第06話『電子の亡霊』
「ふあぁぁぁ……」
眠りから目覚めた少女はあくびを噛み殺しながら背伸びをした。
どれくらい寝ていたのだろうか。
寝起きのせいもあったが、思考が思うように回らない。
こうしていても仕方ないので、ふかふかの緑色の絨毯から立ち上がり、ゆっくりと辺りを見渡した。
そこは丘の上で、緩やかな勾配が続いている。
遙か彼方には白い山脈がそびえ立っていて、南方向には大海原が広がっている。
「あれ? わたし、どうして方向が……?」
彼女には不思議と方角が感覚で分かってしまう。
「それは、これがお前の世界だからだよ」
ブロンドの少女が疑問に思っていると、それに答えるように父の温かな声が聞こえる。
「お父さんっ。お母さんも」
彼女が振り向くと、そこには両親の姿があった。
草葉を散らしながらその元へ駆け寄り、2人の胸に飛び込んだ。
「なんだか、ものすごい久し振りな気がするよー」
「そうだな」
「そうね」
「それで、ここはどこなの? さっき言った『わたしの世界』って?」
密着させていた顔を離し、少女が父親にたずねた。
「……言葉どおりだよ」
「しっかりと生きるのよ、フィリーネ」
母シビルは細い腕で少女を思いっきり抱きしめる。
「わ、痛いよ。お母さん……」
「ごめんね……守れなくて、ごめんね……」
困惑するフィリーネの事を母は何も言わずに腕で包んでいた。
まるで、その存在を逃さないようにせんとばかりに。
「シビル」
「……ごめんなさい、あなた」
父スティーブンスが妻の肩を抱き寄せた。
「2人ともヘンだよっ。何を隠してるの?」
「……お前は死んだんだ」
眉間に皺を寄せて自分たちを問いつめる子に、スティーブンスは包み隠さずに言う。
「……生きてるよ! わたしは、生きてる!」
「ここは仮想世界の中なのよ。リーネ」
フィリーネは信じられないといった様子で声を張り上げるが、母はそれを否定するかのように静かに告げた。
「こちらの世界にいるときにお前の人格のコピーを取っておいたんだ。現実世界でのお前の身体は……もうない」
父が残酷に真実を投げつける。
しかし、にわかにその言葉を信じることのできない少女は「うそだよ……」と弱々しく両親の手を取り、口を開く。
「うそだよ、そんなの。だって……こうして触れるし、温かさだって感じるし。お父さんの整髪料の匂いだって、お母さんのラベンダーの香水だって……」
少女にはそれが全て偽りだとは信じられなかった。
うろたえる娘の手を両手で握り返し、スティーブンスは「よく聞いてくれ」と言葉を続けた。
「現実はいつだって非情だ。だけど、私たちはそこで過ごさなければならない。しかし、常に心がそこにあると荒んでしまう。だから、こういった世界が受け皿として必要なんだ」
「……」
彼女はその真っ直ぐな父の瞳に逆らうことができず、言葉を頭の中でかみ砕いていた。 しかし、理解しようとすればするほど、スティーブンスが何を言いたいのか分からなくなってくる。
「お前は強い子だ。それと同時に、優しさも兼ね備えている。きっとこの世界の礎になれるだろう」
「お父さん……」
鈍感で考え足らずなところがあるフィリーネだったが、言葉の意味が分からなくても父が何を言いたいのかは感じ取ることができる。
「もうあまり時間がないの。私はあなたを身籠もってから一緒に過ごした月日を忘れない。あなたがいて、幸せだった」
「お母さん……」
何が起きようとしているのかは分からない。
しかし、両親と過ごせる時が最期を迎えようとしていた。
「フィリーネ、この言葉を覚えておきなさい。『全ての希望はあなたたちの中にある』と」
スティーブンスがそう言い終わると彼の身体に縞模様のノイズが走り、透明度を増して景色に溶け込んでいく。
それを皮切りに母の姿や風景も鮮明さをなくしていき、世界が崩れ去っていくのを少女は感じていた。
「……!」
2人が何かを叫んでいるが、全く声は伝わってこない。
その存在を掴もうとして手を伸ばすが、彼女の手は2人の身体に触れることができずに空振りをしてしまう。
そして、世界が完全に闇で閉ざされてしまった。
『キャラクターネームを指定してください』
闇の中でフィリーネが佇んでいると、突如無機質な女性の声が響いてスポットライトを浴びたかのように自分の周囲だけが明るく照らし出された。
しかしそれは色彩を失っており、色白の肌もブロンドの頭髪も全てが灰色一色で塗られている。
『キャラクターネームを指定してください』
急かすように無機質な女性の声が催促をする。
少女は意味が分からないまま、口を小さく開いて自分の名前を口にする。
『その名前は既に使われています』
「じゃあ、リーネ」
『その名前は既に使われています』
「……」
どうしようもなかったので、彼女はその声から遠ざかろうとした。
『キャラクターネームを指定してください』
しかし、どこへ歩いてもその声は付き纏った。
少女はついに根が折れ、ため息をついて目を閉じた。
さきほどの父の言葉が正しいのならば――……認めたくはないが、自分は亡霊(ゴースト)みたいなものだ。
そして、何故かこの世界は色彩を失い、灰色(グレイ)一色に染まっている。
彼女は安直だと思いつつも、気軽にその言葉を口にする
「グレイ……グレイゴースト」
『作成成功。世界を構成中……完了、記憶野の一部初期化……完了。サーバーとの接続を待機しています……接続完了。ようこそニューロンシャードへ』
機械音声が言い終わると、頭の中の何かが抜け落ちていくのを少女は感じた。
「あれ……『私』は……一体……?」
自分の名前や基本言語は残っていたが、記憶の引き出しがごっそりと抜かれているのを彼女は感じていた。
その中に辛うじて残っていた断片を拾い集め、口に出してみる。
「私の名前はグレイゴースト……? 仮想世界、優しさ、受け皿……それに何だろう、大切な人に大切なことを言われたような」
空っぽの頭をフル回転させていると、遠くから泣き声が聞こえた気がした。
何を考える訳でもなく、自然と足がそちらに向かっていた。
方向を確認すると、彼女は迷うことなく駆け出す。
「……ぐすっ」
岩の陰では1人の少女が声を押し殺して泣いていた。
グレイゴーストは忍び足で彼女に近付くと、耳元で小さく「わっ」と言い、飛び退く少女に意地悪そうに笑ってみせる。
「ななな、なんだよっ。あんたは!」
それは鈴のような澄んだ声だったが、若干低音の引っかかりを感じる。声変わりする前の男の子の声だった。
「あれ、君は男の子なの?」
「見れば分かるでしょ! 男だよっ」
「そうなんだ。ふーん……」
どこから見ても10歳前後の可愛い女の子だったが、それを口に出しては傷付くと思い、グレイゴーストは何も言おうとはしなかった。
「それで、君はどうして泣いてたの?」
顔を頭髪のように赤くして怒る少年に対し、屈んで目線を揃えた彼女が優しくたずねる。
「……あんたには関係ない」
「言ってみて? 力になるから」
「……」
どうしてだろうか。
まるで、今までもそうしていたかのようにグレイゴーストは少年に話しかけていた。
「……アレクシス、フェルナンド」
顔を伏せて黙っていた少年の口から言葉が漏れる。
「ん?」
「アレクシス・フェルナンド! 名前は言ったからな!」
「ああ……。私はね、グレイゴースト」
「……変な名前」
「そうだよね。自分でもそう思う」
グレイゴーストはロングスカートを押さえてアレクシスの横にゆっくりと腰を下ろした。
「な、なんだよ」
「別に? ……でも、辛いときや心細いとき。誰かが側にいると楽にならないかな」
「……それは」
父は軍隊に入っていて週末にしか戻ってこないし、母はパートの仕事で夜遅くに帰ってくるので、学校で仲間はずれにされる少年の遊び相手は|この世界《VR》だった。
しかし、とある事件を境に疎外感を感じ始めたアレクシスはうそをついてコミュニティから脱退してしまう。
「……どうしてあんたはオレに優しくするんだ」
自分は救いようがない馬鹿だと思い込んでいたアレクシスは、両手で髪を掻き毟った。
「あなたが疲れているように感じたからかな」
「疲れてなんて――」
「強がらないの。そういう時は、1人で強がらないで遠慮せずに周りに甘えなさい。きっと、自分が思っている以上に君を支えてくれる人はいるから」
「……」
グレイゴーストは自分でもすらすらと言葉が出てくるのが不思議だった。これが、記憶の欠ける前の本人の姿であろうとは思いもしない。
彼女は少年の小さな手に自分の手を重ね「アレクシス君、どんなに苦しくても希望を捨ててはダメ。全てはあなたたちの中にあるのだから――」と囁いた。
そして、彼女は立ち上がり透き通った青空に手をかざす。
「それって……」
俯いていた少年がグレイゴーストの顔を見ようとしたするが、そこには誰の姿もなかった。
***
「あら、起きてたの?」
居間のソファで横になっていた母のイリアが、息子の足音に気付いて慌てて上半身を起こした。
彼女はすぐに笑顔を作るが、その顔は酷く疲労していた。
「母さん。疲れてるところゴメン。だけど、聞いて欲しいんだ」
そして、少年は学校の内外で執拗に虐められている事を話し出した。
(やり直せるだろうか。こんなオレでも……)
あの時に感じた温もりを思いだし、少年はぎゅっと手を握った。