◆ 『花嫁』
「おはよー……」
階段を下りてすぐの扉を開け放ち、ミナミが寝ぼけ眼で挨拶をする。ダイニングには彼女以外の姿がすでに揃っていた。
「おはよー、ミナミー」
彼女の声に真っ先に返事をしたのはマサアだった。周りに花でも飛んでいるような笑顔で、ミナミにこっちこっちと手招きをする。朝の光の中で陽色の髪が眩しい。
手招きされた席はキーナの隣であり、桃色のランチョンマットの上には温かなコーンクリームスープとスクランブルエッグが鎮座している。テーブルには他にも二つのバスケットが置かれていて、クロワッサンやクイニーアマン、ジャムを詰めたデニッシュなどが用意されていた。
甘い匂いは寝起きのミナミの鼻をくすぐり、空腹を思い出させる。ちらりと向かいに座るマサアを見れば、「頂きますっ!」と言うや否や、早速パンへと手を伸ばしていた。一人が手を出せばあとはもう、なし崩しであった。
ミナミもすぐに「いただきますっ!」と言ってスクランブルエッグをフォークで掬う。向かいに座るマサアの右隣ではケイヤがコーヒーに口をつけていて、さらにその隣のタヤクもパンをむしっては口に放り込んでいた。
ミナミの隣に腰かけるキーナは、水を飲みながらその様子を微笑ましげに眺めている。表情の変化がわかり辛いキーナではあったが、二年も一緒に暮していれば段々と理解出来るようになっていた。
逆に、ケイヤは今でも全く分からない。どんなときでも無表情で、彼が怒ったり笑ったりしたところを、ミナミは全く見たことがない。
――ケイヤのことが理解できるのは、キーナとマサアだけなんだろうなぁ
そんなことを朝からぼんやり考えながら、大好きな木苺のパンにミナミが手を伸ばそうとしたとき。
「うっわ。マサアいつの間に調理なんてできるようになったわけ?」
ミナミの耳に聞き慣れない声が飛び込んできた。
声の主はミナミの隣に座るキーナの横に坐していた。
ミカノ・ハラル。
それが女性の名前であった。
深紅の髪は朝の光に対して色鮮やかに照り映え、高く一つに結わえているのだが、ゴムにかからない両脇の髪は頬を緩やかに滑っている。濃い緑色の瞳は猫のように吊り上っていて、“絶世の”とつけても文句のない美人であったが、いまはその唇を拗ねたように突き出してマサアを睨んでいた。
「おれだって元々簡単な料理くらいは出来たぞ! “鳥籠”の中じゃそんな機会なんてなかっただけじゃんか」
「ま、それもそうねー。あ、パン美味しい」
あっさりと彼の言葉を流し、ひょいと小さめのパンに手を伸ばす。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。
「……」
そんなミカノの横顔を、スープを啜りながらミナミがじっとりとした目つきで見つめていた。その眼は彼女のことを警戒しているようにも見えた。
ミカノは昨晩現れた化け物に止めを刺した張本人であった。
ついでに言ってしまえば、その化け物は“鳥籠”から逃げ出したミカノに向かって差し向けられたものだったらしい。
ミナミもこの二年の間に、少しではあるがキーナたちから話は聞いていた。
彼女たちは“鳥籠”という場所に連れていかれ、そこに閉じ込められていたということ。ミカノがその“鳥籠”を炎の魔法を使って破壊し、混乱に乗じて彼女を抜かした四人が逃げ出したこと。
その話を聞いている間、タヤクがずっと俯いていたことが、ミナミの印象に残っていた。いつも穏やかに笑ってくれる彼が、唇を噛み、悔いるように顔を伏せていたのだ。
――自分が残って陽動すればよかった
タヤクはそう言ったのだが、彼には建物を破壊するだけの力はない。壁に穴を開けるとか、そういったことは出来なくはないのだが、陽動には向いていなかった。
“鳥籠”には彼ら五人が監禁されていた場所以外にも幾つかの建物が並んでいた。外から見れば一様に白い円筒形であり、精々高さが違う程度だろうというのはケイヤの弁である。
通常は一つの建物に五人が揃っているのだが、“検査”をする際は一人ずつその建物から出され、別の建物へと連れられて行く。その他にも“飼育者”たちがいるのであろう建物や、何に使われるかも定かでない建物もあったとミナミは聞いている。
それらを一度に崩壊させ、混乱させることができるのは、ミカノしかいなかった。
タヤクもケイヤも、それぞれ己の拳と剣で戦う為、魔法は使えない。それでもケイヤには僅かではあるが魔力はあるとキーナは言う。けれど、タヤクには一切の魔力がなかった。
どんな人間でも、それこそ生まれたての子供であっても微量ながら魔力というのは備わっているのだが、彼には全く微塵もないのだ。ある意味稀有な存在と言えよう。
マサアは下位の魔法ならば扱えるが、魔力がそれほど高いというわけではなく、そんな人物が放つ魔法の威力などたかが知れている。
高位の魔法も使えるキーナはというと、彼女が残ることにはケイヤやマサアはもちろん、ミカノも反対したらしい。
――キーナに危ないことをさせたくない、って言ってたらしいけど……
ちらりと横目でキーナとミカノを交互に見る。たしかにミカノも線は細いのだが、それを補ってなお余りある快活さを感じさせる。華奢で頼りなげなキーナとは雲泥の差である。
どちらに任せた方が安心できるかは、一目瞭然であった。
そうして四人が無事に逃げ出した後、ミカノはしばらく“鳥籠”に残っていた。本当はキーナの魔力を辿ってすぐに合流したかったのだが、如何せん“飼育者”たちの監視の目が厳しくなってしまったのだ。
迂闊に動くわけにもいかず、チャンスを待ち続けていたとミカノは言う。
ようやくその機会が訪れた時には、二年もの間が空いてしまったのであった。
そういったこともあり、ミカノはミナミ以外とは旧知の仲といっても過言ではない。“鳥籠”でどれだけの年月を過ごしたのかまでは聞いていなかったが、タヤクと軽口をぽんぽん言い合い、キーナが優しい笑みをこぼし、ケイヤまでもが彼女のからかいの対象になることがそれを示している。
しかし、どれだけミカノと四人の仲が良かろうと、ミナミには不快なだけであった。
彼女からしてみれば“ぽっと出の女が自分の友達を根こそぎ奪っていった”というような感覚なのだ。特に、マサアがミカノとじゃれあういまのような光景を見るのが嫌だった。
――なんか、なんかすっごくイヤっ!!
頬を膨らませて、思わずじろりとマサアを睨んでしまう。キーナは彼の幼馴染だと聞いているので、最近はあまり嫉妬をしなくなってきた。けれど、この深紅の女性は違う。
ぎりぎりと射殺せそうなほどの視線をミカノに向けると、彼女はそれに気が付いたのか、ふとミナミの方へ顔を向け、視線がかち合った。
……間が悪かったのだ。
口いっぱいにパンを詰めていたミナミのことを、愉快そうににんまりと笑いながらミカノは言ってしまう。
「ミナミって、小動物みたいで可愛いかも」
「……」
その一言で、ミナミの中の何かが音を立てて切れた。
「もう我慢できない!!」
叫ぶようにそう言うと、がたんっ! と大きな音を立てて席を立つ。タヤクは驚いて目を見開き、マサアは手にしていたスプーンをテーブルに落とす。ケイヤとキーナは平然としたもので、与えられた物を変わらず黙々と食べ続けていた。
「ねえっ! この人何なの?!」
「や、だから俺たちのともだ……」
「マサアのその説明じゃ分かんない!」
「あぅ」
途端にしょぼくれるマサア。ミナミはそんな彼に目も向けず、
「なんか分からないけど、その人が嫌!」
「って、言われちゃったよキーナちゃん」
「らしいわね。聞いてるわ」
「どうするー?」
「自分で考えなさいな」
くすりとキーナが小さく笑った。ミナミにはそれすらも不愉快で。
「もうやだ! 花嫁とか何にも分からないし、その人もいきなり仲間扱いされてるし!!」
「あー……。キーナ、お前まだ何にも話してないのか?」
ミナミの声に乗る形でタヤクが訊ねてくる。それにつられて他の四人も視線をキーナへと向ける。なんとはなく、ミナミの視線が一番痛くて怖い。
「そうだったわね。何も説明してなかったわ」
あっさりとした声音で答えると、彼女は手にしていたフォークでスクランブルエッグを一口咀嚼して、クロスの上にそっと戻す。
「いい機会だから、ミナミにもそろそろ知ってもらいましょうか」
静かに零れるキーナの声は、小さくとも透き通っていて耳に心地よい。けれどもいまは、淡々とした冷たさだけが輪郭としてくっきりと浮かび上がっているかのような、そんな印象をタヤクは覚えた。
あれだけ興奮していたミナミですら、彼女の声音に何かを感じたかのように、おとなしく椅子に座り直す。
「“鳥籠”や“花嫁”、そして“騎士”のこと。私たち自身も、決意を改めるために……」
呟くキーナのその姿はどこか悲しげで、それ以上に何かの覚悟を決めるかのようにも見えた。