◆ 怒り
透明度の高いその氷に触れてみるが、特別冷たいとは思わない。鉱石を触っているような、奇妙な心地良さが手のひらに伝わった。
「封印というよりも、結界か? 他人を寄せ付けんが為の……」
彼以外に動くものがいない部屋の中を、ぶつぶつと呟きながら歩き回る。
焼け焦げた床は歩くたびにザリッ、と耳障りな音がして、声に出さなければ思考がまとまらない気がしたのだ。
部屋のほぼ中央に居座る、キーナを閉じ込めたそれをちらりと見る。
――魔力だけならば、世界中の誰も敵わない娘が創りだした氷か……
ぎっ、と音が出るほどに、自身の右手指の爪を噛みしめる。彼女の魔力に及ぶものが“鳥籠”にいるかどうかが、ソエルの気掛かりであった。
ソエルは、キーナが死んでいないことを確信している。
封印や結界系統の魔法というのは、魔法の道具――マジックアイテム等の媒介がない限り、術者の死亡とともに効力を失うからだ。見た限り、彼女はそのテの術具を身につけていない。
「……」
キーナが術を唱えている間は動揺したが、落ち着いて考えれば、これはとても良い状態だと気が付く。抵抗もされず、逃げられる心配もないまま“鳥籠”へ戻せるのだから。
「問題は持っていく方法だな」
魔法の氷とはいえ、衝撃で粉砕する恐れもある。氷が割れるだけならばともかく、中身まで砕けてしまっては困るのだ。
「むぅ……」
唸り、こつこつと氷を軽く叩く。
どう持ち運ぼうかぐるぐる動き回りながら考え込んでいると、氷の少女の奥、焼け焦げたドアの向こうから聞こえる破壊音をソエルの耳が捉えた。
「?!」
思わずビクリと身を震わせたソエルは、反射的に部屋の入口へと顔を向ける。その表情は疑問と、得体の知れないものへの恐怖に歪んでいた。
「なんだ? 何をしている……?!」
バタバタと、先ほどよりも大きく聞こえるようになったその足音は、確実にソエルのいる部屋に近付きつつあった。
この屋敷には領主であるソエルを護るために、多くの兵士が務めていた。しかし、不審な足音が近付いてきていると言うことはすなわち……
「まさか、倒されているというのか?!」
驚愕に目を見開く。
ソエルは街にあるギルドに所属する精鋭や、たまたま自分の領内の村などに立ち寄った旅人など、かなりの腕を持つ者ばかりを厳選し、自分に仕えさせていた。領内に不逞の輩がいればすぐに派遣し、鎮圧させることもままある。
――大抵の賊は簡単に叩きのめせるほどの奴らばかりなんだぞ?!
額から流れた汗は顎を伝い、焦げた床に落ちる。驚愕からより一層濃くなった恐怖へと、彼の表情はくるくる変わった。その間にも、破壊音は一層派手に響き、足音はどんどんと近づいてくる。
そうして数十秒の間に、反響するだけだった音は爆発的な衝撃を伴って、扉を叩き壊した。
「キーナっ!」
氷漬けの少女の名を叫んだのは桃色の髪をした幼い娘だった。ソエルが知っている“花嫁”に、こんな幼い子供は存在しない。
しかし。
「お前らは?!」
いまにもキーナに駆け寄ろうとする少女の後ろに立つ四人のことは、知りすぎるほどに知っていた。
「おま……っ」
いきなり現れた五人に目を丸くして驚く。
罵倒の言葉か、それともキーナを人質にした脅迫の言葉か。
とにかく口を開こうとしたソエルを抑えたのは、溢れる殺気を抑えようとしないマサアだった。
「――おまえが、領主か?」
「っ?!」
声をかけられたソエルだけでなく、傍で彼の声を聞いたミナミの肩もぶるりと震えた。それほどに芯の冷えた問い掛けだった。
焼け焦げた部屋の中を、ソエルへ向かって無防備に歩を進める。彼の目の前に立った時、普段纏っている無邪気な光がマサアの瞳から消え去った。
「なぁ、あんたが領主?」
「あ……」
「ゴロツキ雇って地竜使って村人支配してケイヤを傷つけてキーナをこんなにした――お前が、領主か?」
――ごすっ。
言い終わらないうちに、マサアの拳がソエルの頬を殴りつけた。ぼぐっ、という鈍い音がして、頬骨が折れたことが分かる。
「あ……あぁっ、あぁぁぁっ!?」
「これぐらいで喚くなよ。ケイヤなんて村の奴らに殴られて」
どすっ。
「蹴られて」
がすっ。
「刺されて」
ごっ。
「――痛かったんだぞ、それはそれはとてもとても」
爪先で何度も何度も、ソエルの腹を、背を、こめかみを、顎を、蹴り飛ばす。
「ばぁふ……っふぁ」
「それでもって、キーナのこともか?」
「あああぁっ!!」
清潔だったソエルの姿は今やボロ雑巾に成り果て、ありとあらゆる場所から血が垂れ流れている状態だった。きれいに撫で付けていた灰色の髪も、ばらばらと蒼い瞳にかぶさっている。
キーナと対峙していた時の面影は少しも残っておらず、マサアの圧倒的な力に蹂躙されていた。
ミナミはその様子を呆然と見ているだけだった。
ミカノとタヤクにランダンであらかじめ聞いていたが、それでも衝撃だった。
◆ ◆ ◆
キーナの行方を知るためにマサアが行った行動は、村人を一人残らず吊るし上げるというものだった。
一本ずつ指を折り、一つずつ関節を外し、気絶をしたら蹴り上げ。
そんな彼がミナミは恐ろしくてしょうがなかったが、マサアの顔は真剣そのもので、声をかけるのも躊躇われた。
「――ケイヤとキーナはね、マサアの家族なんだよ」
そう、ミカノは言っていた。
「三人とも親に捨てられて、孤児院で一緒に育った。二人とも人が怖くてしょうがなくて、マサアの陰に隠れっぱなしだった、て話よ」
「マサアもマサアで、懐かれるのは嬉しかったみたいでな。ほかの誰にも懐かない二人が自分にはぴったりくっついてくるのが、よっぽどだったんだろう」
幼いころの、見方によってはとてもかわいらしい思い出。
それでも、ミカノとタヤクの表情は、話が進むにつれて曇っていった。
「孤児院には他にもたくさん“家族”がいたって話だ。マサアの上にも下にも“兄弟”がいて」
「そん時に孤児院で、ね」
「……孤児院の先生が、キーナを売りに出したらしいんだ」
「そんなっ?!」
ミナミの口から驚愕の声が漏れる。
「キーナを買いたいなんて物好きがいるの?!」
「いやいやいや」
そこでボケはやめてくれ、とばかりに手をパタパタ振るタヤク。ミナミとしては本気の突っ込みだったのだが、ミカノは構わず続けた。
「キーナちゃんの魔力に目をつけたらしいわ、“鳥籠”の奴らが」
「キーナをやる代わりに金を寄越せ、っていうのが孤児院の院長さまのご要望だったらしい」
「ひどいっ!」
眉根を寄せて非難の声を上げるミナミであったが、すぐにその表情は一変した。
「まぁ、そのあと先生も殺されたらしいけどな」
「……え?」
さらりと言うタヤクの言葉に、一瞬反応が遅れる。
彼の言葉の意味を理解するよりも早く、ミカノの口からも情報がもたらされた。
「口封じでしょ。“鳥籠”のやつらならやりかねないし」
「そんで孤児院も燃やされた」
「え?」
「マサアの“兄弟”は全部切られて折られて撃たれて捻じ曲げられて、それでから燃やされた」
淡々と。
タヤクとミカノは語っていくが、ミナミには理解できない
なんだその人生は。
「ケイヤとマサアは、たまたまキーナとの相性がいいから“騎士”として拾われた、ってわけだ」
「あの時のマサア! 必死なのはわかるケド、少しは落ち着けってーの」
「あぁ。“鳥籠”で一緒になった時のものすごい警戒心」
「もー、近寄るもんも近寄れない! こっちだって行きたくてあんな場所いったんじゃないっつーの」
その後もミカノとタヤクは何かを言っていたのだが、ミナミはすでに二人の話を聞いていなかった。雑音のように遠いものとして受け入れながら、ケイヤと、彼が見ているマサアとを見る。
ケイヤの傷はすべてミナミが回復した。たかが村人の攻撃は、それゆえに手加減も限度もなかった為に、かなりの回復魔法を重ねた。
その彼がじっとマサアを見つめながら、口を開く。
「あいつを怖がらないでくれ」
「……え?」
「マサアは、あいつは優しいだけなんだ。昔守れなかった分も全部、自分の傷にもせず、ただ他人の為に力を振るう」
「……」
「あいつは、そういうやつなんだ」
はじめて、ケイヤが顔を歪ませた。
それはとても悲しそうで、すまなそうで、やっぱり悲しそうな。
「……うん、知ってるよ」
だからミナミは答えた。
「わたしはマサアが大好きなんだから」
◆ ◆ ◆
――そう、わたしはマサアが大好きで
――ケイヤ達を傷つけたこの人を許せない
「ぐぶっ」
びしゃぁっ、と、殴られた拍子にソエルの口から大量の血が吐き出された。そのまま崩れ、倒れる。
彼の腕は妙な方向へと折れ曲がり、足はがくがくと痙攣が治まらない。両の目は閉じられて、まぶたがパンパンに腫れ上がっていた。細い呼吸を繰り返すが、もはや気絶しているのかも定かではなかった。
「ケイヤ、服ちょーだい」
何事もなかったかのようにマサアはくるりと仲間たちへ向き直り、片手を出して催促する。もうソエルに対する“制裁”は終了したらしい。
呼びかけられたケイヤは空間を斬り、マサアの服だけをずるりと取り出して渡した。
「さんきゅ」
そのまま焼け焦げた部屋で唯一無事な四隅の一つに移動して、ばさりと服を脱ぐ。ミカノとミナミがいたがお構い無しである。
そんなマサアの性格を知っているからか、他の四人は早々にキーナの傍へと駆け寄った。
「――ミナミ」
上着を脱いだ彼のそばを通り過ぎようとしたとき、不意にミナミを呼びとめる声が聞こえた。いつもは明るく朗らかな声が、妙に固く、重く聞こえたのは気のせいではないだろう。
「……ごめんね」
少し。
寂しそうな声で彼は言う。
ミナミが言うことはもう決まっていた。
「マサアは守っただけだよ」
それ以上は何も言わず、マサアもなにも返さなかった。
ただ、少しだけ泣いた。