◆ 解放

『愛を司る者 情愛を見守る者 全てを懐に抱く 大いなる神風』

 砂漠の空にキーナの声は朗々と響き、広がる音には魔力が宿る。

『汝が目 汝が心 汝が意思 そのこと如くを蒼天に写したまえ』

 キーナの“力ある言葉”に反応して、ミナミの腕に着けた腕輪がちりちりと鈴のように鳴り出した。

「?!」

 その音に呼応するかのように、全く身動きが取れないはずのミナミの、腕輪を嵌めている左腕のみが、強い力でぐんっ! と上に引っ張られる。

「いっ」

 ぶちぶちと、何かが切れるような音が全身を走った。
 ワイヤーでがんじがらめにした腕を一気に引き上げるような、無遠慮な痛みに涙が滲む。

 “痛い”と思った時にはもう、ミナミの口から絶叫が溢れ出ていた。

「っやぁぁぁぁっ!!」
「おい、お前ら結界の強度を上げろっ!」
『今やってるっ!!』

 ハイネに怒鳴り返すマサアとミカノ。二人の声は重なって、同時に結界の威力も増してきた。
 その様子を黙って見ていたケイヤとタヤクも表情を険しくする。

「あぁ、ああ……っ! うぁ」

 ミナミの口からは呻き声しか出てこない。大きな紫の瞳は見開かれ、涙がとめどなく流れては砂地に落ちていく。無理やりに引き上げられた左上はところどころが変形し、鬱血していた。

 痛々しい少女の悲鳴を耳にしながら、キーナは黙々と詠唱を続ける。

『虚空 疾風 映せ理 逆巻け落ちし時 汝が心と沈め』

 天高く振り上げられたミナミの左腕ががくがくと震え出し、ぎゅっとこぶしを握った。

「ミナミっ!」

 マサアの声に視線だけそちらに向ける。彼の顔は悲痛に歪み、爪が刺さるほど握りしめた拳にはうっすらと血が滲んでいた。



――そんな泣きそうな顔しないで
――泣きたいのはわたしだよ





『泣いたらいけないの』




「?!」

 目を見開くと、溢れていた涙がぱっ、と宙に散る。
 どこか遠くから女性の声が聞こえた……気がした。




『あの人の何もかもを奪ってしまった』
『大切な愛し子』
『あの子の家族も 未来も 命も』




 悲痛さに溢れた声がミナミの脳を揺さぶる。砂嵐の中、キーナの詠唱の声よりも強くくっきりと、その声は響いていた。



『フィル フィル』



 ミナミ以外の誰にもその声は聞こえていないようで、マサアたちの視線はただ心配そうに血に塗れる彼女へと注がれている。

 ぎりぎりと痛む腕に汗が滲んでくる間も声は聞こえ続け、ミナミはその声こそ腕輪の持ち主――慈愛の女神、アフロディテのものだと気が付いた。



――腕輪の記憶? アフロディテの記憶?



 頭に響く声が急に怖くなり、視線をきょろきょろと動かしてマサアの姿を探す。砂嵐が視界を遮っていて魔法陣のすぐそばにいるはずの彼の姿はなかなか見つけられず、恐怖心だけが増していく。

 呼吸が荒くなったのは腕の痛みのせいだけではないだろう。

「は……っ、はぁ……っ」

 涙に濡れたアメジストの瞳はあちこちを彷徨い、そして、詠唱を続ける華奢な黒い人物を捉えた。

「キ……」

 喉が渇いてまともに声も出なかったが、ミナミの視線の先には見慣れた黒衣の女性が朗々と詠唱を続けている姿があった。
 吹き荒れる風によって、普段は丁寧に整えられた黒髪はばさばさとたなびいており、砂に汚されたせいか艶がない。

 目を閉じて集中しているのであろう、強大な魔力は感じられるものの、その声は風に邪魔されて聞こえなかった。



――風? ううん、違う……女神の声が……



 はっ、と何かに気が付いたミナミはキーナから目を逸らし、マサアがいる方へと視線を向ける。魔法陣の一角に立ったまま、彼は大口を開けて何かを叫んでいた。その声も聞こえない。

 腕輪の力を解放する直前、「聞きたい声を聞いて」とキーナに言われたことを、ミナミはようやく思い出す。頭の中……いや、体の内側から溢れるように反響し続ける声は、ミナミの体を徐々に侵食していた。

 仲間の声も届かない深い深い内側へ、ミナミを引きずり落とすかのように。



――負けちゃ、だめ……
――わたしはミナミ、女神じゃない




『フィル』



 柔らかな声は、それでも抵抗することを拒むように強く反響する。頭を振って追い出してしまいたかったが動かすことは叶わず、声はべったりと張り付くように重くなっていく。


――誰だろう、フィルって……


 ぼんやりと視界が滲んでいくのと同時に、ミナミの意識はもやがかかったように白くなった。響く声に疑問を抱いた瞬間、ミナミの意識の一端が声の主にがっちりと捉えられてしまったかのように、彼女は考えることを放棄した。



『愛しすぎてしまった……っ』



――どうし、て……



 ミナミが覚えているのはそこまでだった。

 見開いていた大きな瞳が閉じたのをマサアが“見た”と思った時にはもう、彼女の小さな体は熱い砂地に倒れ込んでいた。

伽世
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伽世

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