月の綺麗な夜2
月が天頂へと差し掛かる真夜中。
ルークは誰かに呼ばれたような気がして目を覚ます。
意識が急速に浮上して、目を開いた後、寝椅子に立てかけていた愛用の武器を手で探った。
耳を澄ませると、隣室から小さな声が聞こえる。
「まずいな……」
王女が夢にうなされている。
しかし、部屋に無断で入るのは躊躇われた。
――だから一緒の部屋で寝起きすればよかったのに。
ジークが呆れた表情で呟くのが見えるようだった。
「ああ、もう!」
心の中でレイナに謝り、続きの部屋の扉を開ける。
当然のように、そこには鍵がかかっていなかった。
明かりらしい明かりもないまま、ルークはその部屋へそっと忍び込む。
闇に慣れた目にはそれでもちょうどよかった。
「うっ……ううっ……」
嗚咽のような声が、広い部屋の一角にある天蓋つきベッドから聞こえる。
ルークは慎重な足取りで、ベッドで眠る王女に近づいた。
まだ目を覚まさぬように。
さて、どうしよう。
ルークはそばまで来ておいて迷った。
レイナをどう呼ぶか、である。
わざわざ『様』をつけて呼ぶ柄でもないが、呼び捨てで呼べるほどの親しさではない。
これがもっと彼女が小さいころからの護衛であったならば、躊躇いなく呼べたかもしれなかった。
「――レイナ・オーロラ、夢から覚めろ。それはこの世にない風景だ」
結局彼は形式ばってフルネームで彼女を呼んだ。
「俺の声が聞こえるだろ。目を覚ませ」
少しするとレイナが目を覚ます気配があった。
暗い部屋の中にぼんやりと浮かぶ二つの赤い光。
王女の目がぼんやり赤く光っていた。
予想通りの光景に、ルークは渋面になるが、まずレイナに聞いた。
「俺が見えるか?」
レイナはぼんやりとどこか遠くを見ている。
夜闇の中、ルークが見えないにしてもよく見ようと目を細める仕草さえ彼女はしなかった。
ここではない、今ではない、別の光景を見ているのだ。
「どこ?」
「ここにいる。お前は今、何が見える?」
レイナはすぐには答えなかった。
短い沈黙の後に王女は口を開く。
「――城も山もこの街も消えてしまうわ」
ルークはその言葉に昔の傷が痛んだ。
不吉な予言。
かつてルークが守っていた王子もそんなことを言っていた。
また、自分がルークを殺してしまう、とも。
彼の言っていた事の中の一つは、実際に起こりかけたことだった。
だから、それもきっといつか起きる事なのだろう。
確実な事はそれが今起きていないということだ。
「俺の声に集中しろ。城も山も街も無事だ。まだ、何も起きてなどいない」
「でも……」
「いいから。何も考えるな。明日何をしようか考えるのがいい。明日はゆっくり休むといい。昼過ぎまで寝ていても構わない。その後は、そうだな。気分転換に散歩でもするか?」
なるべく彼女に長く声を届けるために、ルークは必死に考えた。
他に何ができる? どんな話をすればいい?
答えの返らぬままどんどん話を進めていくと、レイナは小さく吹き出した。
「庭を散歩したぐらいで、気分転換になるものですか」
レイナの焦点がしっかりとルークに合う。
しかしまだ目は赤く光っている。
「俺が見えるか?」
「見えるわ。ビックリするぐらいはっきりと、表情まで見えるわね。焦ったその表情《かお》、傑作だわ。どうしてこんなにはっきり夜なのに見えるのかしら?」
不思議そうな声が聞こえた。
恐らく首を捻っているのだろう。
ルークはどこまでを彼女に伝えていいものか悩んでしまう。
「そういう時もあるんだろう。俺には、お前の表情をはっきり見ることはできないわけだが、な」
「それで済むの?」
「俺もどういう原理なのかは知らないんだ」
原理がわかれば対処も見えてくる。
しかし、ルークにわかるのは、『声掛け』という相手を現実に繋ぎとめる接点を作る事のみだった。
「こんなんじゃ、おちおち眠ってもいられないわね。夢が怖くて、休めそうにないもの」
「それでは、気が済むまで俺と話でもするか? 俺の経験上、不安な気持ちが大きいほど悪い夢を見るものだ。気を紛らわせれば、そうでもないだろ」
ルークはなるべく軽くレイナに伝えた。
対するレイナは疑わしそうに唸っただけだが、仕方なしに身体を起こしたようだった。
城の華やかな場所とは程遠い、竜の領域にも近い王城の外れも外れ。
そこに静かに佇む塔の、一番高い部屋のバルコニーに夜着に身を包んだ女性が佇んでいる。
本来なら草木も眠るような時間であるが、女性はただ空の月を見ていた。
歳の頃は一目にはわからない。
若い女性のように艶やかな肌は二十代と言っても通用しそうだが、落ち着いた光を持った瞳は年を経たようにも映る。
彼女はこのフイネイの王妃、サーラであった。
息子や娘と並んでも彼らが親子だと信じる者は恐らくいない。
国王と並ぶと、彼女も王女だと思われそうな若い外見だった。
「月の光は様々な術の起点にも使われるもの。身体の具合はどうでしょう?」
サーラは月の光を浴びたまま、背後の部屋の中に声を掛けた。
柔らかな声に対して、くたびれたような声が返る。
女性の声であるが、病気でもあるのか弱った声でもあった。
「あなたの結界と癒しの魔法のおかげか、少しましだね……」
「それは、何よりです」
「だけど、この身体はもうそんなに長くない」
声はサーラの言葉に対してきっぱりとそう言った。
サーラは答えず、振り返りもせずにただ悲しそうに目を伏せる。
「それはわかっていたことだ。千年前撃たれた時から。延命もここまでだ。私はそう思っている」
女性の声には悔恨はなく、ただただ淡々と事実を述べた。
「だから、その前に後継者については、はっきりさせておかなければ。炎竜王《エアスト・フレンメ》と同じことになる。――ルークは王女と上手くやれそうかな?」
サバサバとした口ぶりの中で、一瞬だけ心配そうな響きで彼女はサーラに問いかける。
「私にはよくわかりませんね。ただ、あの子の部屋の結界の感じからすると良好そうです。『月の眼』が、安定しています」
「よかった。妹のカルアから、もうすぐ使者が来るはずだ。そうしたら私の序列第一位《エアスト》という地位を、あの子に譲ろうと思う。使者の見極め次第だろうけど」
女性の声が弾んだものに変わった。
そこでようやくサーラは振り返る。
部屋の中には光る魔法陣があった。
複雑な紋様は実際に絨毯に描かれた物ではない。
サーラが緻密に魔力のみで作り上げている。
その中心に座る、黒髪の女性。
女の盛りを過ぎてなお、金の瞳の意志は衰えない。そんな女性だった。
ただ、その顔色は非常に悪いものだった。
土気色とまではいかないが、白く血管まで透き通るような肌だ。
その女性が、便宜上サーラの護衛役となっている竜だった。
「そちらは何か異変は感じませんか? 王が言うには抑え込む『彼』の様子が、何か企んでいる風だったそうなので」
サーラの問いに、女性は首を振る。
ただ、少し気になることがあるようで、女性はそのことを口にした。
「この間から王都の方から闇竜の気配がする。契約者を得てここまで来たとしたらいいのだが、目的がわからないな」
「今度体調のいい時に一緒に行きましょうか?」
本来サーラは王族であり、護衛には竜がつく。
しかし、竜の女性は身体が弱っていて、護衛の荷は重すぎる。
「護衛もできない竜を連れて行ってどうする?」
笑いを含んだ女性が、悪戯っぽくサーラに問いかけた。
一方でサーラはにっこりと笑って返す。
「ふふっ。私の結界を突破できる方がいらしたら、お目にかかってみたいですね。王都には私の部族も何人かいますので、大丈夫」
サーラが一歩一歩女性に近づいて、足が魔法陣に触れる。
そうすると、解けるように浮かんだ魔法陣が消え失せた。
女性が立ち上がるのを手を添えて助けながらサーラは言う。
「さて、今日はもう休みましょうか。風竜王《エアスト・ヴィント》」