「破滅への準備」
「破滅への準備」
「大会近いのに、喧嘩なんてしたらダメなんだからね。」
夕日が差し込む廊下を、真紀は亮太の腕を掴んで、引っ張るように早足で歩く。
不機嫌そうなのは、どうやら部活に遅刻しているせいではないようだ。
「真紀ちゃん、見てたの…?」
亮太は躊躇いがちに問う。
自分に背を向けて、振り返りもせずに、先を歩く彼女の表情は見えない。
「言っとくけど、別にアンタの心配したわけじゃないから。
キャプテンのアンタが喧嘩なんてしたら、大会も出場停止になるかもしれないでしょ。
何があったかは知らないけど…馬鹿なことしないでよ。」
少し早口のその言葉は、彼女なりの心配だろう。
イラついたように強気に言う言葉も、いつもより少しだけ、優しいような気がした。
「…ごめん。」
亮太は自分の情けなさに、小さな呟きを洩らす。
真紀は振り返って立ち止まり、そんな亮太に向き合う。
「ホントに!部活はサボるわ、馬鹿だからテストは全部追試だわ、
こんなキャプテンに振り回されるマネージャーの身にもなってよね!」
呆れたように、真紀は自分の腰に手を当てて、亮太に人差し指を向ける。
真紀の怒ったような、困ったような表情に、亮太は頭が上がらない。
「…返す言葉もございません。」
「あーもう、本当に世話が焼けるわ。」
そう言って、真紀はくるっと回って、再び亮太に背中を見せ、
大きなため息を吐いて、小さく呟く。
「…バスケしてる時だけは、カッコいいんだから。」
「え…?」
消え入りそうなほど小さな声に、聞き取れない亮太は聞き返す。
しかし、真紀はいつもの調子で亮太の腕を掴んで歩き出す。
「なんでもない!ホラ、早く行くよ!」
その頬は、夕日のせいか少し赤らんで見えた。
ふわふわの栗色の髪が、夕日に反射してキラキラ輝く。
立ち止まりそうになった時、明るい方へと亮太の手を引く、力強く優しい彼女の手。
真紀と亮太は幼稚園からずっと一緒だ。
家が近く、幼いころはよく二人で遊んでいた。
中学校にあがり、亮太がバスケ部に入ると、後を追うように真紀もマネージャーになった。
高校に進学してからも、真紀は変わらず、亮太の所属するバスケ部のマネージャーをしている。
当たり前のように傍にいる。
クラスは違えど、近すぎず、遠すぎず。一定距離を保ったまま。
いつだって、亮太が迷ったときに手を引くのは、彼女の力強い存在だった。
「あれから、調子はどうかな?」
白い無機質な室内で、白衣の大人の女性と向き合う。
彼方は、俯いたまま、小さな声で答える。
「…発作が、よく出るようになっちゃって。」
彼方の元気がない様子に、白崎は少し考えるようにパソコンに文字を打ち込む。
何を打ち込んでいるのか、パソコンのモニターは彼方の方からは見えない。
机と椅子と、パソコン以外何もないこの部屋は、普通の診察室とは違う。
彼方は、先日過呼吸を起こして運ばれた病院の精神科へと、受診をしに来ていた。
「そう…。過呼吸は一度なるとクセになっちゃうこともあるからね。」
白崎は落ち着いた声で、彼方を真っ直ぐに見つめる。
その瞳は、優しさを向けるというよりも、まるで動物か何かを観察するような瞳だった。
「あの…発作って治らないんですか…?」
躊躇いがちに、彼方が口を開く。
自分を見つめる白崎の真っ直ぐな視線が痛い。
「原因によるかな。彼方君は、どんな時に過呼吸を起こしちゃうの?」
白崎は彼方を安心させようと、優しく微笑んで見せるが、瞳は真剣なまま。
彼方は目を合わせることができず、膝の上で組んだ自分の手を見つめながら呟く。
「…辛いとき。」
「辛いとき?辛いときって、どんな時かな?」
彼方の短い返事に、白崎は困ったように首をかしげる。
それに構わず、彼方は小さな声で断片的に呟く。
「…日向が、離れていくかも…とか、…日向が、辛そうな時…とか…日向が…。」
彼方が何度も繰り返す名に、白崎は聞き覚えがあった。
それは彼方が病院で目の覚ましたあの時、縋りついた双子の兄、日向のことだ。
彼方は日向がいないと、異常な細に不安がって、取り乱して、
日向を見つけると、泣いて縋りつくまでに日向に依存していた。
「日向君って、この前の双子のお兄さんよね?今日、彼は来てないの?」
その言葉に、一瞬、彼方の肩が震える。
「…日向も、忙しいから…。」
白崎は、彼方の肩が震えたのを、見逃さなかった。
そして、変わらない優しい微笑みで、彼方を諭す。
「そっかあ、忙しいのかあ。でも、今度日向君も一緒に連れてきてほしいな。」
彼方の顔色をうかがうように、白崎は優しい声で首をかしげる。
しかし、彼方は白崎と視線を合わそうとしない。
まるで自分を守るように、背中を丸めて膝の上で組んだ手だけをじっと見つめる。
「日向には、関係ないじゃないですか。」
「彼方君の過呼吸が出ないようにするために、日向君にもできることがあるはずよ。」
視線が合うことがなくとも、白崎は彼方を注意深く見つめる。
少しの変化も、違和感も見逃さないように、瞳だけは真剣な目だった。
「日向には、迷惑かけたくないんです。ここに来たことも、日向に言わないでほしい…。」
白崎は口元に手を当て、彼方に表情が見えないように、考える。
おかしい。
以前は、日向がいないと取り乱すほど、依存しきっていたのに。
今はまるで、日向と距離を取っているかのように、彼方は言う。
この数日で彼方にどんな変化があったのか、何が彼をそうさせるのか。
日向のことを気にするくせに、なんだか変な違和感があるような気がした。
白崎は口元の手を離し、先程のように微笑んで見せる。
「過呼吸は、どのくらいのペースで起きるの?」
「…ほぼ毎日、です。」
「そっかー。毎日過呼吸起こしてたら辛いよねえ。」
俯いたまま心を開こうとしない彼方に、
今日はこれ以上診察はできないだろうと思い、白崎はカルテを纏める。
「今日は、ちょっとだけお薬出しとこうか。」
その言葉に、彼方は微かに顔を上げ、不安そうな表情を見せる。
目には光が宿っていない。無機質な、空虚のような目。
「そんなに強い薬じゃないから、大丈夫よ。
不安な気持ちとか、辛い気持ちを抑えてくれるお薬よ。
苦しくなったときとか、過呼吸が起きそうなときに一錠だけ、飲んでね。」
気遣うような、静かで優しい白崎の声に、
彼方は不安そうな表情のまま、俯いて頷いた。
「…はい。」
診察を終えて、病院の横の薬局で薬を貰う。
外はすっかり暗くなっていた。
病院からの帰り道、月明かりだけが照らし出す薄暗い海辺沿いの静かな道路を一人で歩く。
薬局の簡易的な小さな紙袋の中から、
銀色のシートに入った白い楕円形の錠剤を手に取ってみる。
「これって、いくつ飲んだら死ねるのかなあ。」
自分は臆病だから、痛いのも、苦しいのも、怖い。
眠るように静かに死ねたら、どんなに楽だろう。
何の痛みも、苦しみもなく、消えることができたら、どんなにいいだろう。
昔テレビのニュースで見たことがある。
病院で処方された睡眠薬や安定剤を100錠とか200錠とか、
途方もない量を飲んで自殺未遂をした人のニュース。
何百錠も飲んだとしても、死ねないのはわかっているけれど、
何故かそこに、仄暗い、微かな期待が湧き上がる。
1シート、たった10錠の薬を見て、自嘲気味に笑う。
きっと、これだけじゃ死ねない。
「もう僕は、日向の傍にいちゃダメなんだ…。」
小さく呟く彼方の声は、夜の波間に掻き消された。
日向となるべく顔を会わないようにすることを決めた。
なるべく視線も合わせない。
なるべく話しかけることもしない。
触れることなんて、もうない。
それで日向が悲しそうな顔をしても、仕方ない。
きっとこうすることが、日向の望んだ未来への道だ。
日向の望んだ未来に、自分の居場所はない。
ならば、日向を開放してあげなければ。
自分の醜い嫉妬や、依存から、日向を手放してやらなくては。
日向の足枷になってはいけない。
きっと日向は、自分がいなくても、一人で生きていける。
器用でなんでもできるし、優しいから、きっと綺麗な彼女もできる。
就職して、結婚して、子供ができて、きっとそんな普通の幸せを手に入れられる。
そのためには、自分なんて必要ない。
今のままの自分じゃ、きっと日向は自由になれない。
日向は優しいから、自分が泣いて縋れば、絶対にこの手をとってくれる。
でも、それじゃダメなんだ。
自分から、手放さなくては。
そうじゃないと、何も変われないままだ。
そんなことを考えて、必死に自分に言い聞かせる。
そのたび、呼吸が苦しくなり、胸が痛む。
日向を失うことを、傷つけることを考えて、過呼吸を起こす。
どれだけ頭で理想論を考えてみても、
脆弱な自分は、感情を隠そうとすれば、体が悲鳴を上げる。
どこまでも情けなくて臆病で、どうしようもない。
本当に、こんな人間なんて死んだ方がマシだ。
でも、ちゃんと日向が自分以外の居場所を見つけるまで、消えるわけにはいかない。
せめて、最後には日向の幸せそうな顔が見たい。
それまでは、例え触れられなくてもいいから、日向を見つめていたい。
まるで、昔好きだった絵本の中の人魚姫のようだと思う。
悲しいお話のはずなのに、好きな人のために泡になる、
そんな自己犠牲の精神が、幼心に強く響いた。
好きな人の幸せのためなら、自分くらい殺せる。
自分の想いは報われなくてもいい。
日向が幸せなら、全部捨てられる。
だから今は触れないで、傍でそっと、黙って見守っているから。
早く将来を決めて、彼女を作って、幸せそうに笑ってほしい。
自分がいなくても平気だと、そんな残酷な笑顔を見せてほしい。
日向が、自分の態度に傷ついているのは知っている。
誰よりも傍にいたから、何も言わなくてもわかる。
ブリーダーになりたいと言ったのも、バイトをすると言ったのも、
日向は自分しか見ていないから、自分を通して周りを見てほしかった。
こんな自分たちでも選べる未来がある。それに気づいてほしかった。
嫌みのように「自分は決めた、日向はどうする」と突き放すように、決断を迫る。
そうでもしないと、日向は自分のことばかり考えるから。
日向は、選ばない。
いつも自分に合わせてくれるから。
でもそれじゃダメなこともある。
だから、突き放す。
残酷に、冷たく、決断させる。
日向の傷ついた顔を見るのは、心が痛い。
でも二人一緒にいられない未来だからこそ、ちゃんと選ばせないといけない。
自分のことなんか気にせずに、日向が一番幸せになれる未来を、考えさせないといけない。
二人一緒にいられない。
ずっと一緒なんて、ありえない。
「死にたい…。」
どれだけ理屈をならべてみても、
それだけ理想論を振りかざしても、
頭ではわかっていても、感情がついていかない。
納得しているつもりでも、苦しくて仕方がない。
呼吸が、浅くなる。
何度経験しても、慣れない息苦しさ。
―ああ、まただ。
少し日向のことを考えただけで、こんなにも脆く自分は発作を起こす。
日向のことを考えるのも苦しい。
心臓が痛くて、呼吸ができないのも苦しい。
こんなに苦しいのなら、このまま死ねたらいいのに。
死ねるわけない。ただの過呼吸だ。
息苦しさに、誰も通らない田舎の静かな道のわきにしゃがみ込む。
苦しさで、何も考えられないほど頭がぼうっとする。
上手く呼吸できずに、力の入らない右手から、薬のシートが地面に落ちる。
―苦しくなったときとか、過呼吸が起きそうなときに飲んでね。
楕円形の銀のシートが月明かりで仄かに光る。
彼方は過呼吸で朦朧とした頭で、その薬を一錠飲み込んだ。
そして、しゃがみ込んで俯いたまま、呼吸が落ち着くのを待つ。
過呼吸が起きると、どうしようもない不安感に襲われる。
具体的に何が不安かと聞かれれば、答えられない。
わけのわからない、漠然とした不安感や恐怖。
何度発作を経験しても、苦しくて、辛くて、怖いのだ。
何の意味もないが、胸に手を当てて、呼吸を落ち着けようとする。
ドクドクと、自分の心臓が暴れているように脈打つ。
そういえば保健室で発作を起こした時、
将悟が、ハンカチやタオルを口に当ててながら、
息を吐くようにするといいようなことを言っていた。
彼方は、震える手で学ランのポケットからハンカチを取り出して、口元にあてる。
荒い呼吸を吐き出そうと努力はするが、上手くいかない。
薬も飲んだのに、楽になる気配はない。
―なんだ、全然効かないじゃないか。
白崎に出された薬は、どうやら何の効果もないみたいだ。
ああ、確か弱い薬だと言っていた気がする。
気休めにもなりはしない。
こんなもので死ぬことなんて絶対にできないな。
発作を起こして、体は苦しいはずなのに、
何故か頭だけは妙に冴えていて、そんなことを冷静に考える。
日向の前では、もう発作を起こしたくない。
きっと日向は、自分が目の前で発作を起こしたら、
すぐに自分に駆け寄って、心配そうに顔を覗き、その優しい手で、自分の背中を擦る。
今、日向の優しい手で触れられたら、決意が揺らいでしまいそうな気がする。
これほどまでに苦しみながらも決めた、日向と離れる決意。
暖かくて、繊細で、綺麗な手。
そんな日向の優しい手が、恋しくて、怖かった。