第04話『生還者』
あの惨劇から数週間後。
ブロンドの少女フィリーネは奇跡的にまだ生きていた。
いや「ただ生きている」だけというのが正しいだろうか。
きれいな色白の肌やブロンドの髪は焼けただれ、見るに耐えない姿に成り果てていた。
それを認めたくないのか、それとも生きようとしていないのかは分からなかったが、戻ってもいいはずの意識は未だに戻らなかった。
「フィリーネ……」
「飛行機事故」としか知らされていない彼女の両親が、包帯に包まれた我が子を慈しむように優しく撫でた。
彼女はそれに答えようとするが、目蓋を開けて薄紫色の目を動かすだけで精一杯だ。
「先生の話だと、山場は越えたらしい。あと少しで退院できるとのことだ」
父のスティーブンスが感情を押し殺しながら言う。
先ほど見舞いに来てくれた、未だに遺体の見つからない同級生の親と言葉を交わしてこみ上げるものがあったのだろう。
「フィリーネ、大丈夫よ。これだけ再生医療が発達しているんですもの。きっと、また元の生活に戻れるわ」
母シビルは娘に優しく語りかける。
「そうだ。退院したら、私の仕事の手伝いをしてくれないか。バーチャルリアリティ(VR)というものなんだけどね」
父は電子機器をはじめとしたハイテク産業の企業「アーカム」社の社員で、家族に明らかにしてはいないがVR部門のチームリーダーだ。
今まで仮想空間は視覚や聴覚、モーションセンサーを介することでその世界に干渉することが出来たが、まだまだその世界はハリボテだった。
ハードウェア開発に長い年月と、膨大な資金を投入してようやく人類は「完全」なる仮想空間を作り出す事に成功する。
世界初のフルダイブシステムが生み出す世界は現実そのもので、視覚はもちろん聴覚や触覚、嗅覚などにも訴えることができる。
「身体を動かす感覚」を思い出す訓練にも有用とされ、心身ともにリハビリテーション分野で期待が高まっている。
現実では身体を動かすことのできない人間でも、仮想空間では健常者として数々のコンテンツで身体を使い、交流し、遊ぶことができる。
スティーブンスは幼少期からそういった身体の不自由な人たちを見てきた。
だからだろうか、仮想空間に対する思いは強く、完璧な調和を目指した。
頭の固い議員や、法律の盲信者たちはそれを止めようとした。
開発を止めるように何度脅迫されたことか。
ようやく発表にこぎ着けることができたと思えば、今度は娘が事故に遭う。
苦難の連続だったが、彼は不謹慎ながらにこれを運命のように感じた。
「そこでリハビリしよう。またこの世界で歩けるようになるように」
そう言う父は、少しだけ目を潤ませていた。
***
数か月後。
「フィリーネ?」
父に名前を呼ばれ、彼女は目蓋を開けようとした。
いつものような焼ける感覚はなく、ごく自然にアメジストの瞳が露になる。
「こっちにおいで。フィリーネ」
父スティーブンスが身を屈め、手招きをしている。
彼女はそれに応えようと息を吸い込むが、激しくむせ返ってしまう。
「落ち着いて、深呼吸しなさい」
何もない空間に靴音を響かせながら父親がゆっくりと彼女に歩み寄り、フィリーネの背中を優しくさすった。
「ごほっ……ごほっ……。ぉ……お父さん?」
「そうだ。私だ」
父はニッコリと皺を寄せて娘に言う。
彼は仕事が忙しくてなかなか娘に会えなかったが、妻と同じくらいフィリーネのことを大切にしていた。
「ここは……どこ? わたし、死んじゃったの?」
そこは灰色の地面に白の背景が眩しく、長時間眺めていると目が悪くなりそうな空間だった。
「前に話したことがあると思うが、仮想空間だよ」
「仮想……そうだ、現実のわたしはっ? アイリとヨシュアは!?」
父に詰め寄るフィリーネだったが、急に身体を動かしたことによる痛みですぐにうずくまった。
それを苦笑いしながらスティーブンスは支え、落ち着かせようとする。
「あの2人は行方不明になっている。まだ遺体は見つかってないよ」
「……」
2人ともきっとどこかで生きている。
死んだと考えたくない訳ではない。フィリーネには妙な自信があった。
「それと、現実のお前は自分の部屋からここにダイブしている。あっちの世界でまだ身体は動かせないだろう?」
「うん……そういえば、こうやって話すの何か月ぶりだろ。お母さんもいるの?」
「ああ、ニューロンギアが2台しか借りられなかったから、仕方なしに居間のテレビで様子だけ見てるよ」
そして父は大きく息を吐いて、少女を力一杯抱きしめた。
「フィリーネ……辛かっただろう」
「大丈夫だよ。それよりも、聞いてほしいことが――」
少女は父を抱き返して、そこまで言いかけるが、その先の言葉が出てこない。
「どうした?」
「あれ、おかしいな……。墜落の原因は――」
彼女の頭に響くのは機内警報、叫び声、泣き声、そして大気を切り裂く轟音。
目に浮かぶのは、空中に放り出される乗客、赤黒い海に沈む潰れた遺体、そして臓物臭。
「……ぅ……げほっ……げほっ!」
「大丈夫か」
仮想空間とは思えないほどの感覚に嫌悪感に襲われ、少女は胃液を吐き出した。
なぜか思い出せない。いや、思い出したくない。
目に涙をためて、息を整えようと新しい空気を取り込むが、それは胃液を吐き出すために使われる。
「大丈夫だ。ここは安全だから、今は思い出さなくていい」
「……ごめん……なさい……」
あの事件では冷静に徹していた彼女だが、それは確実に心の傷になっていた。
父の言葉のとおり、「その記憶」を遠ざけることによってフィリーネの精神状態は安定してきた。
「……うん、もう平気かな」
「強い子だ。よし、歩いてみようか」
スティーブンスはブロンドの癖毛をグシャグシャと荒く撫で、立ち上がるとまるで赤子を誘うように両手を広げて数歩下がった。
「ぶー、そのくらいでき……ひゃう」
フィリーネは頬を膨らませながら立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに前へ倒れ込んでしまう。
なんとか手で顔を庇うことができたが、ここが仮想空間であるか疑わしくなるほどに手がヒリヒリと痛む気がする。
「はは……もう、長いこと使ってないから身体が鈍っているんだな」
父は笑いながら、それでも彼女に手を貸そうとはしない。
運動神経だけは人一倍だったフィリーネに「鈍っている」という言葉が重たくのしかかり、自信を押しつぶそうとする。
だが、彼女は強く手を握って身体の感触を確認しながら少しずつ足に力を込めた。
細い身体が右にぶれる。彼女は右手で支える。
左にぶれる。左手で支える。
そして、歯を食いしばりながら両手を使い生まれたての子鹿のように弱々しく立ち上がった。
「……本当に強い子だよ、お前は」
スティーブンスは息を荒く吐きながらも、笑顔を見せている我が娘に称賛をおくる。
父は何かを言いかけて、口を開いたが左側頭部に手を当てると「すまない、ちょっと呼び出しが」と言い、手をかざして空中を弾いていたかと思うと、どこからともなく灰色の机と椅子が現われ、その上には一冊のマニュアルが置かれていた。
「VRのスターターガイドだ。読んでおきなさい」
「帰ってくるよね……?」
「心配ない。ちょっと行ってくるだけだ」
スティーブンスはそう言うと再び何もない空間を弾く。
やがて、その身体は光の粒子に包まれて消えて行った。
「……」
1人残されたフィリーネは、椅子を引いて静かに腰を落とし、背もたれに体重を預けた。
それはギシッと軋み、まるで本物の椅子に腰掛けているかのような感触だった。
***
「何だ。ちょっと取り込み中なのだが……」
シビルの呼び出しを受けて、スティーブンスが居間にやって来た。
少々不機嫌そうな顔をしているのは、愛娘とのリハビリを邪魔されたからだろうか。
「あなた、ユーリ君がお話があるって」
「先輩、お忙しいところ申し訳ありません」
その黒髪の男、ユーリシス・ナイトレイはスティーブンスに深々と頭を下げた。
身長は170センチ後半、中肉中背で皺1つない顔からは年齢を窺い知ることができない。
暑さがようやく和らいできたとはいえ、この男は青みがかかった長袖のカッターシャツに、えんじ色のネクタイをしめている。
彼が頭を上げると、そこには精悍な面構えにエメラルドグリーンの深い瞳が静かに光を放っていた。
そう風貌から彼が接客業に就けなかったのは、スティーブンス自身がよく知っていた。
「ユーリ、久し振りだな。今は大尉だったか」
「いえ、昇進して少佐になりました」
「それはおめでとう」
固い握手を交わす男2人。
「お茶、入れますね」
シビルはそう言うと、台所に引っこんでいった。
「まあ、立ちっぱなしも何だ。座ってくれ」
スティーブンスは居間のソファにユーリシスを誘う。
そこはテレビが最もよく見える「特等席」であった。
「VRでのリハビリですか」
「そうだ。精神と肉体は互いに引っ張り合う性質があってな、まずは心のケアから始めようと思って」
テレビには灰色の床をヨタヨタと歩くブロンドの少女が映し出されていた。
時折、足がもつれて転倒していたがそれでも彼女はすぐに立ち上がろうとしていた。
「人事から流れてきたのですが、フィリーネ……さんの実技試験の成績は素晴らしいものがあります。こういう表現はあまり好きではないのですが、誰にも負けないくらいのガッツがある。近年では珍しい傾向ですよ、今回の事故はこちらとしても残念に思っています」
その様子を見ながら人事は管轄外のユーリシス少佐が言う。
スティーブンスはそこに何かの意図を感じ取ったが、それを表に出さずに黙って娘を見守っていた。
「VR技術がリハビリテーションの分野に使われ出して、車椅子患者の平均寿命が伸びたのはご存じですよね」
「ああ。先も言ったように、精神と肉体は互いに引き合う。身体を満足に動かせないというのは、それだけで相当なストレスなのだよ。先天的なものも含めてね。リハビリに推奨したのも私だ」
「ええ。しかしながら、彼女の肉体はいつ果ててもおかしくない状況です」
感慨深く言うスティーブンスに、黒髪の男は冷たい言葉を放つ。
「……どこからそれを」
「コネは生きてるうちに使いませんと」
ユーリシスの口元は笑っているように見えたが、目は全く微笑んでいるようには見えなかった。
「妻とあの子には言わないでくれ。山場は越えたと思ってるんだ」
スティーブンスは大きく息を吐き出し、両手で顔を覆った。
「残酷なのはどちらか……という話は置いておいて、1つ提案があります」
ユーリシスはそう言い、足元に置いてあった黒のアタッシュケースから書類を取り出すと、センターテーブルのガラス天板の上に滑らせた。
「『アドバンスド・ウォーリアー』計画?」
「はい」
そしてユーリシスは話し出した。