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「……ろし……くん」
細くかすれた声で、僕は現実に引き戻された。希の意識が戻ったらしい。彼女は地面に倒れたまま、少し顔を傾け、僕の顔をじっと見上げていた。
「ごめんね……自転車……壊しちゃって」
「え? い、いいよそんなの。気にしなくても」
いったいどんな顔をしてよいのか判らず、しどろもどろになってそう答えるしかなかった。
おもむろに上半身を起こし、そのまま立ち上がろうとする希を、僕は驚いて思わず背後から抱き留めた。
「動くなよ! そんなケガで――」
「あたしは大丈夫。この程度なら、すぐに塞がるから」
自らの胸に開いた大穴を片手で確かめながら、希が答えた。痛みを堪えるように顔をしかめているが、彼女の声はすでに落ち着きを取り戻しつつあった。
「この程度って……」
その言葉通り――傷口の内部では切れたケーブルが生き物のごとく互いに絡み合い、「応急処置」といわんばかりに穴を塞ぎつつあった。
信じ難い出来事の連続に、僕はついていくだけで精一杯だった。
「浩くんこそ、早く逃げて……あいつに捕まっちゃダメ。捕まったら……あたしと同じ身体にされちゃうよ」
(捕まる? ……同じ身体?)
奴が僕の身体に突き刺そうとした、あの注射器のような針。もしあれに刺されていたら、僕も彼女のような機械の身体に変えられていたというのか?
僕はぞっとした。そして一瞬とはいえ、希を侵略者のスパイと疑った自分が恥ずかしくなった。
彼女もまた「奴ら」の犠牲者なのだ。
それどころか、僕を助けるために命がけで戦ってくれたというのに。
「ば……馬鹿言うなよ。君を置いて逃げられるわけないだろ!」
希のか細い身体を抱きしめ、それだけ言うのが精一杯だった。
騒々しい音を立て、すぐ手前の地面に自転車の残骸が叩きつけられた。
闇の中で「奴」の巨体がのっそり身を起こす気配。どうやら、希に散々痛めつけられたダメージから立ち直ったようだ。
奴が怒ったり憎んだりするような感情を持ち合わせているのか定かでないが、低く唸るような電子音は、紛れもなく「敵意」の発露のように思えた。
「あ、あわわ……」
残念ながら、僕は漫画やアニメのヒーローのように格好良く振る舞うことはできなかった。
怪物に立ち向かうことも、その場から逃げ出すことも出来ず、ただ希の身体を抱えたまま、恐怖に駆られてずるずると背後に後ずさるばかりだった。
「奴のことは任せて。浩くんに手出しはさせないから」
「で、でも――」
「早く行って! もうこれ以上……見られたくないの」
希は僕を突き放すようにして立ち上がった。
怪物に向かって数歩歩き出し、そこで「うっ」と短く呻いて地面に膝を突く。
胸のケガのせいかと思ったが、そうではなかった。
ブウゥ――ンンン!
蜂の羽音をさらに甲高くしたような高周波音が響き渡り、僕は思わず耳を塞いだ。
音は、希の身体の中から聞こえているようだった。
「だ、ダメよ……まだダメ! ――イヤぁ! 浩くん、見ないでぇ!」
自分の両肩を抱きしめ、激しくかぶりを振って希が泣き叫ぶ。
僕は見るべきじゃなかった――が、見てしまった。
その「変化」は、彼女の意志を無視して一方的に進行した。
ゴムが弾けるような音と共に希の衣服が裂け、肩胛骨のあたりから細長い板状の突起物が飛び出した。
鈍く銀色に光るそれは、次の瞬間扇状に開いて翼のようなオブジェを形作った。
さらに右肩から先の部分も変形し、怪物に対抗するかのように刃渡り二メートル余りの鋭利なブレードを形成する。
胸の傷口からは筒状のオブジェが伸び、見る間にカノン砲を思わせる「砲身」となった。
戦闘形態――少女の姿をした兵器?
いや、希は兵器じゃない。癌細胞が健康な肉体をむしばむように、彼女の内に潜む「何か」が彼女の身体を浸食し、全く異質な存在に造り替えようとしているのだ。
――さっき「時間がない」と言っていたのは、つまりこのことだったのか?
怪物の胴体から生えた「棘」の先端に紫色の放電が走ったかと思うと、それは凄まじい雷光となり僕らをめがけて襲いかかってきた。
地肌と衣服の間に静電気が走るような不快感。
一瞬もう駄目かと観念したが、目を開けると自分の身体に異常はなかった。
すぐ目の前に、僕を庇うように立つ希の後ろ姿があった。
背中に生えた機械の「翼」から白煙が立ち上り、落雷の余韻のごとくパチパチと小さな放電が続いている。
怪物が発射した「兵器」を、彼女が身体を張って防いでくれた――僕の頭で理解できるのは、その程度が限界だった。
振り向いた希の頬に、一筋の涙が伝い落ちた。
「浩くんの絵、完成するまで手伝いたかったけど……ごめんね。やっぱり、時間がなくなっちゃった」
「……」
僕は希に何か言ってやりたかった。
だが変わり果てた彼女の姿を前にして、僕の舌は凍りつき、一言を発することもできなかった。
再び怪物に向き直ると、希は衝撃に備えるかのように身構えた。
「――伏せてっ!」
せっかく警告を受けながら、のろまな僕はほんの一瞬、伏せるのに遅れてしまった。
彼女の胸の「砲口」から盛大なマズルフラッシュが閃く。
叩きつけるような爆風をまともに食らい、僕の身体と意識は両方とも闇の彼方に吹き飛ばされた。