「居場所のない幽霊」

 「居場所のない幽霊」



目を開けると、隣で京子が寝息を立てていた。
自分の体を抱きしめて、無防備な寝顔でスヤスヤとよく眠っているようだ。
カーテンの隙間からは、僅かに光が洩れていた。
今は昼間なのか。ずっと部屋に篭っていたから、時間の感覚すらない。

彼方は、京子を起こさないようにそっとベッドを降りた。
そして、少しだけカーテンをずらして、外の世界を眺めてみる。
雲一つない青空が広がっていた。もう十二月なのに、珍しい天気だ。
しかし、暗闇に慣れた目には、日差しが少々キツい。
彼方は目を細めて、再びカーテンを閉めた。

ベッドへ戻ろうとしたとき、ポケットの中で何かがクシャリと音を立てた。
彼方はポケットの中に手を突っ込み、それを取り出す。
昨日見つけた、日向からの短い手紙だった。
ポケットの中に入れたまま寝てしまったから、ぐしゃぐしゃになってしまっている。

彼方は、皺を伸ばすように丁寧に紙を広げた。
自分の雑な字とは違い、日向の性格を表したような整った綺麗な字。
見慣れていたはずなのに、随分久しぶりに見た気がした。
自分に会わせてほしい、だなんて。
日向は自分と京子が繋がっていることを知っているのか。

―どうして今更、自分のことなんか。

理由はきっと一つしかない。
自分が、母親を殺したからだ。
何らかの方法で、犯人は自分だと突き止めたのだろう。
だからこそ、自分を探している。
それ以外に、日向が自分を探す理由なんてない。
自分は、日向にとってもう必要のない人間なのだから。

彼方は、再び紙を折り畳み、今度はぐしゃぐしゃにならないように、自分の財布の中に入れた。
こんなもの、捨ててしまえばいいのに、捨てることなんてできなかった。
京子に向けられた言葉なのに、自分の決意が揺らいでしまいそうだった。

ああ、ダメだ。また自分は、日向に依存している。まだ依存している。
京子のことだけを愛すると決めたのに。京子だけを愛しているはずなのに。
それなのに、日向のために母親を殺すなんて。

だって、仕方なかったんだ。
あの人がいると、日向が幸せになれない。
日向を、暴力から解放してあげないといけなかったんだ。
あの恐ろしい悪夢を、日向一人に背負わせたくはなかった。
あれが、自分が日向にしてあげられる最後のことだったんだ。
だから、もう日向に会ってはいけない。
自分の役目は、もう終わった。
終わったんだ―。

ああ、なんだか無性に海が見たい気分だ。
何もかもを忘れてしまいたい。
一人で穏やかな潮風に吹かれたい。

彼方は、携帯も財布も何も持たずに、帽子を目深に被って、静かに京子の部屋を出た。

誰とも目が合わないように、下を見ながら歩いた。
途中、軽トラックに乗った老人とすれ違ったが、自分に見向きもしなかった。
どうしてだろう。もう事件になっていても、おかしくないはずなのに―。

行く宛もなく、フラフラ歩いて辿り着いたのは、やっぱりいつもの場所だった。
見晴らしのいい高台から見える二つの大きな岩。
空と海の境界線なんてないように、どこまでも広がる青。
周りを見渡せば、水面が太陽に反射して、キラキラと輝いていた。

日向との思い出の場所。
京子だけに教えた特別な場所。
そして、あの日、母親を殺した場所―。

そういえば、よく推理ドラマでは殺人事件の犯人は必ず現場に戻ってくるとか言ってたっけ。
テレビを見ていた時の自分は、なんでそんな馬鹿なことをするんだ、と思っていたが、今ならその犯人の気持ちがわかる。
確かめたかったのだ。そこに、死体があるかを。
そこに死体がなければ、全部夢だったんじゃないかと思えるからだ。
あれは、長い長い酷い悪夢だったんじゃないかって―。

そう思って、高台から下の岩場を見下ろした。

どれだけ探しても、そこに死体なんてなかった。
当たり前だ。あの事件は、もう一週間以上も前のことなのだから。

あの日は雨が降っていて、海は大時化だった。
いつもは青く澄んだ海が、恐ろしいほど黒く、暗く、闇へと手を広げていた。
荒れ狂う波が岩場さえも飲み込み、自然の前では人間なんて無力だと嘲笑っているかのようだった。
ギプスを嵌めた不自由な手じゃ、助かるわけがない。

幼い頃から虐待を受け、抵抗することを自分たちは知らなかった。
逆らえないくらい、恐ろしいほどに大きな存在だった母親。
それが、やけに細く、華奢で、小さな体だったことに気付いた。
あの時の感触が、今でも手に残っている。

たった少しの力だった。
たった少しの力で、母親はよろめき、足を滑らせ、ここから転落した。
抵抗する様子なんてなかった。
ただ困惑し、項垂れ、涙を見せた。

あの人が全部悪いんだ。
今まで散々暴力を振るい、怒鳴り、蔑み、自分たちをないがしろにしてきたあの人が。
これは罰だ。恨みだ。あんな人間、死んだ方がマシなんだ。

けれど、自分が頭に来たのは、暴力だけじゃない。
あろうことか、あの人は「自分は何も覚えていない」とシラを切ったのだ。
「本当よ、信じて」と涙を見せ、「ごめんなさい…」と項垂れた。

覚えていないわけないじゃないか。
何年も何年も、あの人は酒に酔って自分たちに暴力を振るい続けたんだ。
忘れられるはずないじゃないか。シラを切るなんて、一番しちゃいけないことなんだ。
泣いて謝って何になるんだ。自分たちの記憶も傷も消えないじゃないか。
その卑しさが、自分の最後の良心を無くさせた。

自分でも驚くほど冷静に、冷徹に、その体を海に落とした。
母親は驚きのあまり目を見開いて、悲鳴も出せずに呆けた表情で海へと消えた。
それから先のことは知らない。
振り返ることもなく、自分は走って逃げたのだから。

ああ、自分はなんということをしてしまったのだろう。
あんな人、死んだ方がマシだと、いつも思っていた。
日向のためなら、何でもできると思っていた。
でも、今は怖くて、辛くて、しんどくて、堪らなかった。

自分は人殺しだ。
実の母親を殺したんだ。

今更だけれど、母親のことを思い返してみる。
殴られ、怒鳴られ、嫌な思い出ばかりだ。
少しでも、優しくされたことはあったっけ。
…ダメだ。何も思い出せないや。
あの人が自分たちに優しさを向けたことなんて、一度もない。

自分たちが必要じゃなかったのなら、産まなきゃよかったのに。
生まれてしまった自分は、苦しくて苦しくて仕方がない。
いっそ生まれなければ、日向と離れることも、病気を患うことも、汚いことをして金を稼ぐ必要も、人を殺すことだってなかったのに。
もう自分は、本当に救いようのない人間になってしまった。

救えない。救われない。
それでも自殺する決意が付かずに、京子に縋っている。
死にたいと思っているくせに、生にしがみついている。
生きていたって、意味がないのに。
京子に迷惑をかけるだけなのに―。

どうして日向は、自分を探しているのだろう。
日向に見つけてほしいと思う反面、合わせる顔なんてなかった。
でも、死んでしまえばもう日向には会えない。
死ぬ前に一度だけ、日向の顔が見たかった。
会う勇気なんてないのに―。

無意識に足が向いたのは、自分が育った家だった。
家を出て四ヶ月半、何も変わっていない。

玄関の前に立ってみても、物音一つしない。
ベランダを覗くと、洗濯物は一つもなかった。
いつもなら、学校に行く前に必ず干していくはずなのに。
もう帰ってきているのだろうか。そういえば、時間なんて見ていなかった。

インターフォンに伸ばした指が震えた。
自分は、このインターフォンを押す勇気がない。
ただただ、唇を噛んで、立ち尽くすことしかできなかった。






十二月第一週の金曜日。
学校帰りに買い物袋をぶら下げて、百合は一人で日向の家へと向かっていた。
昨日から寒気を訴えていた日向は、今朝になって熱が出たらしく学校を休んだのだ。
電話で咳き込みながら「寝てたら治る」と言っていたが、やっぱり心配だ。

最近は、彼方を探すために、毎日自分を駅まで送った後に、竹内さんという女性の家に通っていたみたいだ。
しかし、ずっと留守らしく、今日になっても会えていないらしい。
そのせいで自分と過ごす時間も減っているし、寒い中ずっと竹内さんの家の前に立ち続けて、ついには体調を崩してしまったようだ。

百合は嫉妬を通り越して、少し呆れる。
必死になるのはわかるけれど、体調を崩しては元も子もないじゃないか。
本当に日向は手先ばかり器用で、そういうところはてんで不器用だ。

母親も、あれから音沙汰無しらしい。
日向は携帯電話の番号を知っていると言うが、連絡していないのだろう。
こういうときくらい、母親に甘えたりしたっていいと思うのに。
それができないのは、やっぱり拒絶されるのが怖いからか。

日向は「うつったら大変だから、来なくていい」と言っていたが、こうときこそ、日向を一人にはしたくなかった。
彼方も母親もない家に一人で寝かせておくのは、可哀想だと思った。
日向も心細いだろう。迷惑だと思われても、自分が傍にいてあげたかった。

そんなことを考えていると、日向の家に近付いてきた。

そこで、百合は足を止めた。
誰かが日向の家の玄関の前で、佇んでいるのだ。
日向によく似た背格好、足元を見て俯く姿。
目深に被った帽子から覗く顔は、日向そっくりだった。

「彼方さん…?」

彼方は驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに自分に背を向けて駆けだした。

「待ってください!」

百合は、反射的追いかける。

「待ってくださいって…ねえ!」

声を掛けても、彼方は立ち止まったりはしなかった。
むしろ、どんどん遠ざかっていく。

「ひーくんに会ってください…!ひーくん、ずっと彼方さんのこと探してて…あっ!」

足を滑らせて、百合は躓いて地面に膝をつく。
顔を上げると、彼方の背中は小さくなるほど遠ざかっていた。
追いかけなきゃ―。

「いた…っ。」

慌てて体を起こすと、膝からは少し血が滲んでいた。
どうやら擦り剥いたらしい。

彼方の姿はもう見えなくなっていた―。






あの少女を振り切るために、必死に走った。
家を通り超えて、反対方向へ、息を切らして走った。
まさか日向以外の人間に見つかるなんて、思わなかった。
それも、日向の彼女なんかに―。

帰りは念のためを考えて、遠回りをして京子の家に向かった。
今日はこれ以上、誰にも会いたくない。なんだかひどく疲れた。
走って体力を消耗した疲労よりも、久しぶりに外に出た緊張感が足を重たくさせる。
こんなことなら、外になんて出なきゃよかった。

―ひーくんに会ってください…!ひーくん、ずっと彼方さんのこと探してて…

ずっと日向が探している。
そんなこと知っている。だから逃げ回っているんだ。
あの女は、自分を見つけたことを日向に喋るだろうか。
いや、喋ったところで、自分が扉を開けなければいいだけの話だ。
今日までそうしてきたんだ。問題ないだろう。

それにしても、日向に会えなかった。
そのことに、少し安堵している自分に気付いた。
会いたいと思って会いに行ったのに、会えなくて安心するだなんて―。
とことん自分は矛盾している。会いに行くつもりだったのに―。

やっとの思いで、彼方は京子の家に着いた。
扉を開けた瞬間、京子が胸に飛び込んできた。

「わ…っ!何…?」

彼方は、よろけながらも京子を受け止める。

「よかった…。」

自分の胸の中で、京子は安心したように息を吐いた。

「…京子ちゃん?」

顔を上げた京子は、怒ったような顔でキツく自分を睨む。
その瞳から、ポロポロと涙が溢れた。

「どこ行ってたんですか!?心配したんですよ…。彼方さんが消えちゃうんじゃないかって…ずっと…不安で…!」

「…ごめんね。」

そう言って、彼方は京子の涙を指で拭う。
いつも強がっている京子の泣き顔なんて、初めて見た。
泣かせたのは、自分か―。

「ちょっと…海が見たくなっただけだよ。」

京子は乱暴にゴシゴシと腕で涙を拭い、赤い目のまま彼方を見つめた。

「日向さんに、会いに行ったんですか。」

「…ううん。会ってない。」

「…本当ですか?」

「…うん。」

鋭い視線で、京子は自分を見つめる。
自分が言ったことが、本当か嘘かを見極めようとしているかのようだった。

「ねえ、京子ちゃん。」

そう言って、彼方は腕の中に京子を閉じ込める。


「一緒にさ、どこか遠くへいこうか。」

麻丸。
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麻丸。

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