月の綺麗な夜1
その日の晩は、そこそこに宿の食堂にも客が入った。
残念なことに、泊り客は一組しかいないのだが。
名物女将はいないが、美味い料理がある。
それだけで、客が入るものなのだ。
「まあ、だからってこれで解決したってわけでもないんだけど」
カウンター内でこっそりと帳簿をつけつつ、エスノアはため息をつく。
細々と宿としての収入は入るようになった。
しかし食事代が大半なので、副業の鉱石加工の収入の方がまだ若干上回っている。
何としてでも泊り客を確保したいところだ。
問題があるとするなら、現在の泊り客を見て驚く人が多いということだろう。
リカルは自分の外見が目立つことをわかっていて、食堂として営業する時間は部屋から出て来ない。
彼の連れもそうなのだが、そもそも顔を合わせる事さえ稀だ。
出かけるときには注意深くフードを被っている。
「すみませーん! シチュー一つくださーい!」
「はーい、すぐ持っていきますね」
テーブル席からの注文に、思考を引き戻されたエスノアは伝票に書き込んで、厨房に伝える。
厨房を取り仕切るのはアルファで、キリィが手伝いとして入っている。
本来なら、エスノアが手伝いたいところだが、彼はキリィによって『厨房立ち入り禁止』と宣言されていた。
ちなみに、理由は料理下手であるからだった。
「だってさ、兄ちゃんが肉を串に刺して焼くじゃん? そしたら、カチカチの変な物でてくるじゃん。ムリムリ」
キリィが厨房への立ち入り禁止を申し渡すに至って、そんなことを兄に言った。
なお、立ち入り禁止なのは調理中の厨房であって、営業終了後は片づけを全面的にエスノアがすることになっていた。
「兄ちゃん、お待たせ」
深皿に注がれたシチューをキリィが厨房から持ってくる。
エスノアはそれを受け取って、客のテーブルへと運んだ。
その時だった。
入り口のドアが開く音がする。
「いらっしゃいませ」
反射的にエスノアは言って、入り口を振り返る。
一瞬静まった客席が、ざわざわとするのを感じた。
入って来たのは、旅の装いをした一組の男女だった。
それだけでは珍しくないが、見た目が少し変わっていた。
ふわふわした黒髪の少女は普通だ。
だが連れの男は違った。
緑の髪で、尖った耳をしている。
こんな外見の人間をエスノアは知っていた。
おとぎ話に出てくる森の民であった。
「こんばんは、ここって宿屋なんですよね。泊めてもらえますか?」
見た目の年齢は森の民の男の方が上なのだが、少女が主導権を握っていることをエスノアは悟った。
もしかしたら、少女も見た目通りの人間ではないのかもしれない。
そう思ったのは、既に泊まっている客が人間ではないことを知っていたからだが。
「はい、いつまでですか?」
「それが決まってないので、毎日清算してもいいですか?」
断る理由もないので、エスノアは諸手を挙げてこの客を歓迎した。
見た目が変わっていようと、客は客だ。
一組いるのといないのとでは、全然違う。
これが長期の客ともなればなおさらだった。
客は二部屋取ることを選択した。
「ではご案内しますね」
エスノアは持ち場を離れて、客を2Fへ案内する。
空いた部屋に案内していると、リカルが廊下の窓を開けて、風に涼んでいる。
ろうそくの明かりに反射した目の色に、案内した客が彼の方を興味深そうに窺っているのがわかった。
そこは敢えて無視して、二人をそれぞれの部屋へと通し、鍵を預けた。
何はともあれ、しばらくは『宿』らしいことができそうだ。
大いに胸をなでおろしたエスノアは一階の食堂へと戻ったのだった。
雲一つない空には大きな満月。
窓からそれを確認してルークは大きなため息をついた。
満月の夜は嫌いだった。
特に、今日のような雲一つない、澄んだ空に満月があるような夜は。
結局、ルークは王女の部屋とドア一つ隔てただけの、続きの間で休むことになった。
弟に抗議はしたものの、押し切られてしまった。
「あの時みたいに間に合わなかった、なんてことは嫌だから」
弟に冷めた口調で言われると、ルークは何も言えなかった。
実際に三百年前は、王子の傍で休んでいなかったことで間に合わなかった。
ちょうどそれが満月の夜だったと、ルークは記憶している。
「ねぇ、ルーク。まだ起きてる?」
扉の向こうから声がする。
明かりもとっくに消して、お付きの侍女も下がったはずだが王女はまだ起きているようだった。
しかも、月明かりだけを頼りに扉の近くまで移動したらしく、ルークは彼女の気配をより近く感じる。
「何だ? さっさと寝ろよ。今日は満月なんだから」
「――満月だから、あまり早く休みたくないのよ」
昼間の元気が嘘のように、呟く声にも力がない。
それに対して、ルークは何も言えずに黙り込んだ。
どう答えていいのかわからなかったのだ。
「ルークも、あんまり満月の夜は好きじゃないんでしょ。ジークに聞いたわ」
あの弟は一体王女にどこまで話したんだ?
ルークは肝を冷やす。
しかし、懸念はすぐに払われた。
「何で嫌いなのかは知らないけどね」
「そう……か……」
ルークはふぅっと息をつく。
弟とはいえ、自分の過去を誰かに勝手に話されるのは、ルークも嫌だった。
ましてや大切な友人であり、護衛対象を守れなかった出来事はなおさらだ。
「私はね、満月の夜は嫌な夢を見るの」
ぽつりとレイナは言う。
その言葉がルークの胸に冷たく忍び込む。
昔守れなかった友人も似たようなことを言っていた。
時々、嫌な光景を見る、と。
彼女が不安そうに呟いたことで、ルークは朝にジークから言われた事を思い出した。
『レイナさんは、『月の眼』が発現しかけてるんだ。まだ、彼女の母君の術で、眠っている間に発動するようになってるんだけど』
あの時のルークは一度拒否した。
もう人間に関わるのはまっぴらだった。
だけど、了承したのはジークの次の言葉があったからだ。
『今度はまだ間に合うかもしれないんだ。ずっとそばにいれば、二回目の悲劇は防げるんだ』
ルークは人間と関わるのは嫌だった。
でもそれは、友人を守れなかったことに起因する。
きっと誰かを守ることができたなら、ずっと苦しかった罪の意識から解放されるのではないか、とルークは思った。
「俺の友人も、似たような事を言っていた」
気がつくと、ルークはそんなことをレイナに言っていた。
三百年前、友人だった王子のことだ。
彼は必ず満月の夜におかしくなった。
なるべくルークもそばにいるようにはしていたのだが、当時はルークも専用の部屋を持っていた。
だから夜、眠っている時に間に合わず、彼は嫌な光景に囚われたまま自ら命を絶った。
多くの竜を道連れにして。
「彼の場合は寝ている時ではなかったが。昼間でも目眩とともに嫌な風景を見るそうだった。俺は彼がそんな光景に囚われた時によく引き戻したんだ。――俺の声だけはそんな状態でも届くらしい。嫌な夢を見たら俺を呼べ。必ず、引き戻す」
それはかつて誰かを守れなかったという彼の悔恨に基づくものだ。
だが、同時にレイナにとっての救いでもあった。
「本当? あの夢の中から助けてくれる?」
「ああ、約束する。だから今日はもう休め」
囁くように扉越しに伝えると、レイナは安堵したようだった。
少し明るくなった声が礼を伝える。
「ありがと。何だか、ほっとしちゃったわ」
「それは何よりだ。ぐっすりと休むがいい」
声が途絶え、衣擦れの音と共にレイナの気配が扉から遠ざかるのをルークは感じた。
しばらくその場から動かずに、ルークは考え込む。
満月の夜は不寝番、というわけにもいかないだろう。
しかし、できるだけ気配を感じるところにいなければならないことは間違いない。
案じたルークは、寝椅子を扉の前に持ってきて、そこで横になった。
目を閉ざし、耳をよく澄ませるとレイナの気配を感じる。
音を聞き取る事、声を届かせることはルークの得意分野だ。
今宵はこのまま休んで様子を見よう、とルークは思った。