを呼び出してしまった、とでも言いたいのか?」
苦笑して尋ねる彼に、リリスは真顔で答えた。
「そういう事になるわね。でも有り得る話でしょう?」
ゲーリーは少し考えて答えた。
「まあ唐突な解釈だが、辻褄だけは合うな」
「そうだとすると」
リリスはパラパラと日記の別ページを開いた。
「これがそうかも知れない」
ゲーリーは手渡された日記を読み、怪訝そうにリリスの顔を見る。
「このページには"地下墓地に入りたくない"、としか書いていないが?」
「ええ。つまり「地下墓地に入ろうと考えた」のよ。墓から遺品を盗りたい、でも入りたくない。全く、死者を呼び出すなんて大それた事を考える割には臆病な男よね」
リリスはそう言ったが、ゲーリーには一般人の反応として極普通に思えた。更にリリスは手を伸ばしてゲーリーが持ったままの日記をめくる。
「その後少し悩んで、数日間が記述が途切れる。そしてここ」
前記事から3日後の日付だ。
「明日に備え早めに休むことにする。夜は避けたい」
ゲーリーが読み上げると、リリスは黙って頷いた。
「結局墓荒らし決行という事か。だが、これだけでダイザードに話を繋げるには決め手に欠けるな。……ん?いや待てよ」
ゲーリーは先程まで自分が読んでいた日記帳を手に取ってページを繰った。
「ひょっとすると、これが関係あるかも知れんぞ」
彼が開いたのは数年前に書かれた日記帳だ。冒頭部分は、資金繰りに困っているという愚痴が延々と続く。
そして、子供の頃に祖父や兄と一緒に地下墓地に参った際に、比較的入り口近くに祀られた祭壇に一振りの剣が飾ってあった事が書かれており「売れば資金になるかも知れない」と結ばれていた。
「この頃の日記は、『何か祖先の遺品を売れば金が出来る』っていう内容が多いんだよ。別の日に書いた内容では『ハワード家の先祖は代々文人ばかりで売れそうな物は古書くらい、しかも価値の高い物は売り払った後だ』とあった」
リリスは愛想の良い笑顔を作って言った。
「文人家系の墓の剣。しかも何やら祀られた祭壇の品、ね。これ以上ないくらい奇怪千万、素敵滅法なシチュエーションですこと。リーファスの言っていたカトリック司祭がダイザードの怨霊を鎮めるために作った祭壇かしらね?」
「状況から考えると、そうだろうな」
そんな歴史を露知らず、不良伯爵がその剣を使って迂闊に招霊術を使ったという事なら話は分かる。
と。その時、一号室のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
ゲーリーが応じると扉を開けたのはベンスンだった。
「ケインさんからお電話が入っております」
ゲーリーは少し考えて答えた。
「ああ、すぐに行く。……リリス、脱走は禁止だぞ」
「分かってるわよ」
ゲーリーに続いてベンスンが部屋を出ようとした時にリリスが声を掛けた。
「ベンスンさん、ちょっとよろしい?」
笑顔で話しかける相手にベンスンは足を止めた。
「何でしょうか?」
「あなたの前の雇い主のロードマック卿のところに、インド人やアラブ人風の色の黒い男性が来ていたという覚えはないかしら?」
リリスはハワード伯が魔導書を入手した下りを思い出していた。蛇と女神の指輪は、以前ロードマックが身につけていた獅子顔の女神の指輪と同じ物ではないか?と気になっていたのである。
ベンスンは即答はせず、考えた後に答えた。
「少なくとも、私が護衛をしていた時期の博物館の来客にはおりませんでした」
リリスはベンスンの表情を見ながら頷いた。
「そう、どうも有難う」
黒人の大柄な男は扉を開け部屋を出て行く。入れ替わりにゲーリーが戻って来た。
「何だ、ベンスンと話してたのか?」
リリスは笑顔で答える。
「ええ、少しね」
ベンスンの様子から嘘は感じない。彼は「自分の把握していない所では不明だ」と暗に言ったのだろう。ロードマック卿の指輪の事は、ベンスンが何も言わなければ自分しか知らない。
だが本当にその色の黒い男なる人物がロードマック卿と何らかの関連を持っているとしても、現情報からではこれ以上追う事は不可能だ。
今は任務としてダイザードの霊を何とかしなければならない。リリスはそう考えて顔を上げ、ゲーリーに尋ねた。
「ケインの電話は一体何だったの?」
ゲーリーはニヤリと笑う。考え込んでいたリリスの様子に話を切り出すのを待っていたらしい。
「今から俺と君は二人でデートタイムだ。まあリバプールストリート駅でケインと合流するまでだがな」
ゲーリーを二秒程見詰める。そしてリリスはわずかに目を細めたまま、唇の端を上げた。
「ハワード伯の旧領地まで遠足ね?」
「察しが良いな。コメットとリーファスにも、追って現地に来るようにジェーンさんに伝言を頼んだ。次に奴が動く前に集中調査といこう」
リリスは「Certainly, Sir.」と答えて、立ち上がった。
その頃リーファスは馴染みの古書店を数軒回った後、同業の占い師の中でも古い事象に詳しい友人クローリス・スプリングフィールドを訪ねていた。彼女はいわゆる「とんでも歴史」と、学術無視の霊現象や怪奇現象に詳しく、どちらかと言えばオカルトの「雑学とゴシップ」に明るい人物である。
途中立ち寄った店で買った手土産の菓子を渡し、彼女の自宅でお茶を飲みながら雑談の合間にリーファスはダイザードの話を切り出した。
「あらリーファスもこの手の伝承に興味があるのね!なかなかこういうの好きな人っていないのよねぇ」
若干誤解を招いてしまったようだが、何とか聞きたい話題には辿り着けたらしい。少々引きつった笑顔でリーファスは言った。
「そうなのよ。図書館で調べてもあまり情報なんて出てこないし、さっき古本屋も回ったんだけれど大した物は見つからなかったのよ」
クローリスはうんうんと頷きながら、立ち上がる。
「分かるわぁ、普通に出回ってる歴史なんて勝者の都合で作られた話ばかりだから隠されてる事が色々あるもの。ああ、ちょっと待ってね」
彼女は奥の部屋から、やたら勿体ぶった装丁の分厚くて古い本を持ち出してきた。
「ええと、リーファスが言うのはリチャード・ダイザードよね。元は名家でもなかったけれど彼が戦争に貢献した事で、当時ちょっとした英雄だったのよね」
まるで自分が見てきたような口調でクローリスは話し始める。
「高潔で勇敢で忠誠心も高く、当然上からの信頼も厚くて……。国王陛下からも剣を下賜されたのよ。ねぇ、ほら、ここ見てよ!肖像画!彼、結構いい男だと思わない?」
なかなかにミーハーな友人に苦笑しながら、リーファスは本に掲載されている古い肖像画を見る。ダイザードがリーファスの好みかどうかはさて置き、彼女はそこで一つの疑問を口にした。
「そんな人が何故処刑される事になったの?」
「それがねぇ」
クローリスは少し身を乗り出して、まるで近所の主婦が噂話でもするかのように声を潜めて続けた。
「まず奥さんが浮気していたのよ、しかも旦那の親友と!相手も貴族だけど文人だから戦争には積極的に行かないし、色々あったみたいで当時お金が必要だったらしいの」
「それがハワード伯爵ね?」
「そう、そいつ!でね、ダイザード伯爵が死んでハワードと奥さんとが再婚したんだけど、彼らはダイザード家の遺産の一部を得たって話になってるの」
そこまで聞いてリーファスは嫌な予感めいた物を感じた。冷めかけた紅茶を一口飲んで、改めて尋ねる。
「クローリス、もしかしてハワード伯爵は奥さんとダイザード家の財産欲しさで?」
クローリスは手を打った。
「まさにそれよ!ダイザード伯爵はハワード伯爵に陥れられて処刑された形跡があるの。お気の毒に見せしめに王から賜った剣で首をはねられてね。ハワード伯爵は謀反人を通告した報労でダイザード家の財産を得たんでしょうね」
「酷いわね」
リーファスはあの恐ろしげな鎧騎士の鉄仮面の下に、如何程の無念・怒り・悲しみの表情が隠れていたのだろうかと想像する。
「それが彼が悪霊として現れた話に繋がるのね?」
「そうよ。悪霊になりたくもなるってもんよねぇ。信じていた奥さんと友人に裏切られて、そんな屈辱的な処刑まで受けたんだから」
「でも周囲やダイザードの霊を鎮めた司祭なんかも、ハワード伯爵の陰謀には全く気づかなかったのかしら?」
リーファスの言葉にクローリスは首を振る。
「ここに書かれている内容ではね、鎮魂に呼ばれた司祭様は慈悲深く、とても徳の高い方だったらしいの。そして鎮魂の儀式を終えた後、ハワード伯爵に『末代まで一族の者が奉仕の心を持ち続けなければ、いずれ呪いで家系は絶えるだろう』って戒めの言葉を与えたそうよ。ね?これは真相に気づいてると思わない?」
「奉仕の心か……」
リーファスは先代のハワード伯爵が近所の人から敬愛されていた事を思い出す。かの騎士の呪いを退けてハワード家が今の時代に残る事が出来たのは、そんな心根を持つ子孫の存在が聖人の祈りと共に血族を守っていたのかも知れない。
だが最後の一人となったロジャース・ハワードはそうでは無かった。そして皮肉な事に一族への呪いの根源を引き寄せ、自らの手で滅亡のピリオドを打ってしまったのだろう。
リーファスは紅茶を飲み終えた。
「有難う。ずっと気になっていた事が一気に解消したわ」
リリスのように上手く笑顔を作れているかは分からなかったが、努めて明るくクローリスに礼を言った。
「うふふ。私もこういうお話が出来る相手は少ないし楽しかったわ。この手の裏歴史に興味あるならこの本読んでみない?他にもそういう消された史実が色々書いてあるから」
彼女が手にした本のタイトルは『歴史の真実』だが、下に『隠された黒き現実と寓話』と銘打たれていた。リーファスは素直にそれを受け取った。
「有難う。お借りするわね」
リーファスは自分でもこの悲運な騎士の物語を読んでおこうと思った。それがゴーストハンターとして、彼の行動を止める立場にある自分の役目だと感じる。本の重さの分だけ、自分の知らない闇に葬られた悲劇や謎があるのだろう。そう思えば多少の荷物になることはあまり苦ではないと思えた。
一方、コメットはイーストエンドの一角に立っていた。
彼は周囲の建物の物陰から、とある家を観察している。調査によると、この家に住む20代半ばの女性がロジャース・ハワードと長らく懇意の仲だったらしい。この辺りは典型の労働者階級の居住区だ。付近の様子から見て、裕福ではないが"貧困にあえいでいる"という程でもなさそうだった。
と、その件の住居の扉が開いた。コメットは一旦頭を引っ込め、もう一度そっとそちらを伺う。
小さな男の子の姿が戸口から現れた。
「マーミー」
舌足らずの幼児は、彼にとって重いであろう扉を懸命に抑えて奥にいる母親を愛らしい声で呼んでいる。
「ちょっと待って頂戴。ほーら、今日も寒いんだから、ちゃんと着なくちゃ駄目でしょう?」
若い女性がそう言いながら表に出てきた。戸口で子供に上着を羽織らせる。そして手編みらしき毛糸の帽子とマフラーもつけてやると、小さな手を握った。子供は嬉しそうに彼女と手を繋いだまま拙い足取りで通りへと歩き始める。
コメットはそんな二人の様子を観察していたが、彼らが近所の教会の門に入った所で追跡を止めた。だんだんこの親子の大切な時間を邪魔したくないような気分になってきたからである。
しかし、どうにも気になったのでこの周辺の住人たちにさり気なくこの一家の事についての聞き込みをしてみた。
隣人たちの話では、あの女性は両親と一緒に住んでいるようだった。子供の父親は正式な結婚の前に死亡してしまったという噂になっている。以前は酒場で女給をしていた女性は、今は近くの工場に勤め先を変えたという。
父親不在で子供を育てる大変さは、コメットも自分の母を見てよく知っている。まして、まだ手間の多く掛かる小さな子供だ。様々な苦労が彼女にはのしかかっているだろう。中には心ない言葉で非難する輩もいるかも知れない。小さな少年が成長していく過程で、その事で心が傷つかない事を祈りたい気分である。
だが何故だろう。あの小さな子供と若い母親の間には不幸な空気は全く感じなかった。お互いに愛情で結ばれた親子の絆という暖かな印象だけがそこにはあった。
願わくば理解のある男性とでも出会い、あの若い母親自身も幸せな人生を送って欲しい。さほど自分とも年齢が変わらないであろう女性にコメットはそんな事を考えた。
(って、感傷にひたってる場合じゃないか。さて、これからどうしようかな?今の話だけでも良い感じなんだけれど、もう一声、お土産になりそうな情報ってのが欲しいかなぁ)
そんな事を考えながら、コメットはポケットに手を突っ込んでストリートをゆっくりと戻り始める。
通りの端辺りまで戻って来た所で、ようやく彼は次の行き先を決めた。
ロジャース・ハワードの交友関係についても、幾つかの情報は得ている。あの親子の様子を見た後では、あまり気乗りはしないのだがそちらも少し突っ込んで調べてみることにした。
コメットはいつもの歩調に戻って、次の目的地へと足早に向かって行った。